中年の山歩き (大杉谷 編)
     
世の中には体力自慢の人がいるが今回の山行きでまさに日本人離れした(もっとも日本人ではないのであるが)体力、気力を持った人たちに出会ったのである。 今回のお話は三重県は大杉谷における難行苦行の下山とそこで出会ったイスラエルから来た若者たちとの国際親善が入り交じった感動のお話である。
 
平成15年8月15日、夏休みも暑いので一つ三重県の大杉谷へ行ってみようと計画した。 しかも、大台ヶ原頂上まではバスで登り少し下ったところの粟谷小屋に一泊、次の日に下りのみのコースでゆっくりと涼しい大杉谷を下山するという夏向けの楽々プランであった。
 
朝一番の近鉄電車で大和上市下車、すぐ前のバス停から大台ヶ原行きのバスに乗るのであるが夏休みシーズンというのに乗客は私一人だけだったのである。 (この理由が後に判明する) 小雨の中バスは順調に走行、ところがちょうど大峰山の裏側にあたる杉の湯温泉のバス停で停車したところ運転手さんがなにやら停留所の周りをうろうろして電話で連絡をとったりしているのである。しばらくすると杉の湯ホテルのほうから巨大なリュックを背負った歳の頃なら20台後半の男性二人と女性一人、計三人の外国人らしき三人づれが現れバスに乗り込んできたのであった。 

どうやら、大峰山も有名になったもんで日本百名山ねらいらしき外国人がホテルの人に頼んで大台ヶ原に行くバスに乗せてもらうことになっているらしい。 バスに乗り込んだ彼らは何の屈託もなくロシア語らしき言葉でわいわいしゃべりまくり何の事を言っているのかさっぱりわからないのである。 そうこうしているうちにバスは大台ヶ原頂上に到着したのであった。 

時刻はすでに昼前になっているので何年か前に訪れたときに見物したことのある大蛇ー(だいじゃぐら)はパスして最高峰の日出が岳(1695M)に登りまっすぐ粟谷小屋に向かうことにした。 ところが、この道も倒木が多いうえに薄暗くほんとにこの道でいいのかと不安になる頃にひょっこり小屋の前に出たのであった。 粟谷小屋はきれいな宿で夕食にはなんと鰹のたたきがでるという豪華さでお風呂は総檜づくりというまさに極楽状態なのだがここも夏休みシーズンというのに宿泊客は私ともう一人の男性だけという寂しい状態であった。
 
さて、早い目にお風呂に入り5時からの夕食を待っていると何か外の方で小屋のおじさんが誰かとわーわーしゃべっているようである。なんじゃろうとのぞいてみるとなんとあの三人づれが小屋の主人となにかしゃべっているのでだがなにしろ訛りのきつい英語でおじさんの方といえばまったく言葉がわからず途方に暮れているのであった。 そこで、お節介焼きの私はそれではと通訳をかって出たのであった。 

よく聞いてみると彼らは大台ヶ原に着き大蛇ー周辺を一周して今降りてきたところでありしかもこれからさらに下の方にある桃の木小屋まで行くというのである。 従って、夕食の時間に間に合わないので電話連絡して今から桃の木へ向かうので夕食を準備してくれるようにここから頼んでほしいといっているのであった。 

しかしながら、時刻はすでに夕暮れ迫る夕方5時、しかも、これからの道のりは聞きしにまさる大杉谷の中核部で断崖絶壁の登山道を鎖と危険な鉄梯子の連続する所でどんなに急いでも少なくとも2時間はかかるはずである。みると彼らは正確な登山マップも持ち合わせていないようなので危険だから本日はここで泊まった方がいいのではないかと薦めたが本人たちはいたって気にせず大丈夫というのである。 とにかく、その旨をおじさんに伝え衛星電話で桃の木小屋へ連絡してもらい唖然とする我々を残し三人づれは夕暮れの中を悠然と下山していったのであった。 
 
さて、のんびりとした一夜を明かした翌日、午後1時の宮川貯水池の渡し船に乗るために早朝出発となる。 大杉谷は日本でも黒部峡谷に次ぐといわれる急峻な谷で実際下ってみるととんでもなく危険な道である。 観光客がスニーカーでうっかり入ってしまい事故が絶えないというのもうなずける話である。 しかも、数日前の大雨のせいか道は山抜けの連続でいやな感じの大小の倒木が道を塞いでおりこんな道を夜間に歩くのはもはや自殺行為に近いのではと思われるのだが、いくら下に行っても人影が無いのである。 お盆シーズンで、しかも天下の日本百名山というのに登る人も下る人も誰もいないのはどういうことであろうか。 

そうこうするうちにやっと桃の木小屋の手前、七つ釜滝にやってきた。すると、展望台に数人の男の人がいるので話しかけるとなんでも一昨日の大雨で桃の木小屋のすぐ下で大きな土砂崩れがあり通行不能、自分たちは大巻きをしてなんとか登ったが下からは入山禁止になっているという驚くべき話を聞いてしまったのであった。 今更、登り返して大台ヶ原へ帰るというようなことは正気の沙汰ではないのでおそるおそる桃の木小屋まで来ると案の定誰も宿泊客はおらず閑散としているのであった。崖崩れ現場へは小屋の主人が向かっているとのこと。

ところで、例の元気な外国人三人づれのことを聞くと彼らは朝食後すでに下山していったとのことであった。 とにかく、私も下山しなくてはと崖崩れ現場まで来ると桃の木小屋の主人が必死の応急処置を慣行され、おかげでなんとか崩れ果てた倒木の上を登ったりくぐったりして無事通過する事ができ予定通り昼頃に船着き場に到着したのであった。
 
と、ふと気がつくとなんとあの三人づれが座り込んでいるではないか。 やあやあと話しかけると昨夜は午後8時頃に桃の木小屋について一泊、今日は朝早く出たが崖崩れ現場で手間取り自分たちも今着いたところであるというのだ。さっきから何か食べているので聞くと小屋で買ったという日本人でもあまり食べないと思われる「小ナスのカラシ漬け」をおにぎりと一緒にむしゃむしゃ食べているのである。 
 
すっかりうち解けてしまた我々四人は旅は道連れというかここから船で大杉のバス停へ出てJR三瀬谷駅までバスで向かったのである。そして道中いろいろ話を聞き謎の外国人の全貌が明らかになってきたのである。

彼らはロシア系イスラエル人で女の人が現在東京大学の大学院に留学しており後の二人はそのご主人とその従弟であるという。 夏休みを利用してイスラエルには無い日本の森や渓谷を探索しているそうである。 また、昨日なぜ杉の湯からバスに乗ったのかと聞くとその前に大峰山奧駆け道の前鬼口から入山し台風のなかを釈迦が岳、弥山から大普賢岳さらに山上が岳と普通とは逆向きに縦走しなぜか洞川温泉へ降りず杉の湯へ降りてきたというのである。 

このルートをご存じの人は分かるであろうが大峰山奥駆け道のなかでもこの部分は特に険しい所でおそらくテント泊で四日はかかったであろう。 道はどうでしたかと聞くと標識も分からす(実は日本語が読めなかったらしい)倒木だらけでしかも台風接近という中を大層難渋したらしい。 しかもである、山上が岳から降りて一服ということはせずその日のうちに下山してそのまま大台ヶ原へ直行、大杉谷を下山するという尋常では考えられない恐るべき日程なのである。 なんでも、イスラエルには日本のような深い森や急峻な渓谷はないので実にすばらしいと屈託もなく感じ入っているのである。 

なんともはや、外国人とはいえすばらしい体力の持ち主であるがこれは序の口で今後の日程を聞いて腰を抜かしてしまったのである。実は、大杉谷から下山した本日中に今度は滋賀県は近江高島まで行き野宿、明日は比良山の裏側にあたる八尋の滝を遡行して比良山頂上にいたり下山後そのまま京都へ出てすでに予約済みの夜行バスで上高地へ行き翌日から槍穂高の縦走をするというのである。これははっきり言って人間離れした計画であり日本人にはそのような発想をする人はいないと思われる。 しかも、いわゆる日本人向けの登山マップや親切な山岳ガイドブックも持たずおそらくはイスラエルで出版されているらしい日本の観光ガイドブックを一冊携帯しているだけで登山道やアクセス方法などはまったくもって不十分というべき代物なのである。従って交通アクセスもあまりご存じ無いらしく本日中に近江高島まで行きたいのだがどういう風に行けばいいのか分からないらしい。 

日本百名山を短期間で登る方法として隣接した山を集中的に登るブロック登山という方法があるが、これもサポート隊などが準備万端手助けをしながら登りまくるという方法である。一方、彼らはまったく自分たちの足だけで言葉も分からない異国で田舎の電車、バスを乗り継ぎ旅をしているのである。 

ここまで来れば遠来のお客さんを見捨てる訳にもいかず近鉄松阪まで同行し、そこで、近鉄京都までの直通特急の切符を買い求めさらにその後の連絡方法を紙に書いて午後6時30分、全くの疲れも見せず笑顔一杯の彼らは元気に京都行きの列車に乗り込んでいったのである。 
 
大杉谷の雄大さも感じ入ったが今回の山行きではイスラエルの若者の行動力に参ってしまった。 とにかく、彼らの行動パターンが間違っているということは決してないのだが世界には我々日本人の概念では計り知れないものがあると感じた次第である。イスラエルというと宗教的な問題や国際紛争などややこしいが彼らは実に気さくで感じのいい若者だった。 

私も少しは国際親善を果たせたのであろうか、また、彼らも無事山登りを終えたのであろうか願わくば日本の自然、人情を大いに感じ入っていただけたら幸せである。
  

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