「慰めのほとりに我ら招かれ」

森田恭一郎牧師

(テサロニケの信徒への手紙一4:9-10)

パウロは、兄弟愛について語り互いに愛し合うようにと呼びかけ招いています。9節「兄弟愛については、あなた方に書く必要はありません。あなた方自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」。

神から教えられている、とはどういうことだろうか。直接、天から神の声が聞こえて来て教えてもらうのだろうか。そういうことではないでしょう。パウロにしてみれば、あの2章13節「このような訳で、私たちは絶えず神に感謝しています。何故なら、私たちから神の言葉を聴いたとき、あなた方はそれを人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなた方の中に現に働いているものです」。使徒パウロは、キリストの福音を十字架と復活の福音とキリスト者の歩みについて語り、テサロニケの信徒たちがその説教を聞いたときに、神から教えられたのだとパウロは言っているのでしょう。

今日の旧約聖書イザヤ書54章(p.1151)では11節以下「苦しめられ、嵐に弄ばされ、慰めるものもない都よ」。あの時代、エルサレムは陥落し彼らはバビロニアに連れられてこられ、神を礼拝し神にまみえる神殿を失っていた。その彼らに、神殿再建の預言がされる訳です。そしてここでは神殿建築の材料に言及します。「見よ、私はアンチモンを使って、あなたの石を積む」。アンチモン、黒色に輝く鉱石だそうです。きっと高価なのでしょう。それを「使ってあなたの石を積む」。それから「ファイアであなたの基を固め、赤メノウであなたの塔を、エメラルドであなたの門を飾り、地境に沿って美しい石を連ねる」。サファイア、赤メノウ、エメラルド、美しい石、どれだけ現実性のある話かどうか解りませんが、むしろ終末の約束をイメージさせて、希望を与えている訳です。その神殿で「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」。この神殿での礼拝に於いて主について教えを受ける。 エレミヤ書の31章では(p.1237)「33~34節」。これはもう「来るべき日に」とありますから、終末の光景ですが、彼らは全て小さい者から大きい者に至るまで神を知るようになる、というのです。何故かというと、終末においては直接神にまみえるからです。新約の私たちはこう言える。イエス・キリストと貌と顔とを合わせて相見るのであります。外の誰かから教えられなくたって、直接お目にかかるのですから、主を知る訳です。

教会の礼拝というのは、終末の先取りですから、説教に於いて、聖餐に於いて、主イエスと出会う訳です。まだ直接、顔と顔とを合わせてという所までいきませんが、それでも私たちは、皆、主イエスのイメージを持っていますでしょう。御言葉を通し信仰において出会っているでしょう。その主イエスを前に私たちは皆、罪を贖って戴いた私たちであり、神に愛されている一人ひとりですね。

そして私たちはそのような者同士として、兄弟愛=互いに愛し合うように、他の誰から教えられるまでもなく、招かれている訳です。

私はこの教会に参りまして、どうですか、皆さん、皆さんは結構お互いに愛し合っているのではありませんか? 親戚関係にある方たちも多いようで、関係が密のようですね。その分、そこに入りきれないと逆に疎外感を感じてしまうこともあり得ますので、お互いより丁寧な配慮が必要かもしれません。程度の差はあるにしても、教会はやはりお互い愛し合っている、あるいはお互い心にかけ合っている。基本的にそう言える群れだと言えるでしょう。

前回、4章1節からの説教で、1節から12節は歩むという言葉が枠組みとなっていている。結婚生活に敗れたあのサマリアの女の人や姦通の現場を取り押さえられた女性、生まれながらにして目の不自由な人、彼らがそこから聖なる者へと歩み出した話を致しました。8節までの前半部分を終えて、今日の9節以下は後半部分となり、9節以下の更にその前半が兄弟愛についての話になります。

1から12節にはもう一つ枠組みになる言葉がありまして、それは「勧める」という言葉です。1節と10節にあります。この「勧める」というのは、教会員が程度の差はあれ、お互いに愛し合い心を掛け合っている、その歩みを更に続けて欲しいと使徒パウロとして勧めている。この言葉は「励ます」とも訳すことが出来る言葉ですが、励ましている訳です。

でももう一つ、この言葉は「慰める」とも訳せる。これは、愛し合う、心を掛け合うと言っても、完全には出来ない。100%には出来ない。今はまだ終末は到来しきってはいないからです。私たち自身の側から言えば、まだ途上です。到達しきっていない、未完成です。時に相手を愛しきれない自分に嘆き、相手から十分に心欠けてもらっていないと思えることについて躓いたりもする。これは私たちの現実として一方にある。それで自他を、お互いを責めるのではなくて、神さまからの慰めを私たちは必要としている。

今日の説教題を「慰めのほとりに我ら招かれ」と致しました。前回一冊の本から紹介しましたが、その題名『慰めのほとりの教会』から借用した次第です。その本にこうありました。ヨーロッパの風景ですが「遠くから車で町や村に近づいて来る者がしばしば経験するのは、村や町の風貌を作っているのはまさに教会堂の塔であるということです。教会堂がただ慰めのほとりにあるだけでなく、自ら慰めを与えるものであると多くの人々が経験する。教会堂の塔は、ただ単に一つの都市の象徴的な目印であるだけでなく、天を指している指である過ちを犯した者、慰めを求めている者たちに対して方向を示している」。私たちの教会堂とその塔も河内長野市民に対してそういう存在なのではないでしょうか。しかし、今日、申し上げたいことは、建物ではなくて、私たちの教会の礼拝が、このように天を指し示す塔であり、私たちが慰めを受け、慰めを与える共同体であるということです。

私たちの愛、兄弟愛は、私たち自身で完結することは絶対にありません。関係が密になればなる程、破れも生じてきます。だから神さまに破れを繕ってもらわないといけない、またお互い赦してもらうことを必要としています。兄弟愛は相手に援助の手を差し伸べ、相手に慰めをもたらすものですが、破れがある時、相手の人に赦してもらうしかありません。私たちの兄弟愛そのものが慰め=赦しを必要としています。赦すことも赦されることも、それはキリストの御前に於ける礼拝抜きに不可能なことです。教会の私たちはキリストの慰めのほとりに招かれているのです。

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