中年の山登り (日帰り劔岳 編)
山登りの方法に「日帰り登山」というものがある。 いわゆるハイキングなるものはその典型例であるが文字通り、1日で山へ行って帰ってくることを言うのである。
最近の山登りは中高年の登山ブームのおかげでコースが整備され、危険な箇所は取り除かれているし、ホテルなのかと見間違えるような山小屋が要所要所に配置されている。 特に、日本百名山などと命名されようものなら地元あげての歓迎ぶりでお金と時間さえかければほぼ問題なく安全に登ることが出来る。
ところが、我々はいみじくも仕事をしているわけで山登りをする上で足りないものは「お金」よりも「時間、暇」なのである。 お金はがんばって働いて無駄遣いをしなければ捻出出来ても、全国に散らばる名山を登るにはまとまった休みを取るのが必要になってくる。 まとまった休みといっても、正月休みは多くの山では厳冬期に当たるため単独での日帰り登山には不向きである。 従ってお盆の休みしか利用できないのであるが年に一度の休みに家族を放り出して山登りというのも具合が悪く、家庭円満、夫婦和合の観点からもおすすめできない。
しかし、考えてみると日本百名山に限っても当たり前のことであるがこれらの山々は狭い日本国内に存在するし、全国には鉄道も含め我々の血税で作った交通網が非常に整備されている。 のんびり風景を楽しみながら登る楽しみもいいがこれらの交通網を有効に使って時間を有効に使い、まとまった休み以外に百名山を登るために、はたまた、自分の潜在能力を確かめる意味で土日、休日を使って日帰り登山を実行、これらの山を登破出来るのではないかと考えたのである。
では、「日帰り登山」とは何なのか? その定義を作ってみた。
すなわち日帰り登山とは「登山口を出発し、その日のうちに登山口に下山する歩き方」とした。ここで、登山口までの到達では前日に車や電車で到着してもよく、また、帰りも翌日の仕事に支障無きように帰宅すればいいようにした。
たとえば、あの有名な上高地の穂高岳でも日帰り登山が可能である。 前日夜までに上高地へ到着、登山口を午前5時に出発出来れば涸沢キャンプ場に午前8時、そこから奥穂高まで3時間かかったとしても頂上に午前11時、ゆっくり下山して午後5時。 そこから大阪まで車で帰っても同日中に帰ることが出来る。 九州の山でもそうである。 土曜日のフェリーで鹿児島へ渡る。 翌朝、がんばって薩摩の開聞岳と霧島連山の韓国岳へピストン登頂、林田温泉で入浴。 再び夜のフェリーに乗船、翌朝、大阪南港から仕事場へ行くというプランも0泊3日であるが登山口から登山口までが同一日という条件なので日帰り可能である。それどころか、ジェット機をつかえば、東北、北海道でも一つの山だけなら日帰りが可能である。(ちょっと、非経済的ではあるが)
ここで話を簡単にまとめるために日本百名山に登ると言うことを前提にする。 百名山ともなるとほとんどは大阪から遠方なので必然的に車での移動が基本となる。 つまり、前夜に出発し登山口付近に到着、車中泊する。 翌日、目的の山へ登頂、そのまますぐに下山してそのまま帰宅、翌日は仕事する、ということが条件である。 この方法でのメリットは当然山小屋などに泊まらないので費用が安くつく。また、山登りに数日間をかけると必ずその間に天候が悪化する日が存在しより危険性が増す可能性があるが、日帰りの場合は悪天候が予想される日は出発すらしないので天候のよい青空のもとで快適な登山が約束される。 多くの日数をかけずに山に行けば余った休日はのんびりと過ごしたり、下山後周辺の観光に当てることもできる。 つまり、日帰り登山は「効率がよくてお金がかからず、よい天気の下でより安全に登山が出来る」という休日の少ない我々にとって究極の登山形態なのである。 いいかえれば、百名山における日帰り登山とは自分の体力、持久力、精神力の本当の限界を極め、コースの詳細な情報、コースタイム、出発から帰宅までの食事の配慮も含め綿密なるスケジュールを計算する必要があり、まことにもって高度に頭脳を使う登山形態なのである。
ここで一つ、平成18年9月に行った富山県は劔岳(つるぎだけ 2999メートル)における日帰り登山について読みたくない人もいるだろうが書いてみる。
平成18年9月16日、土曜日の診察が終わってから北陸自動車道をとばすこと5時間、立山インターを降りて「つるぎふれあい館アルプスの湯」という入浴施設でゆっくりお風呂につかりそこのレストランでたっぷり食事をとる。 ここが大切で、前日までに運転の疲れを十分にとりたっぷり栄養をとっておくことが重要である。 また、このような周辺の情報は前もってインターネットなどで詳しく調べておくことがこれまた重要である。
その後、馬場島キャンプ場に到着、安全なところに駐車してかねてから用意しておいたビールを飲みすぐに就寝。 翌日は午前3時起床。 ほとんど食欲はないのでお茶を沸かしゴソゴソ準備、トイレなどをすますと4時になってしまう。 周囲では同じような人が何組かいてすでに出発している人もいるようである。
「試練と憧れ」と書いてある石碑の前を通って登山口へ。午前4時と言っても真っ暗でヘッドライトをつけての歩行である。
ところで劔岳に登るコースは有名なのが立山室堂からのコースで、一般的にほとんどの人は前日に室堂までバスで入り次の日に劔岳に登頂する。 しかしながら、立山からでは室堂スカイラインが一般車立入禁止であり、乗り継ぎに時間が掛かるためほとんど大阪から日帰りは不可能である。 そこで、富山県側から劔岳へ登るコースを選ぶしか無いのであるが、このコースは早月尾根といって海抜750メートルの馬場島から頂上に向けて2250メートルを突き上げるほぼ一直線の尾根道を「鉄砲登り」するという「日本三大(バカ)急登」の一つである。 このコースをとると確かに距離は最短であり劔岳日帰り登山としてはこのコースしか選択の余地はないのが、富士山5合目からの往復標高差が4000メートルとしてこの早月尾根は往復標高差が4500メートルというおそらく日本ではトップクラスのしんどい、いいかえれば「あほみたいな」ルートなのである。
「これを1日にして征服し、劔岳頂上に至りその日のうちに下山、さらに大阪まで帰り翌日は通常通り仕事する」ということが出来れば国内におけるほとんどのルートを日帰りできるということであり、日帰り登山家としてはまさにあこがれ、理想的な究極のルートなのであるが、実のところ、過去2年間にわたり2回同じ試みをして失敗。なにを隠そう今回が3年目にして3回目の挑戦なのである。
さて、森林帯のなかを歩き続け夜が明けるとますます登りはきつくなってくる。 このコースの唯一の山小屋で標高2200メートルにある早月小屋についたのが午前7時。 ここまでは予定通りでまずまずのペースである。 頂上まではあと800メートルである。 この早月小屋では軽食や生ビールなんかが用意されているが日帰りマニアの私にとってこの誘惑は要注意である。 簡単な食事のあといよいよこのコースの核心部である細い岩綾部分へと突き進む。 前々回、雨風の中、涙ながらの撤退をした2600メートル地点と過ぎるとまさにロッククライミングの世界で一歩間違えれば大怪我どころか死体さえ見つからないのではないかというような所である。 また、立山室堂からのコースとは違い歩行者も少ないので鎖やボルトといったたぐいのものも整備が今ひとつで何となく手が届かないところに次の鎖があったり絶壁に打ち込んであるボルトが妙に斜めになっていたりして精神的に非常に疲れる。
想えば、前々回にあの風雨のなかをこのまま登るのはまさに自殺行為だったかもしれない。
2800メートル付近までくると向かい側にこんもりと岩のドームになった頂上が見える。ほんの少しの距離にみえるがなかなか近づかない。 それでも午前10時。苦節3年、念願の劔岳頂上に至ったのであった。 頂上には立山方面から登ってきた人たちで鈴なりの状態でみなさん登頂の余韻に浸っておられるのであるがこっちはそれどころではないのである。 再びあの危険な岩場を下降しさらに2000メートルの森林地帯を下って下山、本日中に大阪まで帰らねば今回の登山の意味が無くなるのである。
ところが、ふと気がつくと両膝が無性に痛い。 立ち上がろうとするともうぐらぐらである。それでもなんとか痛みをこらえ緊張感に紛れて早月小屋へ。 本来ならここで宿泊してしまえば楽勝であるが、それでは今回の日帰り登山が成り立たない。 痛めた足を引きずるようにして下山する。 一般に山登りは登りよりも下りの方が足の筋肉を使うというが地球の重力により加速度のついた体重を受け止めるからである。恥ずかしながら山登りを始めてこんなことは初めてであるが、途中で何度もへたばってしまった。
それでも相当に痛めた足で車まで戻ったのが午後3時30分であった。 ということは、登りはじめから11時間30分も掛かってしまったわけである。 予定では9時間で下山とふんでいたのだが下りで相当タイムロスしたようである。 自分の体力のなさに痛感した次第である。途中、出会った人に聞いたところでは、午前3時に出発した夫婦二人連れは頂上に至り下山したのが午前9時だったとのこと。 恐るべき早足、6時間で往復しているのである。 なんともマニアな人もいるもんである。
とにかく、再びアルプスの湯のお風呂にいき、食事。 大阪に帰ったのが午後10時であった。 一応、当初の予定通り登山口から登山口までが同一日でその日のうちに帰阪したのであった。
このような例は極端な例でありあまりおすすめできないが日帰り登山の一応の目安として
1)歩行時間は9時間以内
2)天候がよい日を選ぶ
3)絶対に安全なコースを選択、コースの状態などは前もって完璧に調べておく
4)出来ればピストン登山がいい
5)翌日の仕事に差し障りがないようにする
6)普段の肉体的トレーニングは惜しまない
ということが大切である。 とにかく、同じ山登りでもだらだら登るよりなにか目標があったほうがいい。 百名山の中には霧ヶ峰のようにリフトを乗り継いで終点から頂上まで徒歩1分と言うような所もあるが、登頂にはおおむねある程度の苦難を必要とする。 元来、山登りとは「修行の場」であり昔の修験者たちは命をかけて自分の極限にチャレンジして悟りを得る神聖な場所であったはずである。
自己の体力、精神力の可能性と限界を知る上でもあくまで日帰りにこだわるのもおもしろいと思うのであった。