明石中学明石高校硬式野球部略史

明中野球部訓育方針
  
グランドは人間修行の道場である
 すぐれた選手はすぐれた生徒であれ


創部期

 明石中学は大正12年に創立されると13年に野球部が創られ、明石中学と一体となり成長・発展し全国に知られるほど戦績を残しました。
 明石が兵庫予選に初めて出場したのは昭和2年、小畑ー内海のバッテリーでいきなりベスト8に入った。

黄金期

 昭和5年第7回全国選抜野球大会初出場、以後8・9・10・11回大会に5大会連続出場を果たす。
夏の全国野球選手権大会兵庫大会では昭和7年に甲陽中学を破って初優勝,全国大会でも北海中学・大正中学・八尾中学を倒してベスト4に名を連ねた。翌、昭和8年も甲子園へ。楠本・中田のコンビと横内・嘉藤らの活躍で準決勝に進出、そして球史に残る中京・明石の延長25回の死闘を演じたのである。その健闘を称え、朝日新聞社より朝日牌、JOBKより善闘記念牌が贈られ、昭和9年3月3日にグランドのバックネット横に、善闘記念碑が建立された。

                 
  朝日牌   善闘記念牌 善闘記念碑 スコアブック 野球体育博物館所

                   善闘記念牌
  訳文
 多くの草の争いの中で一輪の美花があっても、それに次ぐ花がなければ、その秀れた美はほんとうに判るものではない。これ試合はじつにその最高のチームとそれにつぐものとの争いであって、よく攻めよく守り、まったく力を傾けつくし、意気を極点まで燃え上がらせたものだ。さらに火華を散らす技と動作とに至っては、巧緻で俊敏、この力と技との両々あいまって、形容する言葉もない至上の境地、呼吸のぴったり合った緊迫の一戦ともいうべきもの、どちらが優るか劣るかなどという論議をいっさい超越した絶対の世界が、ここ目の前に出現した。勝って月桂冠を頭に頂くのと、敗れて楯に載せられて帰るのとは、どちらを男児の本懐とするか。それはどちらとも言えない。まして名誉か恥辱かなどは問題にもならぬ。輝く大空の彼方から射す至高の光ともいうべき栄光が両軍の上に平等無差別にふり濺いだ。だから勝利を獲たものもしんみりとして驕らず、勝利を失ったものもまた悔がなかったであろう。
 この日戦われた試合こそは、わが国球史空前の偉観で、灼熱した鉄のような全精根を駆使して龍虎の争いのように烈しくうちあい、刃を交えることなんと二十五回、まことに太陽にも月にもその輝きを争うの豪華さ、私は現実にこの目で見た者だが、同じ何千何万の人と共にこれこそ不朽の大記録だと信じる。
 戦い終わったあと、両チームをとりまく大観衆がしんとして声を呑んだのも、この深い感動のせいである。ことばに出来ぬ感激を強いて言葉にしてこの賛辞をつづる。
   
         甲子園    昭和八年八月十九日
                              大阪中央放送局の依頼で
                                          富 田 砕 花


翌、昭和9年は全国制覇の呼び声が高かったが、兵庫大会の決勝で神戸一中に苦戦、延長20回を戦い決勝スクイズで1−2で敗れた。
昭和13年、四年ぶりに井筒−野崎のバッテリ−で6回目の選抜出場、北海中を8−3で破ったが、3回戦で海南中に0−4で惜しくも敗れた。その後、育英・滝川と並ぶ強豪の座は戦争に突入するまで揺るがなかった。

                    戦後史