「聖書のみ」

森田恭一郎牧師

(テサロニケ一 5:27)

今日の説教題を「聖書のみ」と致しました。「聖書のみ」言葉は、宗教改革の三大原則と普通言われる内の一番目に言われるものです。三大原則とは「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」のことです。今年は宗教改革500周年、500年前の1517年10月31日にマルティン・ルターが「95箇条の提題」をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に張り出して当時のカトリック教会に対して討論を申し込んだことから、宗教改革が始まったとされております。それで今日から11月一杯まで、私たちプロテスタント教会がこの宗教改革から学ぶべき事柄、いつも立ち戻るべき原点を巡って説教して行きます。今日はその最初として「聖書のみ」について思いを深めて参りたいと思います。

先日、ふっと思ったのですが、聖書は顕微鏡のような、双眼鏡のような、望遠鏡のような書物だと。顕微鏡を覗いてみると、身近であっても日頃見ない小さな世界が見えてきます。双眼鏡では少し離れた様子がよく見えてきます。望遠鏡なら遠くの星や地球を包む広い宇宙に思いを馳せます。

聖書は日頃見ない世界を見させてくれます。聖書は、自分を新しく知る顕微鏡のようであり、人間世界の呻きや悲しみに気付く双眼鏡のようであり、自分を見守り包んで下さる神様の愛を発見させ、神様の愛に思いを馳せさせてくれる望遠鏡のような書物です。

神様の愛は、キリストを証し紹介する聖書という望遠鏡でのみ見えてきます。教会の礼拝で聖書を覗いて、その言葉を味わえば味わうほど、遠くにあって自分とは関係ないと思えていた神様とその愛がグングン近くに迫って来て私たちを包み込んでいることに気付き、喜びを覚え、それを信じないではいられなくなります。

皆さん、聖書を開いて覗き込むようにして神の言葉を味わう。素晴らし事ではありませんか。もし、この世に聖書が無かったらどうなるだろうか。神様の事も、イエス・キリストの事も、聖書を開いて覗き込むようにして知る術が無くなります。イエス・キリストの事を知ることが出来なくなったら、十字架に基づく罪の贖いも罪の赦しも、復活に基づく永遠の命の希望もなくなります。この地上にキリストを宣べ伝える教会もなくなります。ここに聖書があってこの聖書を開くと、聖書を覗き込んでみると、聖書を通してのみ見えてくる広がる世界がそこにある。だから「聖書のみ」です。

500年前、ヨーロッパには聖書はありました。ルターのおりましたドイツにも聖書はありましたが、それまで聖書は一文字ずつ書き移して聖書の書物を作りましたので、冊数は限られとても貴重なものでした。それで、聖書があるのは教会や修道院などごく限られた所にだけでした。民衆は聖書を手にすることは出来なかった。しかもラテン語訳がカトリック教会の公認聖書でしたから、ドイツの民衆は、仮に聖書を手にして開いても読むことも出来なかった。カトリック教会のミサ、礼拝も、ラテン語でしたから呪文を聞いているみたいで、聖書を分かる言葉で聴くことも、ましてや内容を理解することも出来なかった。福音を知ることもなかったと思います。それで当時、聖書を読むことが出来るのは神父さん。しかも難しい個所を最終的に解釈できるのはローマ教皇だけでした。カトリック教会とそのトップの教皇が、聖書の上にあって聖書を解釈した。それをラテン語で語った。民衆は分からない。

そこでルターは聖書をドイツ語に訳した。丁度印刷機が発明されて、聖書が以前に比べれば人々の手に届くようになった。もっとも当時の一般民衆は勉強する機会がなく、ドイツ語を読むことが出来ない人が多かった。それでルターは、聖書を読んで聞かせ、福音の説教をドイツ語で、しかも書き言葉のような文語体ではなく、日頃会話するのと同じ口語体のドイツ語で語った。それはルターが聖書の上に立って聖書を解釈して説教するのではない。いわば聖書の下にいて、ルター自身が聖書から聴いて、聖書に基づいて説教する。

ローマ教皇抜きに自分で「聖書のみ」から聖書からだけ聴いて、福音の世界を味わう。それを説教する。

この時の民衆の体験を、今祈祷会で読み進めている『マルティン・ルター』の著者の徳善義和はこう表現します。「イエス・キリストの語ったことばが、自分たちでわかる言葉で耳に聴こえてきたのである。いわば『ことばの体験』であった」。それは外国梧が自国の言葉で聞けるようになったというだけの話なのではない。「イエス・キリストの語った御ことばが、自分たちでわかる言葉で耳に聴こえてきたのである。いわば『御ことばの体験』であった」ということです。福音を理解する「御ことば」の体験です。

ハバクク書の2章2節(p.1465)に「主は私に答えて言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ』」。幻。御国が来る。神が直接ご支配する世界が実現する。そういう幻でしょう。それはまだ実現していない。だから今は幻です。今の現実は何かというと異国の異邦人に支配されて、いつ迫害に遭ってもおかしくない。出来ることはただ逃げるしかない。だから、走りながらでも読めるように板の上にはっきりと幻を書き記す。迫害や困難の中で、御国到来、救いの完成を語る御言葉を読めるように、思い起こせるようにしておけということなのです。迫害や困難の中で逃げまどい走り回る中で、あなたを支えるのは、この板の上に書かれた御言葉だ、とハバククは聞いたのです。板の上にはっきりと記されたみ言葉、私たちにとっては聖書の御言葉ですね。

パウロは、エサロニケの信徒への手紙を書き終わるにあたってこう記しました。「この手紙を全ての兄弟たちに読んで聞かせるように、私は主によって強く命じます」。当時は新約聖書はありません。どうやって主イエス・キリストの救いの世界に触れることが出来たかというと、それは復活の主イエスに出会った使徒たちの証言に拠りました。テサロニケの信徒への手紙も使徒パウロの証言の言葉を記したものです。これが後に、今日あるように新約聖書に収められることになりました。

パウロはこの手紙の言葉を「全ての兄弟たちに読んで聞かせるように、私は主によって強く命じます」。強い調子で命じています。これはパウロが強がって命じているのではありません。あなた方の救いはイエス・キリストを証言するこの手紙の言葉「聖書によってのみ」体験できるのですよ、だから聖書が大事ですよ、ちゃんと教会でも自分自身でも読めるのですよ、と、この幸いを強調している訳です。

500年前ヨーロッパには聖書はありました。しかし日本にはありませんでした。でも今は、私たちは聖書をしかも日本語で手にすることが出来ます。聖書に基づく説き明かしの説教を理解して聴くことが出来ます。その聖書の読み方を身に着けて自分で聖書を読むことが出来るようになっています。実に幸いなことです。

教会の礼拝で聖書を覗いて、自分でもその御言葉を味わえば味わうほど、遠くにあって自分とは関係ないと思えていたキリストとその愛がグングン近くに迫って来て私たちを包み込んでいることに気付き、喜びを覚え、それを信じないではいられなくなります。

聖書が私たちの手にあることを感謝します。キリストの愛に包まれ、御国の完成の希望を与えられています。私たちも、これからもみ言葉の体験を深めさせて下さい。

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