〜序章/2〜


 気がつくと病院のベッドにいた。
 カーテンがゆらゆらとゆれている。
 外はとてもいい天気で、
 かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」

 初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めて
きた。
 にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っ
ている。
 清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったり
だった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「・・・いえ。僕はどうして病院なんかにいるんで
すか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自
動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
 胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるよ
うな傷じゃなかったんだよ」
 白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なに
か、お医者さんらしくない事を言う。
―――――ひどく。
     気分が、悪くなった。
「・・・眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復
につとめるのがいい」
 お医者さんは笑顔のままだ。
 はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかして
いるんですか。この部屋もところどころヒビだらけ
で、いまにも崩れちゃいそうですけど」

 お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど
、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカ
ツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異常があるようだ。脳外科の芦
家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の
疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」

 お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそり
と看護婦さんに話しかけた。
「・・・ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
 くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走
ってる。
 意味はよくわからないけど、見ているだけでとて
も気持ちがわるい。
「・・・なんだろう、コレ」
 ベッドにもラクガキがある。
 指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ
。
「―――あ」
 もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、
棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた
。
 何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッ
ドに沈み込む。
 面白かったから、そのままラクガキどおりにナイ
フを引いた。

 ごとん。

 重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまっ
た。
「きゃあああああ!」

 となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
 看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取り
あげられた。

「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」

 お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、そ
の方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうし
てこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんて
ないんだ。
 それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒ら
ないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「・・・わかった。このお話はまた明日にしよう」

 お医者さんは去っていく。
 けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはく
れなかった。
 あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであ
ろうとキレイに切れた。
 力なんていらない。
 紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることがで
きた。
 ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。

 ・・・試したことはないけれど、たぶん、きっと
、にんげんも。
 ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
 なぜか自分だけに見える黒い線。
 それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく
分かってきた。
 アレはきっと、ツギハギなんだ。
 手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、
とても脆くなっているところだとおもう。
 だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れる
はずなんてない。

―――ああ、今まで知らなかった。

 セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊
れやすいトコロだったなんて。
 みんなには見えてない。
 だから平気。
 でも僕には見えている。
 こわくて、こわくて、歩けない。
 まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ
。
 だからだろうか。
 あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じて
くれない。
 あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来
てくれない。

 あれから二週間も経つのに。
 ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生き
ている―――――
 病室にはいたくない。
 ラクガキだらけのトコロにいたくない。
 だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所
に行くことにした。

 でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
 気がつけば。
 自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも
遠い場所になんて行けなかった。

「・・・ごほっ」

 胸が痛んで、すごく悲しくて、地面にしゃがみこ
んでせきこんだ。

 ごほっ、ごほっ。

 誰もいない。
 夏の終わりの、草むらの海のなか。
 このまま、消えてしまいそうだった。

 けれど、その前に。

「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」

 後ろから、女の人の声がした。
「え・・・?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいん
だから草むらの中でうずくまってると見えないのよ
ね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるとこ
ろだったんだから」
 ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
 ・・・なんか、ちょっとあたまにきた。
 僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背
が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにい
るのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっ
ていうの?」
 女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った
。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相
手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだ
けど、君は?」
 まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さ
で、女の人は手を差し伸べてきた。
 断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分
の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返
した。
 女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
 この人は僕の言うことを『子供だから』といって
無視しない。
 ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれ
た。

 色々なことを話した。

 僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行
儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だとい
うこと。
 あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、い
つも僕のあとを付いてきていたということ。
 広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきは
と一緒に友達と遊んだこと。

―――熱にうかされたように、色々なことを話した
。
「ああ、もうこんな時間。
 悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話
はここまでにしましょう」
 女の人は立ち去っていく。
 ・・・また一人になるのかと思うと、寂しかった
。

「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もち
ゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守
るんだぞ」
「あ―――」
 女の人は、まるでそれが当たり前だ、というよう
に去っていった。
「・・・また、明日」
 また明日、今日みたいな話ができる。
 嬉しい。
 事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻
ってきた。
 そうして、午後になると野原に行くのが日課にな
った。
 女の人は青子って呼ぶとおこる。
 自分の名前が嫌いなんだそうだ。
 考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先
生』と呼ぶことにした。
 先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩み
を一言で片付けてくれる。
 ・・・事故のせいで暗くなっていた僕は、少しず
つ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
 あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話し
ているとあまり恐くは感じなくなっていた。
 だから、どこの誰だか知らないけど、もしかした
ら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。

 でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
 先生といると楽しい。
 大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。

「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」

 ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物
ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
 あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキ
レイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、
どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰に
もできないよね」
「志貴―――!」

 ぱん、と頬を叩かれた。

「先・・・生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
 先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。

 ・・・理由はわからなかったけれど。
 僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコト
なんだって思い知った。

 厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
 とても、とても悲しい気持ちになった。
「・・・ごめん、なさい」
 気がつくと、泣いていた。
「――――――志貴」

 ふわり、とした感覚。

「―――謝る必要はないわ。
 たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、そ
れは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
 先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「せもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、
きっと取り返しのつかない事になる。
 だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のこ
とを嫌ってもいいわ」
「・・・ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。・・・私が君に
出会ったのは一つの縁だったみたい」
 先生はそうして、僕が見えてるラクガキについて
聞いてきた。
 この目に見えている黒い線のことを話すと、先生
はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「・・・志貴、君が見ているのは本来視えてはいけ
ないものよ。
 『モノ』にはね、壊れやすい箇所というものがあ
るの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完
全じゃない。
 君の目は、そういった『モノ』の末路・・・言い
代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「・・・未来を・・・みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
 ――それ以上のことは知らなくていい。
 もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるな
ら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでし
ょうから」
「・・・先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
 ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してそ
の線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしま
うから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、な
んだか胸がいたいんだ。・・・ごめんね先生。もう
、二度とあんなことはしないから」
「・・・よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘
れないで。そうしていれば、君はかならず幸せにな
れるんだから」

 そうして、先生は僕からはなれた。
「せも先生。このラクガキが見えていると不安なん
だ。
 だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでし
ょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになって
もおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――ど
うやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
 はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑
った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげ
る。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ
」

 次の日。
 ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先
生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えな
くなるわよ」
 先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだか
ら」
 先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
 とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキが
ちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを
奪ってまで作った蒼崎青子渾身の絶品なんだから。
 粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志
貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね!
 あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、な
んだか魔法みたいだ、コレ!」

「それも当然。だって私、魔法使いだもん」

 得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地
面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。
ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、
線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ
。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生
きていくしかないの」
「・・・やだ。こんな恐い目、いらない。またあの
線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる
」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。
ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「・・・そうなの? だって、すごくいけないコト
だって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
 けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれ
を使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰
も、志貴を責める事はできないわ。
 君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な
能力を持ってしまった。
 けど、それが君に有るという事は、なにかしらの
意味が有るという事なの。
 かみさまは何の意味もなく力を分けない。
 君の未来にはその力が必要となる時があるからこ
そ、その直死の眼があるとも言える。
 だから、志貴の全てを否定するわけにはいかない
わ」
 先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線を
する。
「でもね、だからこそ忘れないで。
 志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
 いまの君があるかぎり、その目は決して間違った
結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
 君は君が正しいと思う大人になればいい。
 いけないっていう事を素直に受け止められて、ご
めんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵
な男の子になってるわ」

 そう言って。
 先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外し
ちゃだめだからね。
 特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
 どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判
断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人が
よく考えて力を行使なさい。
 その力自体は決して悪いものじゃない。結果をい
いものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴
、君の判断しだいなんだから」

 トランクが持ちあがる。

―――先生は何も言わないけれど。
 僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまっ
た。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
 ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったん
だ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたん
じゃないか。
 ・・・だめなんだ。
 先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだ
めに決まってるじゃないか・・・!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も
騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせる
わ」
 先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と
僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
 君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコ
トをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけな
いわ」

 先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃお別れね。
 志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし
穴だらけなのよ。
 君は人よりそれをなんとかできる力があるんだか
ら、もっとシャンとしなさい」
 先生は行ってしまう。
 とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、
シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気
でいなさい。
 いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後に
よくものを考えるコト。
 大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるか
ら」
 先生は嬉しそうに笑う。
 
 ざあ、と風が吹いた。
 草むらが一斉に揺らぐ。
 先生の姿はもうなかった。

「・・・ばいばい、先生」

 言って、もう会えないんだな、と実感できた。
 残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメ
ガネだけ。
 たった七日だけの時間だったけれど、なにより大
事なコトを教えてくれた。
 ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。

―――ああ、なんてバカなんだろう。

 僕はさよならばっかりで。
 ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった
。
 僕の退院は、それからすぐだった。
 退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家
に預けられる事になった。
 けど大丈夫。
 遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
 新しい生活を、新しい家族と過ごす。

 遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
 新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人にな
ったんだと思う――――


さらにさらに奥へ!!