「若者は幻を見、老人は夢を見る」

森田恭一郎牧師

(使徒言行録2章 17-21)

「終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。預言者ヨエルが預言し、ペトロが引用した聖霊降臨のあの日の出来事です。

「あなたたちの息子と娘は預言し」との聖書の約束です。息子さんや娘さんのいらっしゃる皆さん、聖書が約束していますから、この希望の内にお子様を見守るようにしましょう。お子さんだけではありません。「若者は幻を見、老人は夢を見る」。

少し言い換えて「若者は理想を描き、老人は悟りを得る」。それならば、若者と老人の間の年代の人は何を見る? 中年は現実を見る? この聖句はそういう話ではありません。「若者から老人に至るまで皆さんが、幻を見、夢を見るのだ」。ヨエルはそのように終わりの日、終末の日を、ヨエル自身が聖霊の導きの下、夢を描いている訳です。

皆さんはどのような幻、夢を見るのでしょうか?

そしてまた、教会も幻を見、夢を見る。どのような幻、夢を見るのでしょうか・・・。例えば、この会堂が毎週礼拝する人で溢れんばかりに一杯になる。皆さんのご家庭のご家族あ友人が教会に関心をもって、礼拝に見えるようになる。教会学校も幼い子供たちが沢山連れられてきて子どもたちの声が満ちるようになる。

隣は幼稚園ですね。毎週月曜日なると朝から賑やかです。それに負けない位、細身の園長さんや恰幅の良い事務長さんの声も響いてきます。また隣の小学生や中学生も登下校時、賑やかな話声が聞こえてきます。その子供たちの賑やかな声や姿を幼稚園や小学校にだけ取っておく必要はない訳で、教会でもそうなったらいいですよね。

この6月から聖愛保育園の子どもたちが時々来てくれるようになります。雨の時はどうだかわかりませんが、無理のない範囲で礼拝のために来てくれます。清教学園の中学1年生、高校1年生もこの4月入学記念礼拝のために来てくれました。あの3階席まで一杯になります。生徒たちが来てくれる。いい風景です。子どもたちだけではありません。親御さんや保護者の皆さん、教職員の方たち、大人たちも、町の皆さんたちも集うようになるといいなぁと夢が広がります。

あるいは、老人は夢を見る。例えば、病院や施設で、自分の人生はもう長くはないと思った人たちでさえも「牧師さん、長老さん、教会の○○さん、天国の話聞きたい」、患者さんが福音を聞いて、安心して希望の内に天国にい向けて旅立って行く。近隣の病院施設で、みんながそうなったら、本人はもとより家族の皆さんにとっても、医師や看護師にとっても明るい話ですよね。

そうやって、幼子や若者から老人に至るまで、河内長野の人たちが幻と夢というか、主イエス・キリストの愛の中に自分自身を、お互い同士を見出せるようになり、市民の皆さんが隣人愛に生きるようになり、河内長野の市民生活がキリスト教化されていく。そのための中心的役割を、キリストの愛が担う。そしてその愛を信じる教会と教会の皆さんが担って、福音を高らかにしかし静かに証しする存在になっていく。会堂の礼拝が溢れんばかりになり、河内長野の市民生活がキリスト教化されていく。万物のお礼拝、御国の全き到来、その一端を河内長野とその教会が現すようになる。これ私の幻、夢です。

こういう話をしていると、今度の牧師さんは夢ばっかり見ていて仕様がないな。我々は夢を食べて生きる「ばく」じゃないんだ。夢なんて儚いもの。もっと現実を見ないと、とお叱りを受けそうです。

でも考えてみましょう。例えば受験生に対して、お前はここが出来ていないからもっと勉強しろと現実の駄目な所に直面させてガミガミ言って指導するのと、君は将来こういうことやりたいんだろう、そこを目指してこの勉強やってごらん、と幻や夢をしっかり見させて指導するのと、どっちの方がやる気が出て、受験に向かっていくことが出来るでしょうか。

赤ちゃんが生まれた時、人は笑顔になります。この子、大きくなったらどんな子になるでしょうね、と皆笑顔になります。それは将来から幻や夢からその子を見るからです。赤ちゃんは過去がありません。生まれたばかりですから。過去を引きずっている今がありません。人は将来から見る時笑顔になります。こうお話しますと、ある人は反論するかもしれません。「私は認知症になったらどうしよう。いやもうなりかけている。それが私を待ち受けている将来だ」。こういう物の見方は、将来を見ているのではなく現実を見ているのです。

旧約聖書エレミヤ書23・25(p。1221)「私は、我が名によって偽りを預言する預言者たちが、「私は夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。いつまで、彼らはこうなのか」。ここで偽預言者が語る夢と、ヨエルが語る本当の預言としての夢とどこが違うのか。

26節途中から「偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、互いに夢を解き明かして、わが民が私の名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえに私の名を忘れたように。夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、私の言葉を受けた者は、忠実に私の言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと、主は言われる」。

思えば主イエスも、ゲツセマネのあの十字架を直前にした中で、私の思いではなく御心のままにと祈られましたが、御心は、神がご覧になる夢、幻と考えてよい。主イエスは、それがあったからこそ十字架に向かうことが出来た訳です。

キリストの名が覚えられる、キリストの十字架とその愛を根拠に語る夢、幻が本物だということです。そういえば「儚い」という字は人偏に夢と書きます。人間が描く夢は時に儚いまま終わる。でも神様がキリストの愛を根拠に提示する夢は、言ってみれば神偏の夢。それは儚く終わることはない。言われるまでもなく、私たちは地上を生き、現実を生きていかなければならない。でも、だからこそ、私たちは神さまの提示する真の幻を抱き、夢見ながら生きることが大切です。夢を見ようと見まいと、生きるのは現実です。ならば同じ現実を生きるのなら、真の夢を見、偽りのない望みを抱いてキリストにある高みを仰ぎ望みながら生きる方がむしろ現実的です。その望みの内に生きるのと、夢も希望もないと首を垂れて下を向いて生きるのと、どちらが現実世界を耐え、かつ世界を形成して行けるか?

そこで真の偽りのない夢・幻を見ようではありませんか。

パウロはどう私たちを見ていますか?例えばⅠコリント1・8(p.299)「主も最後まであなた方をしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ち所のない者にして下さいます。神は真実な方です」。あるいはフィリピ3・20(p.365)「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは万物を支配下に置くことさえ出来る力によって私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある形に変えて下さるのです」。これは身体的に表現していますが、わたしたちの身体が「キリストの栄光ある体と同じ形に変えられる」のですよ。最近テロが続発しています。その時の人々の勇気ある姿は、銃を手に取って戦おうという姿ではない。むしろ、憎しみではなく赦しをと言ってテロに屈服しない、分断されないで一体となった共同体への姿勢です。そういう社会を作ろう、形成しようとする姿です。そういう社会はテロの現実の中では依然、幻のままです。でもそこで幻を捨てたら、現実の社会を作っていくことは出来ない。テロリズムに流されるだけです。

ペンテコステの日、ペトロはダビデの言葉を引用します。ダビデが目の前に見ている幻です。25節「私は、いつも目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、私は決して動揺しない。だから、私の心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、私の魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たして下さる」。

またペトロは言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいる全ての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、この他にも色々話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

悔い改めるというのは、私が悪うございました、という話ではなく、むしろそういう過去からではなく、神さまの幻、夢から今を生きていくという事です。これが聖霊降臨の恵みです。これを証言していく教会が聖霊降臨によって誕生しました。この時以来、教会と教会の私たちはキリストの愛を証言し、神さまの幻、夢から今を生きていくという事をこの世に対し勧めていく存在となるのです。

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