「聖霊の悲しみ」

森田恭一郎牧師

(テサロニケ一 5:19)

「霊の火を消してはなりません」。ここで「霊」というのは言うまでもなく、人間の霊ではなく「聖霊」です。そして「火を消さない」。聖霊の火を消さないというのは、生きて働いておられる聖霊の働きを消してはならない、その導きを妨げてはならないということです。今日の聖書は「霊の火を消してはなりません」と私たちへの命令の言葉として書かれていますが、まず聖霊御自身が自らの火を消すことをしない、ということを語りたい。そうであるからこそ私たちも霊の火を消さないでいられるのです。

今、詩編を読みました。主の憐れみ深いことを語っています。78篇38節「しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。神は御心に留められた。人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」。人間の儚く歴史の中に在ってはいずれ過ぎ去っていく者であることを神は御心に留めて下さいます。そうであるのに人間はどうであるか。40節「どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し、砂漠で御心を痛めたことか。繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけ、御手の力を思わず、敵の手から贖われた日を思い起こさなかった」。

神は「繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった」のに、人間はといえば「繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけ、御手の力を思わず」と続きます。繰り返し、繰り返し、神を試みるのであります。人間が神を試みるというのは、本当に神はいるのか、そういう不信仰の思いを持つということです。歴史の現実を見れば見る程、不条理の出来事が起これば起こる程、神なんかいないではないか、そういう思いへと駆られる、引きずり込まれる。そして聖霊の導きを求めなくなる。霊の火を消してしまいます。

このように詩編78篇35節-42節では、神の姿と人間の姿が対比されています。

私たち教会の者はイエス・キリストのことを知らされておりますが故に、この神のお姿を、神様であられるから、イエス・キリストの贖いがあるからと、それを有難く受け取りつつ、いわば当たり前のように思っております。当たり前のように思わなければいけないのですが、当たり前のことを本当に当たり前のこととして感謝する事が求められている訳であります。

聖霊の導きという事について、正直申しまして分かりにくいと思うことが多いと思います。父、子、聖霊と言う時、神様というのは何となくイメージを持ちます。御子キリストは聖書・福音書を読めば分かります。聖霊はというと分かりにくい。聖霊ってどうやって分かりますかと問われることがあります。まして聖霊の火を消してはいけない。霊に燃えてなければいけない。自分は燃えているかなと自信をなくしてしまうような気持ちになることもしばしばです。

あのエマオ途上の弟子たちが、後になって「あの時、私たちの心は燃えていたではないか」と後になって気が付いたように、その時には分からないものなのかもしれません。もっとも燃えているかどうかが大事なのではない、実感するかどうかが大事なのではありません。神様は信じる対象です。実感する対象ではありません。実感しなくても信じていきます。

体験を求めるなら、こうやって私たちが礼拝に集っている。悔い改めをささげる。賛美をささげる。み言葉を聴く。慰めを受ける。笑顔になる。こういった体験はみんな聖霊のお陰です。余りに当たり前すぎて、それを聖霊の導きであると気が付かなくなっているのかもしれません。でも考えてみれば、私たちは教会に来る前、讃美歌を歌ってなかった、神様に祈るなんてしていなかった、神様を信じてなんかいなかった、讃美歌を歌い、祈り信じるという事、決して今のように当たり前ではなかった。当たり前でなかったことが、何故今当たり前になっているかというと、日々聖霊の導きがあるからなのです。何故、当たり前になっているかという事を自覚した時に、聖霊の導きのお陰なのだと分かる。

言い方を変えてこう言ってもいい。善いことと悪いことがあってそのどちらを行うか、もし人間がその中間にあって、どちらにしようかなと自分が選び得る、と考えるならそれは誤りです。人間は自由意志を持っていますが、人が良心を持ち、理性を働かせ、善い判断が出来るのは聖霊の働きのお陰です。聖霊の働きがあって初めて人は善を行うことが出来る。聖霊がこうしてごらんと導いて下さるから「そうしよう」と思いが起こされて行う。聖霊の導きが無ければ、人間が自由に何事か出来るとしても恐らく悪いことを主体的に選ぶ。それが人間の持つ弱さです。それしか出来ない。決して中間にいて選び取るのではない。弱い存在ですから、聖霊がせっかくこちらを選びなさいと言っておられるのに、聖霊の導きを妨げて悪い方を選び取ってしまう、それがいつもある訳です。そのような時、聖霊は呻くようにして弱い私たちのために執り成して下さいます。これらの聖霊についてのことは信じていくことなのです。

「霊の火を消してはいけない」。この言葉からうっかりすると誤解してしまうかもしれません。例えば神仏にお供えする灯明の灯を一晩中消さないで灯しておく、のような事を思い描くかもしれません。でも聖霊は神様御自身です。エフェソ書4章30節(p.357)に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。人格を持つ神様であられる聖霊、その火を消さないというのは、ただ物理的に灯を消さないということではない。その火を消したら聖霊は悲しまれるのです。人格的な出来事がそこに起こります。

聖霊は私たちと神様の関係を造る働きをします。父なる神様のことをキリストは証しします。キリストを見ると本当の神様がどういう方であるのか分かるという事です。そしてイエス・キリストのことを聖霊なる神様が私たちに教え、信じさせて下さいます。聖霊によらなければ「誰もイエスは主であると告白できない」のです。そのように自分と主イエスを繋ぐのが聖霊です。だから主イエスと繋がっていれば、そこに聖霊の働きがそこにあるのです。たとえ私たち自身は聖霊を実感しなくても。

せっかくのその聖霊の導きを私たちが妨げる時、「神の聖霊を悲しませる」ことになる訳です。マルコ福音書3章1節以下(p.65)にこうあります。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。答えは明らかです。安息日であっても、安息日だからこそ、善を行い命を救うのが当たり前のことです。であるのにこの問いに対して人々は黙っています。

そこで主イエスは、5節「そこで、イエスは怒って人々を見回し」ました。主イエスはここでお怒りになったのです。けれども「彼らの頑なな心を悲しみながら」というのです。ここで主イエスの怒りが怒りのまま残らないで悲しみになった。

もし悲しみにならずに怒りのままだったら、お前たちはそんなことも分からないのかと、この人たちをやっつけることになってしまったかもしれません。でもそうではありません。怒りながらも悲しみに変えられた。彼らの心が頑なになっているとき主は悲しみを以て人々をご覧になっている。聖霊の導きを私たちが妨げる時、主は悲しんでおられる。聖霊は悲しんでおられる。

主イエスを訴えようとして心を頑なにしていた人たちは「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問われて、善と救いを選びことが出来たはずです。それが当たり前なのに、だけれども出来なかった。善と悪の中間にいたのではなかった。分かっているのに出来なかった。だから黙っていました。そして彼らは最終的に3章6節「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。生かすのと殺すのとどっちがいいのかと問われて、殺す方がいいと答えている…。

主イエスの御心を受けとめず、聖霊の導きを妨げる時、人間に出来る事は殺すことです。そしてこのことは今日に至るまで歴史の中に続いている。神様どうして、歴史の中に争いが絶えず、戦争が続くのですか、テロがこんなに頻発するのですか、それがいけないということは誰が見てもはっきりしているのに、と思い、どうして神様はそれを放っておかれ許容してしまわれるのですか、と神様を責める気分にもなってしまいます。けれども神様は何もしていないのではありません。悲しんでいらっしゃる。主イエスが悲しみ、聖霊が悲しんでおられることを、私たちが心に留めることが、主の御心に絶えず思いを向けるために必要なのかもしれません。主イエスご自身が悲しみを心に抱えながら、どうしたらいいだろうかとお考えになった。

主イエスは詩編78編38節を御自身の事として受け止め、「そうだ、私は憐れみ深く、罪を贖う。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くすことはしない」。そうやって十字架に向かわれた。相手の罪を憤り、怒り、そしてそこに留まらないで相手の罪を悲しまれて、更にもう一歩、相手の罪を自らの罪として背負おうではないか、このキリストのご決断があるのであります。

エフェソ書の言葉は聖霊の働きを最後に一つ加えている(4章30節)。「あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」。贖いの保証です。私たちは繰り返し怒りの対象となるようなことをしでかしています。罪深い者でしかありません。どっちを選ぶかと言えば悪い方しか選ばない、自分からは。そのような者であるのに、私たちは贖いの日に聖霊によって保障されている。主イエス・キリストが十字架で私たちの罪を代わりに背負って下さった。お怒りになる所を悲しみに変え、悲しむ所を更に私たちの罪を自らに負って下さった。その贖いの日に対して聖霊は保証しておられる。どれ程罪深い私たちだったとしても、この日には、私たちは怒りの対象、悲しみの対象で終わらない。罪が贖われて愛の対象、喜びの対象として、聖霊は私たちを見ていて下さいます。

終わりに聖霊と倫理的行為について考えてみます。4章30節の前後、29節と31節以下「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦して下さったように、赦し合いなさい」。これらの倫理の業を語る言葉は、「ただ、聞く人に恵みが与えられるように」とか「神がキリストによってあなた方を赦して下さったように」の部分を除いてしまえば、一般の道徳律と変わらないかのようです。でも30節が中心にある倫理です。先ほど聖霊は神と私たちの関係を繋ぐ働きをされると申しましたが、ここではもう一つ、私たちの業をも支えてくれます。聖霊の導きがあった時に、29節、31節以下の「ただ、聞く人に恵みが与えられるように」とか「神がキリストによってあなた方を赦して下さったように」の部分を思い起こさせて、その業を可能にさせて下さいます。

私たちは相手に対して、そのようにしたいと思うのですが、私たちの心の中に出てくるのは、こんな奴、という思いです。赦し合いなさいと言われても赦せるものか、と思う。もっとも赦せるようなことではないとそれ自体は間違っていないこともあるでしょう。

聖句のようになるために何が必要かと言えば「キリストがあなた方を赦したように」、「聖霊が今導いておられるようにあなた方も赦し合いなさい」、すなわち聖霊の火を消さないことにおいて、神さまとの関係が作られ、神さまとの関係が作られることによって人との関係も支えられていく。でも、それであなた方もこのように立派にして下さい、という話ではなくて、やはり立派に出来ないのです。だから絶えず聖霊の導きをお願いしますと祈り続けるしかない。弱さや欠けがあるので、一週間の生活の中で、失敗がある、赦せなかった、悪いこと言ってしまった、色々なものを引きずる訳です。

そして引きずったものをこの礼拝に持ってきて、良い恰好してここに来るのではなくて、引きずったままここに来て、ご免なさいと神様に懺悔をし(人に言う必要ないです)、赦して戴くことが大事なのです。それを御言葉によって示される。教会に集うという事は、そのように一週間の生活の引きずる部分をここに持ってきて、すみませんでした。改めて聖霊の導きをお願いします、と神様の前に平伏すことなのではないでしょうか。ここで赦しを戴いて、神様は私のためにも生きて働いておられるという思いの中で新たにされながら、新しい一歩をまた踏み出すことであります。それが霊の火を消さないという事です。

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