「あなたを守る腕」
空を閉ざす雲、隠された太陽。稲妻を従え、降り出す雨。 6万年振りに火星が大接近する記念すべき年に、日本は冷夏、世界各国で異常気象。なんだかオカシイこのごろ。 夏休みも残り1週間。 冷夏は厳しい残暑へと様変わりし、海を一望するバルコニーに頬杖をついた僕の額には、大粒の汗がにじんでいた。 大気は飽和状態。風は凪ぎ、重くまとわりつく空気は淀んで息苦しい。あきらめて窓を閉め、エアコンのリモコンを探すことにした。 「はい、アイスティー」 暑さで不機嫌な僕を、いたずらな笑みで迎える彼女は、瞳に涼やかなワンピース姿。 「我慢大会は、もうおしまい?」 二人分のグラスに頬を挟まれ、冷たさを味わうよう瞳を閉じ、そっと息をつく。 耳元で氷が清涼感を響かせてカラリと鳴ったのを合図に、華奢な腰を抱き寄せた。 自分の内に熱さを芽生えさせながら涼んでいると、唇に体温を感じて、瞳を開ける。 至近距離で見るみちるの睫毛は長く、艶やかで。僕を惑わし続ける、深海の瞳を隠しても、なおさら官能的でたまらなくなる。 愛し合う唇が離れる気配に、グラスを持った細い手首をつかみ、引き寄せては深く口づけた。 「...っ...!もう、はるかのバカ」 「ごちそーさま」 肺活量では僕より勝るみちるだから、両手の自由が利かず抵抗できないのを見計らって、限界まで攻め立てたのが功を奏したのか。 珍しいこともあるものだ、瞳が潤んでいる。「ラッキー」なんて、軽口をたたいて、アイスティーを一息に飲み干した。 「みちる、おかわり」 エアコンの吹き出し口近くのソファに陣取り、リモコンを操作し、氷をひとつ含んでからグラスを差し出す。 まるでそうするのを分かっていたかのように、透明なポットからアイスティーを注ぐみちるの白い両腕を、不思議な違和感を感じて見つめた。 「...どうかしたの、はるか?」 「いや、なんかさ...気のせいかな、みちるの腕。太さ、違わないか?」 「そうよ、それがどうかしたの?」 アイスティーをテーブルに置きながら、こともなげに答えるみちるに、がっくり。 僕には驚愕の新発見だというのに、なんだよそれは!...さっきの仕返しだろうか。 「はるかだって、左右の指の長さ、違うじゃない」 みちるのコンサートではピアニストも務める僕の指は長く、ハンドルを握る力加減のせいだろうか、少し骨張って不均等だ。 「...じゃなくて、腕だよ、腕。知らなかった」 みちるは言う。僕を「知っている」と。ずっと「見ている」からだと。 ---指の長さ?自分でも忘れていた事実を引き合いに出すなんて。 けど僕は、みちるを、みちるほどには「知らない」のだ。 今だって、何度触れたか数えられない肌、見間違うはずもない腕の。太さの違いに、初めて気づく始末で---。 こんなにも「見ている」のに「知らない」みちる。それが歯がゆい。めくるめくジレンマ、正体の知れないプレッシャー。 「このコが弾いてほしいとねだったら、イヤとは言えないでしょ?」 視線の先には、みちるの愛器であるヴァイオリンが独特の光沢を放ち、美しい主を静かに待ちわびていた。 ストラディバリウス。ミューズの楽器「海の聖堂-マリン・カテドラル」。運命の場所と同じ名前。 「知ってる?楽器はね、1日離れただけで自分が。2日も経てば他人に分かってしまう。繊細な響きで自分の存在を主張するのよ」 慈母のそれで微笑む君に、五感神経すべてを奪われる。 「本当にわがままだから...毎日愛してあげないと機嫌を損ねてしまうの」 でも腕の太さが違うのは、練習のしすぎかしら?---首を傾けておどけてみせる君はとても幸せそうで。 そんな顔で、声で、僕以外の何かを語らないでほしい。 そんな瞳で、唇で、僕以外の何かに語りかけないでほしい。 嫉妬?なんとでも呼べ、この感情を。 「まるで、僕みたいに?」 みちるの腕を力任せに引っ張り、ソファに倒し。乱れたワンピースの裾からのぞく形の良い脚の間に割り込んで、覆い被さる。 一瞬芸の域だ---そんなバカなことを考える余裕が、はるかにはあった。 「問題です。毎日愛してくれないと、みちる栄養不足で死んじゃうかも。さて、誰でしょう?」 「......『僕みたい』って、先に答えを言った人?」 「正解!」 見つめ合う瞳に、互いしか映らない距離が好きだ。 僕の世界には君しかいない、君の世界には僕しかいない。そんな距離。 触れ合う箇所から徐々に熱さを帯びる身体が好きだ。 僕は君を求めて、君は僕色に染まる。互いを確かめる行為に夢中になる。 「正解記念にさ。腕、もんでやるよ」 「遠慮しておきます」 「なんで即答するのさ?遠慮するなよ、ほら」 喜色満面とは、このことを言うのだろうか。子供のように、まるで真夏の太陽のような笑みを浮かべて。 身体をよじってソファを上るみちるの素振りなど構わず、はるかは両手で腕を掴んで動きを封じ込めた。 「ほら、ひとまわり」 はるかの指の長さと、みちるの腕の細さが、ぴったり合致して。指で作ったリングに、捕らえられた気分は心地よい。 こうやって、いつも。風のように気まぐれなはるかのペースに巻き込まれて。 身動きがとれずにいる自分を、本当の自分ではないように感じる。同時に、それが一番自分が望む自分とも思えるから不思議だ。 指先からでも伝わる温度が、たまらなく愛しくて。切ないくらい、心と体をもてあます。 「あ、みちる。胸も成長してない?もんであげ...イテッ!」 「早く、どいてっ!」 熱さに溶けたアイスティーの滴が、テーブルに丸い水たまりを作って、重なるふたりを映して煌めいた。
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(2004 A Happy New Year)
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