中国の今  "Chinese Today"

ダイジェスト版。 要約しています。

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若き日憧れた外国留学を定年退職後の63歳(2005年)に実現しました。1964年(昭和39年)九州大学(経済)を卒業、伊藤忠に入社し社会人となりましたが、当時の日本の成長期によく似た中国を見てみたいと思ったのが動機です。言葉も何も知らない年寄りが単身で中国に渡ることは大きな不安でしたが、そして家族や友人達が心配して「今更何しに行くの?」と心配してくれましたが、老後の生き方を考えて「今がチャンス」と思い切って飛び込みました。縁あって場所は河北省渤海湾に面した避暑地 秦皇島(しんのうとう)市、学生数約3万人の燕山(えんざん)大学の語学留学生の外国語学院(学部)です。2005年から2年間留学生、その後日本語教師、当地中国企業の顧問などして結局2008年まで4年間を過ごしました。家族の不安や友人達の忠告に応えるために必死にホームページの作成講座に通って勉強し、現地報告をする為、ホームページ「中国の今」を立ち上げ、写真をベタベタ貼り付けました。これはその草の根の日中交流の記録です。

目次1、場所:中国河北省秦皇島市 燕山大学・・・ 
  2、留学生時代・・・・・・・・・・・・・・・ 
  3、教師時代・・・・・・・・・・・・・・・・ 
  4、燕山大学「日本語学科」学生達との交流・・ 
1、秦皇島
秦皇島の名前にも関係ありそうな遺跡が「秦皇求仙入海所」です。昔、日本の学校でも秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて、将軍や学者達を四方へ派遣したと習った記憶がありますが、ココ秦皇島がその祈願の場所、海へ送り出した所だったそうです。何年か前にマンション建設用地開発中に遺跡が掘り出され、急遽公園に整備されたそうです。公園に入った直ぐの騎馬軍団や、海に向かった始皇帝の立像、求仙殿などは新しく観光用に作られたものと思われますが、求仙殿の地下にあった何故か真っ暗闇の中、人々が自然の岩の上で海に向かって祈りをささげる群像だけは神秘的に紀元前250年を想像させるものでした。当時の海岸線だったのでしょう。通訳の梁さんはこれは伝説と言いますが。
公園の中にあった道教の小さなお寺には日本に送られた「徐福」の像も祀ってありました。徐福はココから60人の若者を連れて日本に向かったそうです。梁さんはこの子孫が日本の文化を築いたと言っていました。徐福伝説は日本各地にもありますが、中国 司馬遷の「史記」にある「3000人ほどを連れて旅立ち帰国しなかった」はやはり伝説の世界でしょう。
     
秦皇島は北に天下の要衝「山海関」(海と山の間が8Km)があり、清王朝成立時の逸話が沢山あります。明時代の万里の長城の出発点(東端)「老龍頭(ラオロントウ)」が海に突き出ています。南に現代の北京政府、役人の夏の避暑地「北戴河(ベイダイハ)」が有名で、毛沢東や琳膨などから現在まで種々の会議が有った場所です。非常に気候の良い町です。
     
海に突き出た万里の長城                              古地図
人口約300万人。街の中心部は30年前の自転車時代が想像できない自動車ばかりで、道路は道幅も広くセンターラインの植え込みも種々の花や木々で美しく、住宅も古いレンガ作りの街並みがどんどん壊され高層マンションに変わっています。ISOの環境都市の資格も得ています。
     
2、留学生時代

燕山大学とその構内に有る私の中国滞在の本拠地「外国人宿舎」。
     
留学生は圧倒的にロシア、韓国が多く、モンゴル、イタリー、スロバキア、アメリカ、そして日本から1〜2名。さすがに若い人達ばかりです。私は最後列真ん中、右隣はカムチャッカから来た高校生。前列は教師陣。
授業はクラス別に小部屋に分かれ、少人数で丁寧に教わります。太極拳や音楽、運動会、土日の休みには各地への遠足など行事も多く退屈しません。
ここで中国の一般庶民感覚をご紹介します。政治、経済の世界とは少し違う同じ東洋民族の感覚が垣間見えます。
トピックス  "Topics"
2005年の夏から一人で語学留学し、「大丈夫か?」と大きな不安と未知の世界に対するわくわくした期待とが交錯していました。ビジネスとか観光で海外と言うのは何度か経験していたのですが、言葉が通じない所にいざ一人でとなると、「何と自分は何も出来ないのだろう」と改めて「一人」の無力感に襲われました。そんな中、幾つか出会った人の親切は骨身にしみてうれしいものでした。政治やビジネスの世界とは違う「人情」は、特に東洋人には似たところが有るように思います。

第一話 北京駅「待合室」
その日北京駅は朝の6時頃から混んでいた。私の泊まったホテルが北京駅の直ぐ前だったので時々窓からその風景を眺めていた。通勤時間が早いのか?それとも地方からの夜行列車がひっきりなしに到着するのか?その内収まるだろうと思っていたら、とんでもなかった。私の乗る秦皇島行きの汽車は午後2時出発であったがこの頃が最高に混雑していた。その間、混雑は一度も収まらなかった。やはり広い中国の首都だ。一日中通勤ラッシュみたいな感じがする。私の乗る秦皇島行きの列車は北京伊藤忠の友人が指定席の切符を取ってくれた。駅構内には入口にあるX線の持ち物検査を受けねば入れない。30分前に入り、友人から聞いていた有料の待合所に行った。入口のおばさんが切符をじっと見て何か言った。わからないと首を横に振ると何度か大声で「お前はあっちだ」と指をさす。腕時計を指差しもう時間が無いとの素振り。指定席だから未だ時間はあると思いながら躊躇していると、とうとう台の向うから出てきて一緒にこいと言うしぐさ。有料待合所の受付の仕事もほっぽらかして、私を奥のほうにある一般の大きな広い待合室に引っ張っていった。そこは大勢の人達でごった返していたし、入口からあふれて外にはみ出していた。入口の人を掻き分け中に入ったが、おばさんは左の奥の50m以上はある先頭を指差し「あそこに行け」という。この人混みの中を、肩から掛けたカバンにパソコンを入れ、大きなスーツケースを転がしながらどうやって行けるのかと気が遠くなりそうであった。「おばさん、有難う。もう判ったから早く受付に戻って。」と身振り手振りでお礼を言ったのだが、しかしおばさんは腕時計を指差し「早く行け」と言う。仕方なく「謝謝(シェシェ)」と言って進みだした。「おばさん、本当に有難う。」と心で叫びながら、一歩前へ、二歩前へ。スーツケースを押しているものだから皆少しづつよけてくれて半分くらいまで来た。しかしここで立ち往生。にっちもさっちも動かない。「もう改札は始まっているのだろうか?」それにしても動かない。汗びっしょりだ。途方にくれて汗を拭き拭きしゃがみこんだ。その時近くにいた高校生か大学生くらいの女の子が「何処に行くの」と英語で聞いてくれた。指定切符を取り出し見せた。その切符を見ながら女の子は「私も同じ列車に乗ります」と言った。「ああ、やれやれ、これで助かった」と思った。「地獄に仏だ」。早速「何故動かないのだ?」「もう後15分しかない」と質問すると、「間もなく改札が始まる」との事、ホッとした。又この改札が凄かった。指定でない人達の先陣争いであろうが、それならもう少し早く改札を始めてくれたらと恨めしく思った。指定席切符を持ちながら何でこんなに苦労するのか想像出来なかった。彼女はホームに下りても私の指定席列車の前まで連れて行ってくれた。
この写真は8月末に二度目に行った時の有料待合室の写真です。

第二話 「散髪」
中国で二回目の散髪に出かけた。秦皇島のあまり綺麗でない住宅街のゲタ履きアパートの一階にある若いお兄ちゃん夫婦の洗髪付きで5元、約75円の店に行った。客は私一人で直ぐに腰掛けて散髪が始まったが、暫くして奥さんが弁当風の夕食を買って帰って来た。私の顔を覗き込み「ニーハオ」と挨拶してくれる。前回の訪問を覚えていて日本人が余程印象に残っていたのだろう。確かにこんな住宅街のお店に日本人が来るはずがない。初めての日本人だったかもしれない。その後である。散髪をしてくれているお兄ちゃんが大きな声で、私の顔を覗き込みながら何か叫び出した。最初は髪の形か何かの質問かと思ったが、私が「判らない」と首を横に振っていると、今度は奥さんが横から顔を出し、指で何か四角の模様を作り同じようにしきりに何か私に話しかける。私が理解できないことが判るとあきらめて二人とも黙ってしまったが、その後奥さんは今買って帰った夕食を広げて食べ始めた。そこでハット気がついたのだが彼等は私に「食事をしないか」と勧めていたに違いない。洗髪も終わって、私がポケットからお金を出して5元を払おうとすると、また大声を出して受け取ろうとしない。何度か押し問答をしていたが二人は「朋友(ポンヨウ友達)」と言ってどうしても受け取らない。私は電子辞書を取り出して「間もなく私は日本に帰る。もう来ない。」「だからこの5元は受け取って」と言ったのだが如何しても「朋友」と言って受け取らなかった。たった5元の話だが10分くらい押し問答をして、私はその店を出た。5元の散髪代をプレゼントして貰った。何かしらうれしくて何度もその店を振り返りながら帰った。


第三話 「スーパーでの買い物」
これも秦皇島でのあるスーパーの買い物中に起こった出来事です。寮の近くなので、いつも買い物はここでするのですが、たまたまここの主人が(40歳くらい)日本語を勉強していて少し日本語がわかる人でした。こまごました日常生活用品を買って、言葉で聞いても幾らかわからないのでこの主人は計算機を持ち出して計算結果を私に見せてくれます。ある日の買い物で20元(約300円)ほど買い物をして私に代金を示してくれました。細かいお金が無かったので百元紙幣を出してお釣を貰いました。主人は私に50元紙幣と20元紙幣を2枚呉れました。目の前で20元の計算結果を見せながら90元のお釣をくれるのは明らかに間違いだと思い、貰ったお釣をびくとも動かさずこれは間違っていると指差しました。主人はじっとお釣を見て直ぐに気がつき20元紙幣1枚を10元紙幣に変えました。その時です。たぶん主人の知り合いでしょうか、隣に居た買い物客が主人に向かって何か言いました。すかさず主人の返事が「この人は日本人だから」と敬意を持ってその買い物客に言ったのです。こんな事で日本人全体の評価が表されるのなら、「もっと間違いよ起これ」と思ってしまいまた。

第四話 「北京地下鉄のホームにて」
帰りは北京観光を三日間とって、そのうち一日は観光バスに乗りましたが、あとは一人でぶらぶら歩いて廻りました。地下鉄での出来事。建国門地下鉄乗り場に下りて行った時、切符を買う窓口(有人)が3つくらいあり、それぞれ10人前後並んでいました。その一列に並び、前のおばさんに地図を見せながらこの駅に行くのにこの切符売り場で良いのかと聞きました。OKとうなずいてくれたので料金は3元で良いか指を3本立てて聞くと「3yuan」と教えてくれました。切符を買って、ホームに下りて行き、柱に貼り付けてある駅名一覧を眺めて降りる駅を確認しました。その後電車が未だ来ないのでぶらぶらしながら混んだホームの中をもう一方の乗り場の柱のほうに行き反対方面の駅名の名前を眺めていました。すると後ろから私の肩を突付く者が居る。はっとしながら振り向くと何と先ほど切符売り場で3元と教えてくれたおばさんが立っていて、私を指差し、又反対のホームを指差し、お前はあっちの乗り場だと合図してくれる。私は乗り場は判っていたのだが、何とこのおばさんは私が間違わないように雑踏の中を後ろに付いて来てくれていたのだ。私は何度も「謝々(シェシェ)」とお礼を言って次に来た電車に乗り込んだ。あのおばさんはどんな気持ちであのひどい混雑の中、時間を無視して私を見ていてくれたのだろうか。どうしても反日デモのニュースと結びつかない。

第五話 「構内食堂」

私が日中関係について質問を受けたことが一度だけ有ります。燕山大学の構内の職員宿舎のアパート群の中で将棋をしている老人達を見て、「写真を撮ってもいいか?」と英語で質問した時、周りで見ていた人が「日本人か?」と声を出し、本人が返事する前に「いいよ、いいよ」と返事してくれました。その近所の食堂で昼食を食べていると偶然その人が入ってきて、私のテーブルの前に座った。二人で片言の英語と中国語で身振りを入れながら話をしていると、隣に居た学生の一人が我々のテーブルに来て、一つ質問があると切り出した。「今の日中関係を如何思う?」ときつい口調であったが、私は「世界を見なくてはいけない。世界中が注目している。」と返事した。彼は更に声高に何か叫びだした。しかしその時、私と初めに話していた人が彼に向かって何か反論らしい事を叫んだ。暫くして学生は「わかった」と言って、席を離れました。残念ながら言葉の内容はわからなかったが、周りの人も一瞬何かが起こると緊張しましたが、決して私を悪意を持ってみる人は居なかった。

第六話
各地に「万里の長城を登る会」が有り、義院口の長城に一緒に上りました。少々生々しい文章ですが、秦皇島の銀行員蒋鴻JiangHongさんからのお手紙です。この辺が一般的な普通の人の意見かも知れません。
(翻訳:JiangCairong)

泰功様へ、こんにちは!
 5月27日に泰功さんと三木さんは私達と一緒に義院口から拿子峪までの長城に登りました、われわれの団体に参加していただいて、私達は大変嬉しかった。特に、帰った途中で、泰功さんのかばんの上に、中国の国旗と国章二枚をつけていることは見つかって、好感と敬意を私の心中で生まれてきました。 
 現在の中日関係は厳しく無いとは言えないだろう。あなた達の首相、小泉純一郎はアジア人民の気持ちをちっとも見ずに、靖国神社を参拝しました。軍事強国政策を貫いている。それに、中国人及びアジア人民の感情を傷害することをたくさんやりました。私は一人責任感のある中国人として、歴史はよく知っています。甲午中日戦争からの中日関係及び民族性質について、大体勉強していました。中国人は近代歴史では、何度も侵略されました、特に日本の好戦分子に侵略されました。これは、数千年以来の中国鎖国政策のお陰で、国も国民も弱くなったと緊密にかかわっています。これも中国の封建歴史が長すぎて、国民の「劣根性」になったとかかわっています。それにしても、日本の大和民族はずっと「武士精神」を推進していて、性格は威張って、身の程度知らずに好戦感情になったのです、それに、日本は国土面積が狭いし、資源も少ないので、いつも隣国を飲む対象としています。これこそ日本は中国を侵略した元の原因です。特に戦争の時期、日本軍人は人間性が無く、戦争の手段も残酷の極まりでした。人間として、誰でも耐えられないです。ですから、私はずっと日本人が嫌いでした。それに絶対日本製品を買わないことにしていました。私はこのようにおもっていたのは日本人の威張りは生まれながら、変われないと思うのです。しかし、今度長城同行を通して、三木さんと飯生さんと知り合って、貴方達が中国人に対する親切さと優しさを感じさせられました。特に、飯生さんのリュックサックにつけていた中国の国旗と国章を見て、私は貴方達及び日本人に対して、見直し始めました。日本人は皆身の程度知らずに威張っているとは限らないです、友好と親切も日本の重要な一つ特徴です。ですから、私はこれから、今までの私の固有観念を変わる意を固めて、大和民族では親切と友好を中日関係理念としている日本人方々と友達になりたいことにします。
 バスの中では、飯生さんは自分が始めて長城に登ったと言った時、私は自分が撮った長城のアルバムを飯生さんにプレゼントしますと約束しました。ですから、長城から戻って、この一年間に秦皇島境内で撮った長城の写真を整理して、この「長城記事」と言うアルバムを作りました。私はこのアルバムを作った時、不十分なところもありますし、作品なんかにもならないですが、私は大変苦労をかけてからの結晶です、私の長城への愛を記録しています、長城は過去受けた災難及び現在も受けている損害に対して、私の憤慨と惜しいと言う気持ちを表しています。同時に、彼等は長城の辛抱な歴史及び現状を表しています。中国人嘗ての偉大及び智慧を代表しています、現代中国人の長城を愛している民族自尊心、民族覆審の望みを伝わっています。それに、私は全て友好な日本人への感情と敬意を表しています。飯生さんは好きになれば幸いです。
 今度の長城登りでは、私は又長城の写真を沢山撮りました。勿論飯生さんと三木さんの写真も沢山撮りました。昨日私は貴方達の写真及び自分が好きな写真を三木さんに送りましたから、できれば、三木さんの所からダゥンロードしてください。できないなら、私は飯生さんにも送ります、或いは、写真屋さんに頼んで、写真を渡します。もし必要なら私に教えて下さい。残った部分は「8837」(中国語の発音で、山に登りましょうと言う意味)「新行者」と言うネットに載せますから、興味があれば見て下さい。今後の週末、我々は長城に登ったり、他の山に行ったりしますから、もし飯生さんと三木さんは興味があれば、いつでも来てください、いつでも歓迎します。連絡方法は燕山大学の「小狗」(ネットネーム)、「猫猫」、或いは私に連絡してもいいです。貴方達も直接に「8837」を開いて、出かけ計画版を載せています、申し込んでもいいです。ご参加いつでも歓迎いたします。以上です。貴方達は長城を愛して、中国も好きになってほしいです、私達はいつまでもいい友達になってほしいです。中国の勉強生活は楽しく過ごせるように!

蒋鴻JiangHongさんの撮った写真。祖山東門の長城。と 義院口の長城にて
そして、私も休日にあちこちの未修復の万里の長城へ上りました。燕大写真部 沈閲(ShenYue)さんが万里の長城愛好グループ「8837」と一緒に長城に行くと言ったので またまた無理を言って連れて行ってもらいました。「無理」と言うのは彼等の予定コースはとても厳しくて「年寄りは一緒に歩けない」と彼は言いました。しかし私がどうしても行きたいと言ったので彼は「8837」のリーダーに電話して許可のお願いをしてくれました。するとたまたまその日は2班に分けて、1班は半分のコースをゆっくり登るので、その班に入れるとのことでした。行って見るとその班は女性子供もいて丁度私向きの班でした。長城満喫クリック:http://www.eonet.ne.jp/~akiomiki/dai1shu/02sankai/2page.html
下の写真は(義院口/撫寧縣/秦皇島)
「秦皇島日本人会」 2008.05.31
開催場所は燕山大学内の「燕大賓館」。そして10時から約2時間の校内見学を織り込みました。特に見るものはないのですが、学生総数が3万人を超えていること、秦皇島で一番高いと言われたシンボルタワー「21世紀棟」の屋上から燕大近辺の市内見学ができたこと、キャンパスが緑が多くてばかでかいこと,くらいでしょう。日本語学科の生徒さん達がそれぞれ日本人来客に付いて案内役をして頂きました。感謝!感謝! このサイトは異国の地でご活躍の皆様の日本の御家族や御友人の方々に、元気でお過ごしのご様子を見て頂く為を目的としております。特に印象深かったのは、大手企業さんの駐在員の方達の移動の激しさでした。秦皇島に有る日系企業:旭硝子汽車玻璃、秦皇島浅野水泥、秦皇島首鋼黒崎耐火材料、秦皇島恩彼碧軸承、秦皇島東洋特殊鋼業、長洋混凝土(秦皇島)、株式会社フジタカ、秦皇島阪口線材工業、等です。(前列右4人幹事役)
3、教師時代
河北省秦皇島にある「燕山大学」にて、2006 年9月御茶ノ水大学教授OBの大橋先生が私の知らないうちに学校側に私を教師として推薦下さいました。教師の経験も無く無理だと申し上げましたが、「長年のビジネスマンとしての経験が有り、きっと生徒達の役に立つ」と励まして下さり、日本語会話の担当としてお受けしました。
今学期の外国人教師。両端男性二人の中国人男性(受け入れ窓口)を除いて、イタリア、カナダ、英国、米、フランス、ドイツ、ロシア等、アメリカからが一番多く、その次日本3名。上段左から3番目が私。前列右お二人が安富、高橋先生。
9月から始まる新学期。新一年生は全員2週間の軍事訓練を受けます。先生はれっきとした軍人が指導に当たる。今年は海軍から派遣されたそうです。皆体格のいいこと。校内の道路や運動場あちこちで走り回っています。燕大の生徒達は中国の北半分の各地から来ています。全寮制で寮は一部屋6人、2段ベッドです。学生達の絆はここで生まれ、卒業後の交流もこの寮生活から中心に続けられています。
2週間後、新一年生この大学での始めての授業。月曜日の一時間目、日本語は全く通じません。取り敢えず「あいうえお」からスタートしました。この子達、本当に私の授業で日本語が喋れるようになるのかしら?大いに不安です。救いはこの子達の笑顔です。無邪気に私の発音についてきます。
3年生1組と2組の合同の授業「聴解hearing」。60人強ですが、この授業は学生にとって日本人の発音を聞くチャンスが少ない為、いつも出席率が良く、皆イアホンで必死に聞いています。

そして、4年生のクラスではさすがに就職活動が最大の関心事です。私が教師になった最大の目的は中国で日本語の勉強をする生徒達に日本の一流の企業に就職してもらい、今後の日中友好の柱になって貰おうと思ったからです。中国の庶民感覚では日本に対する敬意を感じる事が多々あります。隣国との友好を保つことが大切だと思ったからです。
中国の大学生達の就職活動は新学期(9月)始まって直ぐから始まります。
1. 日系企業のうち大手の「松下グループ」は9月から各大学に会社説明会を行います。「一汽トヨタ」の説明会は11月から、しかも開催される大学は超一流ばかりで、残念ながら燕山大学には来てくれません。
2. 仕方が無いのでインターネットで履歴書送って面接試験の申し込みをしたりするのですが、なかなか返事をもらえません。もう一つは北京や天津の説明会開催校に行って履歴書を出したりするのですが、やはり「指定校」などの制度になっているのかスムーズに受験できないことが多いです。(燕山大学は中国の大学のランキングは80番台で、あくまでも地方都市の大学の一つで残念ながら一流とは言えません)
3.各都市には「人材市場」と言うのがあって毎週土、日に企業の人材募集の会が開催されています。採用予定の企業がブースを出して採用活動をしています。12月ともなれば各企業の大学新卒の募集会も兼ねており結構有効な就職活動になっています。 問題点はやはり日系企業は北京や天津に多く、秦皇島では「旭硝子」さんだけしか見ませんでした。
一例ですが、これはインターネットに出た「一汽豊田自動車」の各大学での説明会、及び募集会スケジュール。
さすが一流大学ばかりです。燕大生をどうやって一流企業に入れるか、私の試練です。
場次 地区     宣講会時間       宣講会地点
第1場 北京 11月15日 14:00〜16:00 北京外国語大学   逸夫楼第三階梯教室
第2場 北京 11月16日 14:00〜16:00 北京大学      英杰会議中心陽光大庁
第3場 北京 11月18日 14:00〜16:00 北京航空航天大学  学術交流庁
第4場 北京 11月19日 18:00〜20:00 中国人民大学    逸夫会?中心
第5場 北京 11月22日 15:00〜17:00 清華大学      就業中心報告庁
第6場 大連 11月23日 18:00〜20:00 大連理工大学    大工科技報告庁
第7場 广州 11月24日 14:00〜16:00 中山大学      管理学院国際会議庁
第8場 广州 11月25日 18:00〜20:00 華南理工大学    逸夫人文館報告庁
第9場 長春 11月24日 18:00〜20:00 吉林大学      南鈴校区第五教学楼報告庁
第10場 上海 11月30日 13:30〜15:30 復旦大学     5301報告庁
第11場 上海 11月30日 18:30〜20:30 上海交通大学    ?行校区光彪楼報告庁
第12場 威海 12月1日 14:00〜16:00 哈ル濱工業大学   威海校区 主M楼207教室
第13場 天津 12月2日 14:30〜16:30 南開大学      伯苓報告庁
第14場 天津 12月3日 18:00〜20:00 天津大学      大学生活動中心報告庁
第15場 西安 12月9日 14:00〜16:00 西安交通大学    工程訓練中心信息発布庁

燕山大学で開かれる企業の就職説明会が学生にとって本命の会社選択の場所ですが、燕山大学は理系の大学であり圧倒的に理系の学生の募集が多いです。 悩みが多いのが語学系生徒達です。北京や天津或いは上海などの大都市の外国優良企業の給料や待遇の情報がある一方、この燕山大学にはなかなかその一流企業は来ません。北京や天津に生徒たちを連れて出かけて企業探しをしたり、インターネットで履歴書を送って応募するのですが、企業からの返事がなかなかもらえません。突破口は天津のトヨタ技術開発有限公司(トヨタ独資)でした。姜彩蓉(この年入社)の努力もあって人事部長に会えました。必死に燕大日本語学科の生徒の受験チャンスをお願いしました。長谷部長は「10人位選んで履歴書を送って下さい」とご了解を得、数度の面接試験など受け、王佳興君が受かりました。それから燕大で会社説明会を開いていた「天津電装」の人事課長さんにも会え、生徒達に「Denso」の自動車部品は世界一だと説明し、その後、「天津電装電子有限公司」さんを訪問もしました。

「電装」さんは毎年燕山大学に会社説明会に来られ、工学部の学生やら日本語学科の学生達に「実習」、「就職」のチャンスを与えて頂いております。学生達の間でも人気が高く、昨年暮れの会社説明会には会場の大きな講堂が生徒達で埋まっていました。事務方の相羽副總経理、工場の筧副總経理とも人材の確保には御熱心で生徒達の「実習」の報告からそのご努力に頭の下がる思いです。工場見学もお許し頂き、今年入社内定の4人の生徒さんと一緒に見学させていただきました。電子部品関係の工場だったせいで、私の描いていた自動車部品工場のイメージと全く違って内部は非常に綺麗で正に電子製品の工場でした。
或る日本企業大手の部長さんのご意見
『先日は遠いところご訪問いただきありがとうございました。先生の学生に対する思いと我々の思いは同じです。本当に良い先生に指導していただいていると思います。先生が言われるとおり我々はビジネスマンとして働いてもらう学生を必要としております。それには2つ理由があります。 一つは 今後中国人による実務・マネジメントが必要になるためです。我々日本人は駐在であり交替で帰任します。交替の人が来るたびにゼロスタートでは会社としては生き残れません。着実にステップUPしていくには、業務の中国人化(現地人化)が必要です。これは 北米・欧州等どの地域でも同じステップです。もう一つは、仕事を通じて彼らに将来何が起こっても生活していける能力をつけさせたいためです。この国はまだまだ流動的で安定した生活の保障は(日本以上に)ありません。もし何かの理由で我々の会社を離れても自分の能力で新しい仕事(新しい会社)を見つけ 働くことができる社会人になって欲しいと思います。その分彼らに対しての指導は厳しくなりますが彼らのためと思って指導しています。 ご訪問 本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。』
そして最後に私が狭心症の手術を機に教師を退任することになりましたが、その時受けた生徒たちの行動に少なからず驚きました。以下は愛媛大学に留学中の中国人の朴先生から頂いたメールへの返事です。
『お便り有難うございました。 ご研究の方は進んでいらっしゃいますでしょうか?ご懸念の点は心配要りません。これも中国の文化かな?とは思いましたが、それ以上に学生達から貰った感動の方がはるかに大きいものがありました。三年生の二クラスの生徒代表四人が、学校側の偉い人に「私の契約継続」のお願いに行ってくれ、途中で四人とも泣き出したそうです。それを聞いた私の感動は言い表せません。学校側は私の病気、健康を心配しての処置だとの返事だったそうです。そして生徒さんから頂いた数々の手紙や言葉など、人の心は何処に居ても同じだと強く心を打たれました。他の日本人教師の方々の言葉の中にも「中国に来て、最後の教職の場に就いて、救われた。生徒達の純粋な精神、勉学の態度は今の日本では少なくなった」と聞かされました。 私も中国に来た甲斐がありました。三木』
お別れに際し、生徒達が贈ってくれた全員の書いた文集です。手作りで大変だったと思います。中国からの勲章のように思いました。
           

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