「言葉に養われ、主と共に」

森田恭一郎牧師

(テサロニケの信徒への手紙一5章 12-13)

今日の説教題を「言葉に養われて、主と共に」と致しました。因みに来週は「言葉に養われて、皆、共に」です。「言葉に養われる」。エゼキエル書3章の所を読みますと(p.1298)「彼は私に言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい』。私が口を開くと、主はこの巻物を私に食べさせて、言われた。『人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ』。私がそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。

巻物を食べる、という言い回しが出て参ります。巻物には言葉がぎっしり書き込まれている。それを食べる。ここに書かれてある事を「読んで学びなさい」ではなく、「巻物ごと、巻物を丸ごと食べなさい」です。神さまは預言者として語るにあたって、エゼキエルにまず「食べること」をお命じになりました。食べることによってこそ、養われるからであります。そして語ることが出来るからです。

衣食住という用語があります。人が身体を以て生きていくのに必要な三つの要素です。言うまでもなく、衣は着る物、食は食べる物、食べたものによって身体的体は、骨も筋肉も細胞も日々新陳代謝を繰り返しながら造られます。それから住は住む所です。

これと同じように、信仰者として生きていくのに必要なものがあります。衣は、先週の聖句で言えば「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」ことです。「キリストを着る」ということです。食は「人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る言葉によって生きる」とあるように正に「み言を食べる」ことです。そして住は神の臨在の場所の象徴である教会に連なることです。礼拝に連なってキリストに繋がることです。この教会という住まいで、キリストを着、御言を食べる。学ぶだけでは、信仰者としての身体は養われない。御言を食べて、御言に養われるのです。

さて、私がこの河内長野教会の礼拝に初めて招かれて説教致しましたのは、昨年の7月第二週の主日でありました。お陰様で丁度一年になります。あの時以来語り続けて参りました一つの事は、Ⅰテサロニケ2章13節にありますように、説教を神の言葉として聴くということです。パウロはテサロニケの信徒たちに説教する訳ですが、彼らが、パウロの神の言葉として語る説教を聴いたときに神の言葉として受け入れたことを、パウロは心から感謝している。説教者は神の言葉を語り、会衆は神の言葉を聴く。そして神の言葉が「現にあなた方の中に働いている」と語ります。この語る者と聴く者との間にこの出来事が起こる時、教会が教会として成り立つということを述べて参りました。

今日の5章12節以下の個所でも、語る者と聴く者が登場します。ここでも両者の関係をパウロはここに語り「お願いします」と両者の関係の構築を願います。

12節の途中の所、「あなた方の間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」が登場します。今風に言えば、牧師や長老たちということになりますが、当時のテサロニケ教会にそういう職務が確立していた訳ではないでしょうから、パウロから神の言葉を聴き、今度は聴いた人が他の人たちに語る、そういう人々です。仮に指導者としておきましょうか。そしてパウロはここで、そういう指導者たちを「重んじ」「愛を以て心から尊敬しなさい」とお願いしています。会衆の指導者たちに対する信頼の姿勢です。

でもそれは、この指導者たち自身が何か偉いからではありません。重んじられ尊敬されるだけのものがなければなりません。それは「あなた方の間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」であり、また「そのように働いてくれる」人々だからです。指導者たちの会衆に対する愛の姿勢です。そしてその中身が大事です。どういう点で「労苦」し、「主に結ばれた者として導き戒めている」とはどういうことなのか、また「そのように働いてくれる」そのようにとは、どのようにということなのか。

この「重んじる」と言う言葉は、元々は単純な「知る」という普通の言葉です。でもこの言葉が、例えばヨハネ福音書でこう用いられている。10章(p.186)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。「羊は羊飼いの声を知っている」。これは、ただ知ってるよという知り方ではなくて「重んじる」と理解していいですね。「羊は羊飼いの声を重んじている」。だから「羊はその声を重んじているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を重んじないからである」。 重んじるという事が頭の中の理解で終わらずに、羊飼いの声を聴き分けついて行くという生き方になる。そしてその時、羊は慰められ安心して憩う事が出来ている。

もう一か所、Ⅰコリント2章(p.300)「兄弟たち、私もそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。何故なら、私はあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。

その指導者の声を重んじるには、その内容がある訳で、パウロは自分の声、その言葉の内容をこう表現しています。「私はあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。パウロ自身が「十字架に付けられたキリスト以外のことを何も知るまい、重んじまいと決意している。そして、この声の内容に信頼してついて行く時、会衆は慰められ安心して憩う事が出来ている。

パウロは、このキリストの言葉を重んじた。もし仮に、重んじなかったとしたらどうなるだろうか、コリントに着いたときパウロは「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」という状況でした。キリストの言葉を重んじなかったら、その状況に振り回され放しになったのではないでしょうか。しかし、単なる言葉の学びと知識を越えて、養われて生かされていると、どれ程状況が厳しくても、振り回されない。あるいは、あの人がああ言った、この人がこう言ったと十字架の言葉以外のものに振り回される。教会で平和でいられなくなり、教会から離れたりもするかもしれない。

この危うさと言うのは、誰でも抱えていると思います。だからパウロもまた、12節の最初の所で「兄弟たち、あなた方にお願いします」。この、飼い主をこそ知り、重んじる、幸いの中に招き入れているのであります。神の言葉を聴き、それによって養われて生かされる支えられ導かれるのであります。

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