「信仰によって生きる」

森田恭一郎牧師

(ローマ信徒への手紙 1:16-17)

今から500年前の1517年10月31日、ルターがドイツのヴィッテンベルグの城教会の扉に「95箇条の提題」を張り出した、そこから、後に宗教改革と言われる出来事のその火ぶたが切って落とされたと通常言われています。その後の歴史を大きく動かす程のその大きな出来事、それなしには、例えば、その後の清教徒革命=ピューリタン革命も起こらなかったし、アメリカ合衆国の建国にも至らなかったし、アメリカの宣教師によって伝えられたプロテスタント教会としての河内長野教会も存在しない、そういう歴史に大きな影響をもたらした出来事は、しかし、ルターによるたった一つの聖書の言葉の発見、気付きから始まったのです。それを歴史学者たちは、ルターの「一点突破」と言い表します。その一点とは何か。「神の義」の発見です。

詩編71篇1節以下(p.904)「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせて下さい」。31篇にも「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって私を助けて下さい」とほぼ同様の御言葉があります。新共同訳聖書で「恵みの御業」と訳出しておりますが、口語訳聖書では「主よ、私はあなたに寄り頼む。とこしえに私を辱めないで下さい。あなたの義を以て私を助け、私を救い出して下さい」と訳出しております。「あなたの義を以て私を助け」が新共同訳では「恵みの御業によって助け」となっています。新共同訳聖書は内容を表すように意訳しているようです。

当初、ルターにとって「神の義」、人間の罪を裁く正義でありました。そこでルターは、裁かれないように、何とかして罪人から義人になろうと、修道院で修行に励むのですが、およそ義人にはなれない。仮に修道院の規律を守って外見上、行為は立派に出来たとしても、裁かれないためにという自己本位な動機である限り「手を洗えば洗う程汚れる」という内面の心は到底、義なる心にはなれない。だからルターにしてみれば「神の義」は罪人を裁く恐ろしい義でしかなかった。恐ろしいい神の義を前にルターはたじたじとなっていた。

それがこの詩編のみ言葉にぶつかった。というのは「あなたの義を以て私を助け、私を救い出して下さい」。あれっ? 何故、神の義で助けられ、救い出してもらえるのか。神の義は罪人を裁く義であるのに…。ルターは、今度は罪人を助け救い出す神の義に悶々とする訳です。

それである時、ハッと気が付いた。聖書の御言葉にハッと気が付く。これが聖霊の導きという事ですね。何て気付いたかというと、神様はご自身の義を、罪人の私たちにプレゼントして下さるのだ。だからその義を以て救って戴けるのだと。神の義と救いがセットになった。そしてここから新約聖書を読んでいくと、「福音には神の義が啓示されている」。ローマ書1章17節の御言葉です。神の義と福音がセットになっている。イエス・キリストに在って神の義がプレゼントされる。それが福音だ。そして旧約聖書の詩篇もキリストを言い表しているのだ、とルターは捉えた。この神の義の発見、このことについてルターはこう言ったそうです。「この認識を私は修道院の塔の小部屋において得た」。それで、後の歴史学者はこれを「塔の体験」と呼びます。この塔の小部屋で神の義の発見という一点突破が起こり、この一点から宗教改革へと全面展開していきます。

さて、今日の説教題を「信仰によって生きる」と致しました。言うまでもなくローマ書の「正しい者は信仰によって生きる」から引用したものです。今日の主題はここからです。繰り返し言ってきましたように、宗教改革の三大原則は通常「聖書のみ、信仰のみ、全信徒祭司性」の三つです。でも「全信徒祭司性」に代えて「恵みのみ」の三つを挙げることもあります。救われるのは恵みのみによる。その恵みを信仰を通して受け取る。信仰は救いの恵みを受け取るのに必要です。人間が自ら義人になって善き業を以て救いを勝ち取るのではありません。それでは恵みではなく人間の行為になります。信仰によって救われるという言い方もありますが、それは信仰を通してでないと恵みを受け取ることが出来ないからです。受け取るだけでいいのだ、ということを強調するならば、小さな「からし種の信仰」で十分です。むしろ信仰がからし種以上の大きさになって、私の立派な信仰などと、信仰を主張するようになると、恵みをはじいて、恵みを受け取れなくなるでしょう。 

その上で、信仰の意味はあるのです。「信仰によって生きる」ということです。この「信仰によって生きる」ということに「全信徒祭司性」を位置づける考え方もあります。信徒として生きることが、祭司として執り成しと愛に生きる事なのだという風にです。

今日ここでは「信仰によって生きる」の言い方で説教します。

信仰は三つの形がある。信仰を通して恵みを受け取り、信仰に在って信仰者であり、信仰によって生きていく…。「生きる」はギリシャ語では未来形ですので、時間の区別を強調して言いますとこうなります。人はこれまで信仰を通して恵みを受け取ってきて、恵みを受け取ったことを自覚して今、人は信仰に在って信仰者であり、これから信仰者は信仰によって生き続けていく…。

信仰によって生き続けていくのは、救われるためではありません。既に恵みによって救われています。それで、救われた者として信仰によって生き続けるのです。

今、信仰に在って信仰者である。少々耳慣れない言い方をしました。皆さんは今キリスト教徒です。信仰者です。それは信仰を得ているからです。当たり前のことです。招詞で読みました詩篇92篇は(p.931)、1節に「賛歌。歌。安息日に」とあります。安息日における信仰者の今を確認する歌です。 「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは。いと高き神よ、御名を褒め歌い、朝毎にあなたの慈しみを、夜ごとにあなたのマコトを宣べ伝える事は。十弦の琴に合せ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて」。楽器を用いて礼拝をささげています。「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」。礼拝は楽しいんです。神の義を与えられ、罪赦されて、今恵みの中にいることが出来る。楽しいですね、喜ばしいですね。それが安息日の今、信仰に在って信仰者であるということです。 

そして安息日を経て、そこから信仰によって生きていく。それが私たちの日常生活です。私たちの日常生活は信仰によって生きている日常生活です。敢えて、自分に問い返してみましょう。皆さんの日常生活は、信仰によって生きている生活ですか。それとも信仰によって生きていない生活ですか。私が確認したいのは、信仰によって生きていないと駄目だぞと責めることではありません。そうではなくて、皆さんの日常生活が信仰によらない生活であるなんてあり得ない、ということです。

皆さんは、もしかするとこう思われるかもしれない。私なんか、立派な信仰生活などしていない、私の信仰なんて恥ずかしい限りです、と。成る程、自分を見れば恥ずかしい。でも皆さん、皆さんは、福音を恥じていますか。パウロははっきりと宣言しています。「私は福音を恥としない」。これなら皆さんも言えるはずです。「私は福音を恥としない」。自分を恥じてもです。私たちは歴史のプロセスの中に生きている。終末の完成は未だです。だから私たち自身が完成することも未だです。自分の力で義人になることは出来ないのです。その限り罪人であり続けます。だから自分を見れば恥ずかしい。人様にも、神様にも、本当は自分の姿は見せられない。でもそこで、福音を恥じないのが信仰者です。今、安息日のこの礼拝に於いて私たちは信仰者です。神様からの義を恵みとして受けて、プレゼントして戴いて、その限りにおいて私たちは義人です。でも地上に在っては罪人です。それでルターは言いました。「義人にして同時に罪人」。「大胆に罪を犯せ。しかし一層、大胆に信ぜよ」。

私たちは大胆に信じて信仰者であり、私たちは大胆に信じて信仰によって生きている。一度恵みを知ったものが、日々恵みを受け取ることなく生きていくことなど出来ません。17節に「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。キリストの贖罪の出来事は一回限りです。でも、そこで明らかになったプレゼントされる神の義は、安息日ごとに御言葉の説き明かしを聞き信仰を通して私たちの所に届きます。そこでいつも信仰を新たにされて信仰者となり、そして日々信仰によって生きていきます。終末の到来までの間、初めから終わりまで、続きます。口語訳聖書では「信仰に始まり信仰に至らせる」と訳出していした。信仰に始まって、福音を恥じる反信仰に至ることはない。信仰に至る。安息日ごとに恵みを受けていれば大丈夫です。そして礼拝から信仰によって生きる生活が始まり、その途中罪を犯しても、礼拝に向かって歩む。再び礼拝で罪赦して戴きます。信仰から信仰へ、礼拝から礼拝へ、クリスチャンライフを形成していく訳です。

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