338.真っ白な切符





「通学に要する時間:約__時間__分」


用意された履歴書の。
最後の枠に、残された確認事項欄。そこだけが埋められなかった。



聖戦が終わり、聖域の再建や人事を終えて。
青銅聖闘士は、連絡のつく場所で待機との命令だったので。
俺はといえば、ごく自然に、ジャミールに身を寄せていた。
ムウはといえば、傷つき失われた聖衣の修復に取りかかる毎日で。すごく大変そう。

それなのに。今回に限らず、招集がかかった場合は、ひとっ飛びで目的地まで連れてきてくれる。
瞬間移動がどれだけ精神的・肉体的に負担をかけるものか感覚が分からないので、いつも丁重に断るのだけど。

「わたしがそうしたいから」

薄い唇を片方だけ上げて微笑まれると。
それで愛される感覚が突き上げてきて。

「お願いします」としか言えなくなる。


俺は、ムウが、すごく好き。





聖域につくなり、ムウは教皇の間へ、俺はアテナの元へ呼び出された。

女神、というよりは、城戸沙織から渡されたもの。
財団が運営する教育機関へ提出する、履歴書。
ただし、中学・高校は日本にあるとのことで。

「いまさらだけど、出来るなら。等しく、一般人としての生活を」

頭では理解していても、気持ちがついていかない。
本人記入は形式だけのことだから、今日中に提出してね、なんて。軽く言わないでほしかった。


だって...ジャミールからどうやって通ったらいいんだろう?


日本→ジャミール。
ジャミール→日本。
当たり前だけど、遠すぎて。とてもじゃないけど、通えない。

学ぶのは好きだ。ううん、学びたい。けど、通えない距離。もちろん、不自由ない寮生活が用意されている。それじゃ、日本へ行ったきり。
そんなじゃ...、ムウに会えない。
会えないんだったら、平和になった意味がない。だけど平和だから、学ぶ余裕があって、もう、なにがなんだか分からなくて。バカらしい、堂々めぐりだ。



盛大な溜め息ひとつ、履歴書に突っ伏すと。

「紫龍、帰りますよ。ぜんぶ書けましたか?」

ムウの澄んだ声にきちんと答える気力がなくて、突っ伏したまま頭を左右に振った。履歴書はカサカサ鳴った。

「どうしたんですか?どこか分からないとこでも、ある?それとも具合でも悪いの?」

ムウの優しい言葉は、思考がグチャグチャの俺に勿体なくて、泣けてきた。
顔を上げられず、もう一度同じように首を振る。
違ったのは、目尻から少し零れた涙のせいで、紙はもう鳴らなかったこと。

「履歴書といっても、もう入学は決まってるんだから。難しく考えなくてもいいんですよ」

違う、そうじゃなくて。
あなたと過ごせる時間が減るのが嫌なんです。このまま一緒に暮らしたいのに。
言えれば苦労はしないけど。負担になりたくない。
自分で決めなければならないことは、絶対に干渉してこないから。

俺の気持ちなんて、分かってるくせに。

言ってみたい。
言ってみようか。

「あなたと離れたくない」

.........言えない。



ちょっと困ってる溜め息が短く聞こえて、ますます自分が子供じみて恥ずかしくて、余計に顔を上げられないでいたら。

「...ああ、ここですね、"通学に要する時間"?」

いつの間にか、ムウの手にある履歴書。
驚いて顔を上げたら、その紙の裏面の真っ白さに、目が痛む。薄情な白さに、心まで痛い。

これを出しちゃえば、中学か高校を卒業するまで、離ればなれになるんだと感傷的になっていたら、ムウがなにやら書き込んでいた。

「はい、さっさと出して帰りましょう。学校が始まれば、慌ただしくなりそうですし」

慌ただしくなるって、それだけ?
不機嫌に心を切る白さを受け取り、目を見張る。


二重線で消された横に、流麗な文字。


「通学に要する時間:約__時間__分  8 sec.」


8 sec.---つまり、8秒。それって、やっぱり...?


「わたしがそうしたいから」

言わなくちゃいけないことがいっぱいあって、浮かんでは消えていく言葉たち。
そんな風に微笑まれると、俺ごと、溶けてしまいそう、俺ごと、あなたの好きにして。
だから、こうとしか言えなくなる。

「お願いします」


俺たちは、どこへだって行ける。

行き先は自由、俺たちのやり方で。未来行きの切符を、手に入れたんだ。





338.真っ白な切符/20060604
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