■ 飛べない魚、泳げない鳥〜the fish not flying, the bird not swimming〜
■ vol.1「夢見る鳥」





夢を見た---


 月の輝く夜空から、雨が降る。満月。
 光を遮る雲一つない空から、雨は降る。
 それはとても美しく、どこか物悲しさをたたえたまま...すべてを、雨色に染めていく。
 街も、人も、少しずつ色を変えていくなかで、僕だけが雨の呪縛を免れて、濡れない。
 僕ひとりを忘れたまま雨に染まっていく、足元のアスファルトを不思議な気持ちで見ていると。

 頭のどこかで、これは夢なのだと理解し、ついでという感じで道路の真ん中に突っ立ってみた。

 少しぼんやりしていると、輪郭を失った抽象画の街から、誰かが駆けて来るのに気が付いた---
 目をこらさずとも分かる、その姿、その美貌---
 
 海王みちる。

 ぼやけた世界にあって、その人だけが、ただ確かで美しく...
 奪われたのは目だけだろうか、心すら魂すら奪われたのではないだろうか。

 ヴァイオリンを大事そうに胸に抱え、髪が、服が、濡れて重くなってるだろうに足取りは軽やかで、表情は何も知らぬ少女のように明るく幼い。
 白いワンピースの裾が、パラシュートのように波打ち広がって、魔法がとけてしまわぬうちに輝きながら急ぐシンデレラのようで。
 早まる、鼓動。


『...かわいいな』


 みちると出会って、まだ少し。
 ふたり出会った夏が、もうすぐ終わろうとしている。
 おぼろげな前世の記憶か、鮮烈な体験からか、それでも多くの表情を見ただろうが、どれも戦士の顔だった。
 だからいま、頬を紅潮させながら駆けて来る海の女神の、その、あどけなさ。

 思わず僕は、まっすぐに、駆け寄る彼女に手をのばした、けれども---


『えっ?...』


 すり抜ける。


 みちるの深海色の髪が、頬の高さを通り抜けていく。

 まるで、ただの空気みたいに、あっさりと。すり抜けられて戸惑う。
 彼女には実体としての感触がなく、いや、この世界に存在していないのは僕の方か、だから雨すら僕をすり抜けるのか?

 なにかがおかしい、どこか釈然としない。

 たとえ夢でも、僕とみちるがすれ違うことが、ふたり出会わず離れることが。
 不可思議な力に呼ばれた気がして振り返ると、映画のワンシーンのようにクローズアップされる光景が視界に飛び込び...
 
 
 胸を、撃ち抜いた。


 誰かが満月の下、ピアノを弾いている。
 雨の隙間をぬっては、響くメロディー。

 こんなに上手く、甘く切なく、水面を撫でる風のように気ままにピアノを弾くなんて...誰だろう?
 どこかで確かに聴いたことがあるのに、思い出せない。


 上手い。
 心震わす豊かな旋律。
 極上のテクニック。


 明るい満月が逆光となって顔は見えないが、姿かたちから、男だと分かる。

 鍵盤を踊る長い指の動きはなめらかで、それだけで美しい。メロディは愛を贈り続けて止まない。
 心は癒されても、胸が痛いのはなぜなのか。

 そして、男の肩に添えられる華奢な指に気づく。

 繊細なそれは、僕には見間違うはずがない指だ。
 進むべき道を指し、安らぎを与えてくれるもの。

 自分だけのものだと思ったのに。
 自分だけのものだと信じたかったのに。

 シルエットのままの男を、背中から愛おしそうに抱き締めるみちるを認めた時、激しい鼓動が雨音すら打ち消した。


 それなのに。


 ピアノの音はだんだんと大きく鳴り響き、耳をおさえ叫んでも。
 その男から離れろと叫んでも、僕の存在は雨に濡れる街には存在しなくて。


 男の髪に、頬に......


 口付けるみちるを見た途端、張り裂けそうな心の痛みに身体を折り曲げた僕は、車のライトとクラクションの音に振り向き...そして。




 そして、僕は飛び起きるように目を覚ましたのだ。




「......夢、か?......」


 心を引き裂かんばかりの苦しさに、胸に鉛玉を撃ち込まれたかのような痛みに、抗おうと声を絞り出す。
 不快な汗に湿った掌とはうらはらに声はかすれて乾ききっていた。

 そうだあれは夢だ、夢だと分かっている。分かっているつもりだけど。


「...みちるちゃん?.........みちるちゃん!?」


 傍らにあるはずの温もりがない。
 乱暴にまさぐったシーツが冷たくてドキリとする。
 僕をかばって傷を負ったのは、夏の初め。まだ自由に動ける身体ではないはずなのに。
 ふたり寄り添い眠った天蓋のカーテンの隙間をぬって窓から差し込む満月の光が、ベッドに濃い影を作っているのが不気味だった。


 ---寒い。
 不安に身震いをして、気付いた。


 雨が、降っている。満月なのに、雨は冷たく窓をたたいていた。
 

 僕ははじかれたようにベッドから飛び出し、愛しい名前を叫びながら、広大な屋敷のすべての部屋の扉を乱暴に開けていった。
 けれど、みちるの姿は何処にも見当たらない。焦れて寝室に戻る。


 不安が不安を呼んで、僕は混乱しはじめた。


 どうして、満月なのに雨が降るんだ?
 雲などないのに。
 どうして、みちるはいなくなったんだろう。
 何も言わず、何も残さず。

 彼女がいた、という気配すらを失くして。


「.........みちるちゃん、どこへ...?」


 力ない声は、窓をたたく雨音に消され、一人きりの孤独な部屋にすら響かずに、闇に溶けて残らなかった。







vol.1(2003MARCH)
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