「あの人は、行ってしまったのね」 「夕方までには戻られるとのことでしたが。はい、お嬢様」 パラソルが作る影の下、籐の椅子に腰掛ける少女。憂いをたたえた瞳は陽光にきらきらと輝く波を遠く見つめたまま動かない。 心が乱されたまま、みちるは執事が渡すアイスティーを受け取った。 「わたしが眠っている間に、黙って行ってしまうなんて…」 珊瑚色の唇がストローに美しい跡を残す。 「もう、帰ってこないかも。ううん、帰らないほうが、あの人のためだから…それで、いいのかも」 最後は聞き取れないほど、かぼそく途切れた声。遠く見つめる海と同じ色をした瞳が、不安定な気持ちそのままに揺れる。 声も瞳も、グラスを持つ手が震えるのも、すべてが定まらないみちるの心を反映していた。 この夏の始めに―――天王はるかの運命の扉を開け放ったこと。 みちるは後悔していた。 あのときネプチューンに変身したのは、はるかを助けたいという一心だけで。 戦士として軽卒だったとは思う。 けれど、はるかを庇って負った傷にさえ悔やんでなんかいなかった。 悔やんでいるのは、自分の心の弱さ。 再び戦士の道を選んでも、外部太陽系で非情なまでに容赦なく侵入者を消去していたネプチューンにはなりきれなかった。 海王みちるの心のまま、感傷的になりすぎた。 そして、あの人もまた、太古に知っていた外部太陽系最強の戦神ウラヌスではなかったのだ。 天王はるかは、限りなく海王みちるに優しかった。同情されたのかもしれない。 そして、わたしは甘えているだけなのかもしれないわね。 はるかを庇って負った傷。そろそろ包帯をとっても日常生活には差し支えないと、医者に言われて安堵したのは昨日。 ヴァイオリンを弾くのは恐くて、あの日からずっと、ケースで眠らせたままにしていた。 ---もし、以前のように弾くことが出来なかったら…! そう考えるだけで背筋を冷たいものが走って泣きたい気持ちになってしまう。 けれども戦士の道を選んだ日が鮮やかに思い出されて、みちるは気を引き締めた。 「あの方は、ちゃんと帰ってこられますよ、お嬢様のもとに」 凪の海のように穏やかな響きは、みちるの聴覚を惹き付ける。 「あの方は、わたくしの良く存じ上げている方に、そっくりです」 みちるの母親の専属執事だった海堂は、一体誰を思い浮かべたのだろう。 初老にさしかかったその顔に刻まれた柔和な線は、みちるの成長の歴史。その線が微笑みを作る。 「それに…」 みちるは首を傾げて海堂の顔を見上げ、おねだりをする子供のようにグラスを渡した。すぐに2杯目のアイスティーが用意される。 「みちるお嬢様は、ますます美しくなられて…ご聡明なお母さまにそっくりです。あの方に出会ったときの、お母さまに」 「あの方…?」 そのとき海風が、はるかかなたから響き渡る独特のエンジン音を届けた。 屋敷のある高台へ続く長い道はカーブが多く急勾配で、海王家に用のあるものしか通らないため、ほとんど私道扱いになっている。 それを軽快に駆けのぼってくる車。誰が運転しているのかなんて、推測する必要もない。 「あの音。パパのTVRタスカン・スピードシックス。海堂、あれを天王さんに貸したの?」 みちるは車の性能に興味がないので、外観で購入を決めることが多い。 タスカンはドアの内外にレバーやハンドルがついていないので、乗り込むことも出来ないし、乗ったが最後降りてこられない。 ウインカーも出せないし、窓ガラスも開けられない。からくりだらけの車だ。 父親が一緒でなければ、乗れないと信じてたのに。 「はあ、お父様のコレクションに偉く興奮されまして、つい」 「このままだと山道にふさわしくないのにランボルギーニ・カウンタックも試乗されてしまいそうね」 「次はポルシェ911ターボをとの約束です」 みちるは目を丸くして、笑った。 「あらあら、海堂はずいぶんと天王さんに甘いのね。まるで…」 そこまで言いかけて、みちるは海堂のいう『あの方』が誰を指すのかに気付いた。 「海堂ったら、そういうことだったのね」 少し照れたように頬を染めたみちるは、正門が開いた音を合図に、有能な執事にお客さまの出迎えを命じるのだった。 「海堂さんサンキュ。パワーステアリングなのに、ここに来るまでの道すがらコーナリングのハンドルが重くてさ。 ひさびさに筋トレって感じの車に乗れて、うれしいよ」 「『ドライビング』もスポーツと申します」 「お、良くわかってんじゃん」 よっぽど珍しい車に乗れたのがうれしいのか、長期滞在中のお客さまは、朝、この屋敷を発ったときの深刻さと比べると、あからさまに御機嫌だった。 大きめのスポーツバッグを肩に担いで車を降り、名残惜しそうにキーを振り回すはるかと並んで歩きながら。海堂は心底うれしそうだった。 「…?なに、どうかしたの、海堂さん」 「あなたが本当に…わたくしの、良く存じ上げてる方に似ていらっしゃるので」 「ふうん。あんまり誰かに似てるって言われたことないけど」 はるかは自己主張は大切だという考えから「似てる」という言葉が好きではない。が、続く 「お嬢様が大変お好きな方です」 という言葉に、なぜだか少し照れて、自分と「似てる」人物に興味が湧いた。 「誰なの?」 と聞こうとしたときには、みちるのいる部屋まで案内されて、答えを知る人物は入室を知らせるノックをしていた。 「すぐにお夕飯をお持ちいたします」 一言ありげなはるかからキーを受け取って、海堂はさりげなく告げる。 「今度、誰か教えてくれよな」 小声で耳打ちしたはるかがドアを開けると、とびきりの笑顔で華やいだ空間。 まだ少しぎこちないけれど…。再会の喜びを隠せないはるかとみちるのいる部屋のドアを閉めてつぶやいた。 「お嬢様は、お母さまに。天王さまは、お父様にそっくりです」 |
Alone Again?
(2001JUNE)
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