42.○○さま
「じゃあ、紫龍、またね〜!ムウ様、失礼しま〜す!」
ひときわ明るい笑顔と、とびきり元気な挨拶を残して、貴鬼の姿が宙に掻き消えた。
本来なら、ムウの館にはアリエスの師弟が暮らすはずなのだが、聖戦後、貴鬼は聖域から修行に通っている。
それも本人が望んでのことなので、深く追及する者はないし、たとえいたとしても、ないと同じことだった。
入れ替わるようにして、紫龍がジャミールで生活していることに口を挟む者もない。こちらも理由は同じ。
世の中には、自由な好奇心を抑える不可視の力があることを、聖域の人間は本能と経験で知っていたのだ。
ところで、紫龍と貴鬼は、どういうわけか気が合った。
貴鬼は紫龍になついているし、紫龍も貴鬼を可愛がる。
仲むつまじい関係は、年の離れた兄弟というより、"男やもめに嫁いだ新妻と、その子供"との形容がふさわしいくらいで。
どうして一緒に暮らさないのかと尋ねるより早く「ふたりのためだもん」と、笑う貴鬼は。
年相応に無邪気そのものだけれど。
実のところ、本能的に、紫龍より大人なのだろう。
持ちつ持たれつの母子コンビ。
いつものように軽く手を振って、しばしの別れを惜しむ紫龍に、なんだか元気がない。
ムウが漆黒の瞳を覗きこむと、首を傾げて、ひとこと。
「やっぱり、俺も"様"付けしたほうがいいのかな」
「は?」
ときどき、わけの分からないことを言う。
「だから、その、貴鬼みたいに..."ムウ様"って呼んだほうが良いのかな、って」
明晰なムウの思考を止めるのは、いつも、愛する口からつむがれる予想もしない言葉だけだ。
頭の奥で鈍く響く音がする、ニッポンの大晦日の、あれはなんといったか...除夜の鐘?
ぼんやりとした遠い鐘の音を鎮めるように、こめかみを指で押さえながら答える。
「あなたに師弟間のような上下関係をうながした覚えはありませんよ」
「そうだけど...そうそう、聖衣の墓場の亡者もそう呼んでるし」
どこの世界に、恋人と亡霊からの呼称を一緒くたにしてほしい人間がいるんだ。
「ほら、あなたは俺より年上だし、その、それに、黄金聖闘士だし...」
だから、なんだというんだろう。
6歳の年の差や、聖闘士の地位が、どうして、ふたりを分かつ敬称になるのか。
ときに的はずれで世間知らずの発言は、面白くも、愛しくもあるのだが、今回のとんちんかんぶりは、まったくいただけない。
義理で想像してみよう、紫龍に"ムウ様"と呼ばれる...???
答はすぐに出た。
「やめておきましょう」
あっさり。
「え?あの、俺は別に構わないけど」
「あなたが構わなくても、わたしは大いに構います」
顔に「どうして?」と書いてある、その紫龍の細いあごを掴んで上向けた。
前髪がくしゃりとつぶれて、鼻先が触れ合う距離で、愛する者にしか見せない、美しい獣の顔になる。
「そんなに呼びたいなら、一度、そう呼んでごらん」
「えっと、じゃ...ぁ......ムウ、様......?」
潤んだ瞳を見つめ、紫龍の上唇だけを、甘噛みしてほぐし。尻を両手で包んで持ち上げ、腰を押しつけた。
強ばる身体は狩られるだけの獲物のようで、息のあがった姿態の味を思うと、ひどく楽しくなる。最高だ。
罠をしかけたのは紫龍で、かかったのも紫龍だ。遠慮なくいただくとしよう。
「お望みどおり、あなただけの"ムウ様"になってあげる」
理性が落ちるのは、日が沈むより早く。
野生から戻ったのは、月が隠れたころだった。
翌朝ーーー
「ムウ様、おはようございます!紫龍、おはよ...あれ?」
いつも笑顔で迎えてくれる早起きの紫龍が不在なことに驚く愛弟子には、差し込んだ朝日のようにまぶしい笑顔で答えよう。
「おはよう、貴鬼。紫龍は、今日は起きてこれないみたいだから、朝食はふたりで先にいただきましょうね」
どうして起きてこれないんだろう?
問いかけるよりも、師匠の左首筋についた、艶めいた鬱血の跡というよりは、余裕も遠慮もない歯形が、雄弁に物語る。
理由に気づいて赤くなったが、
「ムウ様と紫龍が仲良しで、おいら嬉しいv」
それは、貴鬼が館に留まらない、単純な理由であった。
そのころ、ベッドではーーー
まわらない頭で猛省中の紫龍がうつぶせていた。
気合いを抜けば、また色めいてしまいそうーーー。余韻が残る、言葉で行動で、調教された重い身体が恥ずかしい。
"ムウ様"は、いつもの"ムウ"よりも。
いたわりがなくて、待ってくれなくて、優しくなくて、許してくれなくて、とにかく激しくて...ついていけないのに、追い立てられて。
それでも...すごく......ありえないくらい、......感じてしまった。
ムウのペースで愛されることに、快感を超えて絶頂の、その先が見えた。あれが、自分に配慮しない本当の行為なのかもしれない。
だけど。。。
"様"付けは、ときに劇薬めいた刺激剤。
もう二度と「ムウ様」なんて呼ばない。