2017年、福岡高校創立100周年で記念文集「おおぞら」が発行されました。私も福岡高校水泳部で昭和34年(1959年)全国大会/浜松に出場し、この記念文集に下記投稿をしました。丁度1964年(昭和39年)東京オリンック開催の5年前に当たり、水球部門の第1回のオリンピック強化合宿が有り、全国高校生の中から20名ほど選抜され、その中に私も入っていました。(福岡高校は昨年ノーベル賞を受賞した大隅良典博士の出身校で一躍世間の注目を浴びました。私はお姉さんと一緒のクラスに居ました。)
 

    昭和34年 水球で全国大会(全国高等学校体育大会)/浜松に出場              12回生 三木昭男

今から思えば本当に不思議な気がします。福岡高校の内庭には立派なプールが有りました。しかしプールには水が入っていません。私が福高に入ったのは昭和32年で、未だ 世の中貧しい環境でした。プールに水を入れると夜、近所の人達がお風呂代わりに沢山来るとの事で治安管理が出来ないと言う理由を聞いていました。その福高に水泳部が有りました。3月末頃から10月初め頃まで市電に乗って箱崎の九州大学工学部の奥にあるプールを借りて毎日練習に通っていました。そんな練習環境で、何で水泳部が継続されてきたのか?またまた驚いたのが水泳部と言っても練習の主体は水球でした。当時誰に聞いても「水球(waterpolo)」の事を知っている人はいませんでした。何故にプールの無い福高水泳部で「水球」が続いてきたのか?現在の福高水泳部でも水球が続いています。20年ほど前、津屋崎出身の永田君が筑波大学に進み、全日本のメンバーに選ばれて世界各地で活躍されたとも聞いています。誰が福高水泳部に「水球」を持ち込んだのか?何故に今も継続されているのか?その答えは分かりません。
不思議その2:その水泳部に泳ぎの得意でもない私が、寒さに弱い私が何故に入ったのか?今でも動機が分かりません。全くの偶然でしょう。強いて思い起こせば、私は1942年(昭和17年)上海生まれで終戦の年昭和20年3月に引き上げてきました。六本松の九大教養部の前付近で福岡大空襲に遭い、家の裏の防空壕で「煙い煙い」と泣いていた記憶が有ります。家ごと焼かれ油山に疎開、その後、親戚を頼って西中洲で育って春吉小学校から九大卒業まで過ごしました。当時遊び道具も無く、夏は春吉橋から中洲大橋の間で毎日那珂川で遊んでいました。何度か溺れかかった記憶もあります。きっとスポーツと言っても水泳位しか知らなかったのでしょう。(春吉中学では体操部で、マット運動、鉄棒、跳び箱、徒手体操など足腰を鍛えました)
不思議その3:水球は7人での団体競技です。最低7人の選手が居ないと試合に出られません。私が一年で入部した時、3年生に馬渡雅夫さん(後にキリンビールの常務さんまでなってご活躍、今は横浜に御在住)、二年生に田川さん(競泳で1500mでご活躍)古藤さん、山崎さん、高田さん、そこに一年生で我々青木淳一君、石原昭文君と私、ぎりぎりの人数です。このメンバーが毎日九大まで通って練習です。バケツに水を入れ両手で支えながら足を回して浮力を付ける練習や、テニスの板打ちと一緒で、立ち泳ぎをしながらスタート台の壁を利用して板うち等単純で結構嫌なものでした。ボールは大きさも重さもバスケットボールとバレーボールの間ぐらいで勿論手で掴むことは不可能で、「手に付ける」と表現しましたが手に慣らすのが基本練習でした。キャップの馬渡さんが怖かった。練習休もうものなら馬渡さんにこっぴどく叱られました。しかし先輩達が入れ代わり立ち代わりコーチに来てくれていました。馬出の駅前の酒屋さん高木敏行先輩、早稲田で水球をやっていた永富幹浩/カンチャン、司法試験の勉強しておられた川本隆(後に確か女性セクハラ裁判で全国ニュースになりました)さん、九大の水泳部に居た小笠原(後御結婚後藤山)さん、工学部の祝さんなど、夫々お仕事や学業にお忙しい中、わざわざ九大プールにお見え頂き、練習のご指導を頂きました。古き良き時代でした。
不思議その4:昭和34年夏、当時福岡県水泳連盟で世話をしておられた葉室さん(オリンピック選手葉室 鐵夫さんの弟)のお世話もあり、当時福岡でのライバル筑紫が丘高校とはしょっちゅう試合をしおりましたが、我が校が推薦され、岩熊先生と高木先輩が引率者で全国大会/浜松に行きました。夏休み中で在校生にはほとんど知られないままのインターハイ出場で見送りには当時生徒会長の園井君だけが博多駅に来てくれました。メンバーは石原昭文、青木淳一、松吉達二(故人)、高祖真郷、仲久夫、平沢正人(故人、プロの演歌歌手として活躍)、三木昭男、(今も石原、青木、仲君とはメールの交換をしております)。戦績は、1回戦でその年優勝の京都鴨沂高校(明治4年に日本最古の官公立の高等女学校として創立された京都一女を前身とする伝統校)と対戦、完敗しました。競技者人口の少ない水球でなぜ全国大会に出場できたか、今も正確には経過が分かりませんが、やはり5年後に控えた東京オリンピック開催が影響したのかな〜と思います。全国から水球選手を集めオリンピックに向けての強化、育成が目的だった気がします。

1回戦:信愛高校プール(石原君写す)                           博多駅出発
 
不思議その5:またまた信じられない事に、大会終了後、5年後の東京オリンピックに向けて、第一回の「オリンピック強化選手合宿」が10日間ほど開かれ、全国から20名選抜され、そこに私も入っていました。鴨沂高校からは6〜7名参加。宿舎は浜松のお寺「浜松半僧坊別院」、練習会場は全国大会のあった浜松市民プールの飛び込み専用プール。後にこのメンバーからは4名が東京オリンピックに参加しました。練習は4人一組に分かれ水面のパスワークから始まり、次におへそから上まで浮かせてハイタッチパス、シュート練習へと進みますが、うまい順に毎日順番が変わる厳しいものでした。今初めて口にしますが、後半は球さばきに自信のあった私はいつもトップ4(鴨沂の竹内、斉木と同じ組)のチームに居ました。水連コーチから三木は「肩が良い」と褒められた記憶が有ります。シーズンオフの冬は、昼の弁当は3〜4時間目の休みに「早飯」と言って食べてしまい、毎日昼休みには運動場に飛び出てラグビーの試合をしたり、雨降りには体育館でバスケットに興じていたおかげでしょう。鴨沂の竹内選手は当時の競泳選手の100m58秒前後で泳ぎ、十分競泳でも活躍できる水準でNo1でした。勿論後にオリンピック主力選手として出場。約30年後、社会人となって私が伊藤忠鉄鋼部門で東京勤務の時、竹内君が新日鉄東京本社の広報部に居て、会いに行った事が有ります。その冬には東京の各大学水泳部員から沢山のスカウトの手紙を頂き、確か中央大学からは水泳部全員と思われる人達からのお誘いを受けました。私はたまたま九大の試験に合格し、母親からは「もうあんたには私立に行かせる余裕はない」とも言われていたし、九大に進みました。(兄が福高ラグビー部で卒業後早稲田のラグビー部でした)2020年東京オリンピックが決まり、丁度今が各種競技に選手強化対策の始まりになります。リオのオリンピックに何十年ぶりかの日本水球チームが参加したと報じられています。略55年前のわが青春時代を福岡高校で過ごした3年間を思い出し、福高12回生の悠悠会の友人に誘われ、福高100周年記念文集に投稿致します。

浜松合宿メンバーと水連コーチ2人。右側写真は浜松半僧坊別院にて。(奥山半僧坊方広寺はNHK大河ドラマ「井伊 直虎」のロケ地)


1964年東京オリンピック水球の応援に行きました。その時のチケット。



追記:当時の福高の思い出
一年入学の初日、担当の山前先生(数学)があいさつの中で、このクラスは優秀な生徒が多い、「入学試験1番の千手君、3番の石川新助君が居る」との事でした。女性陣は数名でしたが大隅順子さん、平山恵子さん、丸田容子さん等才媛が居て、さすが福高は凄いと思いました。しかし、2〜3年は女性のいないクラスで、高校3年間女性とは一度も口をきくことはありませんでした。特に印象に残っているのは、千手君が数学の時間、山前先生とある数学の問題で、その解き方について記号を使った数式で必死に議論していました。私にはチンプンカンプンの議論でしたが生徒と先生が本気で議論をすると言うことは大きな衝撃で今でもその風景が目に浮かびます。
もう一つ:これは九大に入って教養部時代各種クラスマッチが有り、ラグビーで修猷を破り優勝しました。当時、九大入学人数でマスコミや世間から修猷と福高の競争が注目を浴び、(私の学年は137名で修猷を上回り)、1月15日の平和台での社会人トップと学生トップの日本一を決めるラグビー試合が有りましたが、その前座試合が修猷と福高のラグビー対抗戦で、何かと修猷、福高のライバル意識が強かった時代でした。我々は福高チームを作り、福高時代体育部に居た柔道の岩崎君、バレーの安井君、野球の児島君、水泳の私などそうそうたる布陣でした。対する修猷は九大ラグビー部に所属するメンバーが9人いて皆が修猷が優勝すると思っていました。小雨降る中、地面は泥んこでボールは滑るし、跳ねず、キックは飛ばず3−0で勝ちました。試合後修猷の選手たちがラグビー部の先輩たちに叱られていたことが印象に残っています。大濠公園でのレガッタでは同じメンバーの8人でしたが、これは練習も積んで我々福高チームが優勝すると思っていましたが試合当日力が入りすぎて、オールが乱れ、流れがスムーズにならず敗退しました。時を経て今でも、場所も変え大阪の地でも、関西福高囲碁の会「うろうろ会」は修猷館囲碁の会「円猷会」と対校戦やっています。
2016年8月記

   
 
自己紹介:
2005年、定年退職後、中国河北省秦皇島(しんのうとう)の燕山大学(えんざん)へ留学し、中国語の勉強を始めました。 2年間 語学留学生、1年間日本語の教師として、2008年まで4年間過ごしました。 出身は福岡で福岡高校、九州大学(経済)をへて、伊藤忠商事で定年まで勤務しました。
当時、必ず出る質問が「中国語を勉強して何をするのですか?」です。私の年齢(当時63歳)からして当然の質問でしょうが、目的はありません。なんとなく今の中国が私が社会人になった頃(1964年)の日本の発展によく似た感じを受けましたので「今の中国を見たい」との単純な動機です。 家族や友人が心配しましたので、写真をべたべた貼って日本に中国の状況を送る事がこのホームページのきっかけでした。
メール
090922 近況

日本に帰国後、最近になって生活のペースもやっと安定してきた感じです。週に3回くらい梅田の日本棋院で囲碁。土曜日はマンション内の囲碁の会。そして週一回くらいのパソコン教室と金曜日午後は「孔子学院」で中国語講座。友達とマージャンが週に一二回。ゴルフが時々。

01
0909igo 02 090704igo
  火曜日は日本棋院級位者の「平野教室」。   毎月最終土曜日は福岡高校OBの囲碁「うろうろ会」。
03 0906konzi 04 img01[1]
img01a[1]

subimg01[1
ボタンをクリックしてもらえれば、リンクしています。
  孔子学院は中国政府支援の中国語講座で、先生は上海外国語学院から派遣された鹿欽倭老師。   孔子学院は世界各地にありますが、運営は各地の大学と中国の大学が共同で参加する組織です。
05 wave02 06 090910iw
  梅田にあるWAVEパソコン教室。圧倒的に若い人たちです。   9月半ば、久しぶりに北京訪問。頤和園。
2014 Oct 04
2014年夏の近況2点。
01 02
  SwissAlps旅行でフランスの大河ローヌ川(LeRhone)の源流、ローヌ氷河の前で。   シンガポールに居る孫に会いに行きました。
散歩に出かけた時、名門ホテル「ラッフルズRaffles」の正面玄関の インド人のドアーマンが抱っこしてくれました。 孫はじっとインド人を見つめていてなかなかカメラの方に顔を向けませんでした。

ホームへ
Link Free
Copyright Akio Miki. All Right Reserved.