「感謝は、無と感動から」

森田恭一郎牧師

(テサロニケ一 5:16-18)

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」…と言われても、どんなことにも感謝するなんて出来ない…と思う。また自分は、どんなことにも感謝出来るほどお目出たい人間ではない、と思うかもしれない。今日は、感謝することについて思いを巡らしたい。

通常、人は自分にとって何か良いことがあると感謝できる。良くないことがあると感謝など出来ない。今日の説教題を「感謝は、無と感動から」と致しました。まず「感動から」について。

十日ほど前だったでしょうか、夕方になってドン、ドーンと音が響いてくる。「雷だ」と思ったのですがよく聞いていると、雷ではなくて花火の音であるらしい。会堂の3階に上ってそこの小窓から覗いてみると、北の方に花火が上がっているのが見える。PL教団の花火だったようです。見ている内に段々と。威勢のいい、少し複雑な花火になっていく。最初は、ドーン、パッと単発に花開く花火、それがドドーン、パパパパッとなっていく、話によると以前はもっと威勢が良かったとか小耳に挟んで聞いておりましたが、でもさすがPLの花火だ、などと思いながら観ていました。

でも、もう一つの花火大会を思い出すことが出来ます。その数日前のお隣の子ども園での花火大会です。園庭で、ヒューンと上がってすぐパッと花が開く。一般家庭の小さなでは挙げられない、園庭だから出来る花火ですが、それでもPL教団の花火に比べれば、実に可愛らしいささやかなものです。でも、そこには感動があった。花火を観ての私の感動ではない。園児たちの感動です。言ってみればこんな感じです。ヒューンパッ、ワーッ、ヒューンパッ、ワーッ、

ヒューンパッ、ワーッ、三連発の同じ花火なんですが、またおんなじだと歓声が小さくなることはない。ワーッという歓声の声は、その次の花火も、その次の花火も、最後まで小さくなることはなかった。子どもたちはきっと、今日花火観れて楽しかった、よかった、感動した、ありがとねー、だったのではないでしょうか。一方私はといえば、PLの花火を観ても子どもたち程には全然感動していなかった。何故だろうか。園児たちはPL教団の大きな威勢のいい花火は知らない。その分、目の前に見る花火に感動できるのでしょう。

説教題「感謝は無から」。皆さん、この詩=ポエムをお聞きになったことがおありだと思います。少し長いです引用します。

「大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと神に求めたのに、弱い者とされた。謙遜を学ぶようにと。   

・より偉大なことが出来るように健康を求めたのに、病気を戴いた。より良いことが出来るようにと。

・幸せになろうとして富を求めたのに、貧しさを授かった。賢明であるようにと。

・世の中の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに、弱さを授かった。神を求め続けるようにと。

・人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、命を授かった。あらゆることを喜べるように。

・求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた。私は神の意に添わぬ者であるのに、心の中の言い表せ ない祈りはすべて叶えられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに 祝福されたのだ」。

これは病院のリハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている無名兵士の詩です。彼は、意に反して負傷して、思いもかけない体が不自由になってしまった中で、「私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」と感謝をささげている訳です。

もう一つ、水野源三氏の詩にこういうのがあります。途中省きますが、「病に倒れたその時には涙流して悲しんだが、霊の病癒したもうキリストを知るためだと分かり、喜びと感謝に変わりました。

過ちを犯したその時には、心を乱し悔やんだが、全てをば償い給うキリストを知るためだと分かり、喜びと感謝に変わりました」。

何故、二人とも、感謝をささげられるのだろうか。願ったものは何一つ与えられない。意に反して怪我を負って不自由になり、思いもかけない病になってしまって、生活の全てお世話にならなければならなくなってしまったのに、です。 それは、欲しいもの全てが与えられず、欲しいもの全てをすべて失って…、そして思いもかけない仕方で、恵みが恵みとして与えられることを知った、こちらの善し悪しに関係なく与えられる「恵みということ」を知ったからです。失ったものに目を向けるのではない。また与えられたとしても与えられたものに目を向けるのでもない。与えて下さる方に目を注ぐのです。その時、感謝が湧き上がってくる。 

イザヤ書51章。51章は、イスラエルが国を失いバビロン捕囚の中にあった時に主が語られた言葉を記した詩です。

1節「私に聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。

そう、人は正しさを求めます。でも歴史の中では正しさばかりではない。むしろ不正が起こり、あるいは不条理が起こる。そこでどうするか。「主を」尋ね求める。そして「元の岩、岩穴に目を注ぐ」。元の岩とは自分たちがイスラエルの民であったということ、その岩、でも穴が空いた空っぽの岩。空っぽの自分自身。イスラエルの民も空っぽだった。そして2節「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。私はひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」。空っぽの所から、主は祝福して子孫を増やした。無から有を呼び出したのです。この主なる神に改めて思いを向ける中で、あることを経験する。

3節「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」。そこには主の慰めがある。エデンの園、主の園が与えられる。でもそれは、ただ豊かな「園」があたえられるというのではない。与えられるのは「主の」園なのです。そこに感謝が起こる。感謝も与えられる。それで3節最後の行、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」。

あの無名兵士は感謝しようと思って感謝したのではない。祝福された、それで感謝。負傷して欲しものが得られないあのような時に、神はおられなかったのではない。思いもかけない仕方で神から受けて、あの兵士は感謝した。水野源三氏も感謝しようと思って感謝したのではない。病に倒れたそのような時に、神はおられなかったのではない。思いがけない仕方で、キリストを知るためだと知らされて源三氏も感謝に変わった。

小島誠志牧師の聖句断想から今週も引用しましょう。8月12日の聖書日課から「しかし、神はおられます。世の片隅の馬小屋に来られた神は、どんな貧しい者の声にも耳を傾け、答えて下さるのです」。そうです。馬小屋に生まれ、何も悪いことはなさっておられないのに十字架につけられた。その不条理を知る神がおられるのであります。主イエスも、あの兵士のように言えば、神の御子として神の栄光を求めたのに十字架にかけられた。それは全ての罪人の救いのために」。御子が十字架につけられる最大の不条理ですが、その時主イエスは感謝したでありましょう。神の栄光が最も相応しい形で現れたからです。

「どのような時にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなた方に望んでおられることです」。神が望んで下さるとき、神には不可能ではない。そこに神による恵みを見出し、目を注ぐのであります。

どのような時にも感謝した信仰の先達が、教会の群れにおりますことを感謝します。私たちの教会にも、このような経験を積み重ねてきた人たちがおられることを信じて感謝します。

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