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カラパタール登頂記(1996.11.10〜11.27<登山は12日〜23日>)

 1996年11月10日。いよいよ憧れの地に向けて旅立った。
 行先はネパール、ヒマラヤ山脈。そこに「カラパタール」という場所がある。そこは世界最高峰、エベレストの絶好の展望台と言われている。
 標高5545メートル。一般登山ルートとしては最奥地、最高高度の場所だ。それでも8000メートル峰が多数屹立するヒマラヤにあってはそこはカラパタールの『丘』」と呼ばれているのだ。
 家族の大反対を押し切り、私はこの地に赴いた。とにかくどうしても今行かなければならないのだ。当時私は無職だった。自分の意思で辞めたとはいえ、仕事を辞めるということは大きな挫折感を味わう。自分の力がどこまであるのか確かめたい。まだまだやれるのだ、ということを。
 と、かっこいいことを言ってはみたが、その実、あまり深く考えてはいなかった。とにかく行きたかった、それだけだ。無職なんだし若いんだし、お金の蓄えもあったし。
 10月11月はヒマラヤ登山には最も適した時期だ。12月を過ぎると寒くなるし、3月以降は雨季に入る。
 自分的にもいい時期だった。この年私は通関士試験を受けたのだ。10月末に試験も終わり、12月の発表まで何もすることがない。合格していなければ就職活動もできないし・・・要するにひまだったんだな。
 旅の同行者はケンちゃん。この青年、物心ついた頃から親に無理やり竹刀を握らされ、その後剣道人生をまっしぐら。背も高いし筋肉隆々の風貌。そのうえ私より5歳も若い。これはなかなか頼りになりそうだ。
 関西空港からまずは上海に向かう。そこで数時間待った後、ネパールへ。カトマンズで2泊後、ガイドの青年がやってきて国内線の乗り場まで案内してくれた。
「ボクには日本人のカノジョがいて」と延々とのろける。適当に相槌を打ちながら、目指すカラパタールへの主要登山口ルクラ行きへのヘリを待つ。
 しかし待てども待てどもルクラ行きのヘリが来ない。どうやらあちらは天候が悪いらしい。有名観光地であるポカラ行きへのヘリは次々やってくるのに。いったいいつになったら来るのだ・・・待ちくたびれ。先にネをあげたのはガイドの青年だ。
「そのうち来るからそれに乗っていってくださーい」と帰ってしまった。定時がきたのだろう。海外ではよくあることだ、この無責任な仕事ぶり・・・。
 まあいいか。青年の言うとおり、ヘリはそのうち(5時間後)やってきた。

    カトマンズ市内にて


11月12日 登山口ルクラへ。シェルパと合流
 空路ルクラへ。ヘリから見るカトマンズの町並み。茶色い。古い寺が散在するこの街はなかなか雰囲気のある街だった。しかし私は寺より山が見たい。
 やがて空の向こうに白い山並みが・・・・
 ついに来た!憧れの山。地平線が全部山だ。こんな風景は日本では決して見られないだろう。
 40分後、ルクラに着く。標高2827メートル。日本の山ではとっくに森林限界(高い木々が生息できなくなり、草や岩だけの世界になる位置)越えている高さだ。ネパールは北緯27度くらいの位置にあり、日本でいうと屋久島あたりになるそうだ。気候は亜熱帯。だから2800メートルを越えるこの場所でも木々が生い茂り、森がある。(ちなみに日本の森林限界は2400メートルくらい)。
「く、空気が薄い・・・なんか苦しい」
 ケンちゃんがうめいた。彼はこの時点で人生最高標高地にいたのだ。
 アンタ、あとこの倍近くの高さを目指すんやで。カラダの割には頼りない・・・パートナー選びを間違ったか。しかし後悔先に立たず・・・
 するとほどなく1人の青年が寄ってきた。彼はシェルパ(山のガイドさん)。名前はタマンという。なぜか『蓼科高原』とプリントされたTシャツを着ている。そしてもうひとり、口ひげを蓄えた男が現れた。名前はタモンという。彼は『愛仁』と刺繍されたジャージを着用していた。
 口ひげのタモンはあだ名が「ズンゲ」だと教えてくれた。ズンゲ、とはヒゲのことだそうだ。私たちもズンゲと呼ばせてもらうことにした。タモンとタマンじゃややこしい。
 中高年の登山ブームでこのあたりは多くの日本人でにぎわうらしい。そして彼らはシェルパたちに衣類を置いて帰るのだ。プレゼント用にわざわざ中古衣類を持ってくる人もいるのか、「1−5 田中」などと書かれたゼッケン付の体操服を着ている子供も結構いた。。。それはあかんやろ・・・。
「さあ、テントの用意ができたので案内しましょう」
 と、タマンが連れて行ってくれたところには・・・なんと、3頭のゾッキョ(登山者の荷物を背負って歩く牛)が横たわっていた。

        え・・・・ここで寝るの??

       「ちゃんとつないであるから大丈夫、ノープロブレムね!」

 日本の高山と違ってここは一般人の生活道。住宅があり、登山者向けのロッジがたくさんある。だからテントで旅行する人は少ないのか・・・この先10日間ほど山を歩いたが、テント泊は結局私たちだけだった。安いツアーだから仕方ないか。
 その夜、私たちはロッジで憩う人々の笑い声を聞きつつ、ゾッキョとともに眠った。
 タマンは大丈夫だと言っていたが、1頭、夜中に放れたらしく、朝起きるとテントの脇に大きなウンコが落ちていた。
 そしてそして・・朝の空を見てケンちゃんが叫んだ。

       「うおおおおお!でかいっ!!」

 もちろん、ゾッキョのウンコではない。山だ。前日は曇っていて見えなかったが、今日は快晴。めっちゃでっかい!ヒマラヤの山はやっぱりスケールが違う。タマンに標高を聞いてみると、約6000mだと言う。私たちの目指す高みは5545m。今からあれに近い高さまで登るのだ!!

11月13日  ** ルクラ(2827m)からパグディン(2652m)へ **
 タマンとズンゲ、数人の料理人、ポーターたち総勢10人ほどでルクラを出発。今日はちょっとだけ高度を下げる。今日のトレッキングは4時間ほど。空は青いし荷物はほとんどポーターが運んでくれるし、こんなに楽していいのだろうか。
 いくつかの吊橋を渡り、平坦な道を歩く。ほどなく今日の宿泊地パグディンへ。

             
 ポーターさんはハタチくらいの女の子もいた。彼女たちは巻きスカートとサンダルで山を登る。。。
 試しにこの荷物かつがせてもらいましたが、歩くことはもちろん立ち上がることすらできなかったです。


 ここの夜は長かった。とにかくだあれもいないのだ。テント場はもちろんのこと、ロッジにも。ルクラでは日本人もたくさんいたが、ここには日本人はもちろんほんとにヒト気がない。もちろん電話もないしテレビもなく無音の空間なのである。夜がこんなに長くてこんなに静かだったとは。
 あまりのヒマさにケンちゃんが落語を始めた。『オレが考えたネタや』と意気揚揚と語り始める・・・があまりに下ネタすぎて理解できず。ここではお教えできませぬ。
 ひとりでしゃべってくれるといいのだが・・・「さぁ、オレのマネをしてみ」と落語を強要され・・ふたりで正座で向き合い、ケンちゃんの落語指導は夜更けまで続いたのであった。

11月14日  ** パグディンからナムチェバザール(3440m)へ **
 あともう少しで富士山の高さに追いつく。ジョサレというところにチェックポストがあり、そこであらかじめ旅行社で手配しておいた「トレッキングパーミット」(通行許可証。これがないとトレッキングはできない)を見せてから、いよいよ国立公園内に入る。標高は3000メートルを越えたが、まだまだ木々が茂っている。日本の山では全てが雲の下、という感じの高さだが、ここでは川が流れ、牛が草を食み、子供たちが元気に走り回っている。

   登山道のマニ石。チベット仏教の経文が書かれている。

 ところが・・・ついに恐れていたものが・・・ケンちゃん、高山病の危機。しきりに頭が痛いと言い出す。高山病に特効薬はない。予防策としては水分をたくさん摂る。一日最低3リットルは水を飲まなければならない。水分とともにそれに含まれた酸素を体にめぐらせ、そして出す。これを絶えず繰り返さなければならないのだ。のどが渇いてなくても私たちはコックの作ってくれたミルクティーを飲み、何回も立ち止まっては岩陰で用を足していたのだが・・・
 高山は初体験のケンちゃんにはちょっと無理があったか。

            だから「来るな」と言ったのだ。

 ひとりでツアーに参加して行くから日本で私の帰りを待っていろ、と。
 ところがこの男、私になぜか異様な執着心を見せるのだ。どうやら結婚まで考えているらしい。この若さで。
 ヤダよ、結婚なんて。ひとつ屋根の下で他人と暮らしていくなんて、そんな窮屈なこと、私にはとてもできやしない。どうしてもひとりで行くと言う私にこの男、

            「オレと山とどっちが大事なんや」
            「オレは山にも劣る男か」
            「オレは山には勝てんのか」
            「オレより山が好きか」

などと本気で食いかかってきたのだ。散々怒ったあとで今度は体調を崩してしまった。そしてとうとう「オレも行く。死ぬときは一緒や」などと言い出した。
 でもまあ知り合いがいた方が心強い。私の両親も「ケンちゃんがいてくれれば・・・」と嫁入り前にもかかわらず、背に腹は代えられぬとでも思ったのか。
 それから私たちはヒマを作っては近所の低山を歩き、気休め程度だがトレーニング登山なるものを開始し、今回の旅に出たのであった。

「寝ない方がいいで」
 目的地のナムチェバザールに到着後、テントの中で横たわるケンちゃんに声をかけるも、もう動けない様子だ。眠ると呼吸が浅くなるから高山病の時には起きて歩いた方がいいのに。
 ナムチェバザールにはたくさんの登山者がいて、バザールの名のとおり、おみやげ物や食料品がたくさん軒を連ねて、にぎやかで楽しい場所。が、こんな調子では買い物どころではない。
 ここにはもう1泊する予定になっていた。高度に体を慣らすための高度順応日。が、
結局、夜中じゅう、『頭が痛い』『おなかが痛い』と苦しむケンちゃん。私はたびたび起きて水を飲ませたりおなかをさすったりした。
 翌朝も冴えなかった。おなかが痛いとのた打ち回るのだ。高山病は無理をすると死ぬこともある。

            死なれたら困る・・・

 私は下山を提案した。「下りよう」と。タマンに相談して予定を変更してもらってとりあえず今より低いところに下りよう、と。
 ところがケンちゃんはいやだという。富士山より低いところでネを上げるなどできないと言うのだ。とりあえず下りてそこで様子を見て、調子がよくなったらまた考えればいい。しかし、、、
「そんなことしたら頂上に行けなくなるやないか」とまたもや意地を張る。

            「行けなくてもいい。行けるとこまででいいやん」

 私はそう言った。自分でも驚いた。このわがままな私が、あんなにみんなの反対を押し切ってまで憧れたカラパタールの頂上に立てなくてもいい、本気でそう思ったのだった。しかし、、

            「頂上に行きたいんやろ」 

と言われると・・・「行きたいけど無理してまで行こうとは思わん」と、結局は行きたいという意思表示をしてしまったのだった。 
 
            「夢やったんやろ、カラパタの頂上でエベレスト見るって」
            「オレはな、おまえの夢をかなえてやりたいんや。だから行く」
 
 この年下男をどう扱えばいいのか、ほとほと困り果ててしまった。
 しばらくすると「随分調子がよくなってきたから今日は歩けるかも」などと言い出した。そこで私たちはタマンを呼んで近くの丘に登ってみることにした。
 高度に慣れたのかケンちゃんはすいすいと調子よく登っていた。無理をしている様子もなさそうだ。明日は予定どおり出発できそう、とりあえずひと安心。

11月16日  ** ナムチェバザールからタンボチェ(3867m)へ **

アマダブラム(6812m)を望む  登山者の荷物を背負い、懸命に働くゾッキョたち


 とうとう富士山の高さ(3776m)を越えた。ケンちゃんの高山病もなりをひそめた。しかしここは・・・とっても寒かった。どういうわけかわからないが、地形的にこことペリチェ(4240m)が一番寒いのだそうだ。昼間は暖かくて汗ばむほどだが、15時を過ぎたあたりからだんだんあやしくなってくる。寒い寒い寒い。。私はTシャツとトレーナーとセーターを着込み、さらにその上からスキーウェアを着込んだ。それでも寒い。日が暮れるとテントが真っ白になってきた。凍っているのだった。
 とにかく寒かったが、ここにも観光客がたくさんいた。立派な寺院があり、僧侶も多かった。山道を僧侶を乗せて歩く馬もたくさんいた。
 あまりの人の多さにか、タマンは木陰に小さなテントを張ってくれた。トイレである。穴も掘ってくれていて快適。1日3リットル以上の水分を摂り続けている私たちは夜な夜なそのミニテントに通い詰めた。
 夜中、ケンちゃんが中で用を足していると、森の影からごそごそと音がした。
「なんかおる!」と叫ぶと「え、ええっ?」不安げなケンちゃんの声がミニテントの中からする。こわごわとその音のする方へライトを当ててみると、馬だった。坊さんを乗せるための馬。
「あーよかった、ただの馬やった」
 草でも食べていたのか、やがてその馬はこちらに歩み寄ってきた。
 馬って夜になると目が見えないのかな。我々がいることを把握してるのかしてないのかテントをよける様子もなくまっすぐにこちらに向かってくる。
「わ、馬が、馬がぁぁぁぁっ!!」
 馬はやっぱりまっすぐに歩き、ケンちゃんがくつろぐミニテントにすり寄り、なぎ倒さんばかりの勢いで通り過ぎていった。
 この日の夕食はタマンたちがナムチェで仕入れた「ヤク」のステーキ。ヤクとはゾッキョと同じく荷物を運んだりする牛で、より高山に適した丈夫な動物。
 そのヤクを焼いて食べた。料理長の味付けは見事なしょうゆ味だった。少々硬かったが久しぶりの肉料理は大変美味だった。

             タンボチェの寺院

11月17日  ** タンボチェからぺリチェ(4240m)へ **
 2度目の高度順応日。いよいよ本格的な高山になってきた。登山客もぐんと減り、ここからは本当の山好き、なおかつ日程に余裕のある人だけの領域になる。私たちはふたりとも無職だったので全然問題なし。さらに高みを目指す。ここには昭和医大の診療所もあり安心。
 タマンたちも今日はゆっくりと昼寝をしたり牛と遊んだりしていた。私たちは近くの川へ洗濯に。「自然界を破壊しない」という洗剤を持ってきていたのでそれを使った。そして・・・いけないことだとは思いながらも頭を洗った。川の水で。半分凍ったような水だったが洗えるだけでも感謝。久々の洗髪は心地よかったが声も出ないほど冷たかった。するとそこへズンゲが登場。私はてっきり怒られるのかと思っていたが、ズンゲはやかんにお湯を沸かして持ってきてくれたのだった。
 すっきりしたところで私たちはスケッチをしに行こうと近くの丘を指差した。
「ちょっとあそこに登ってきます」
 するとタマンが笑顔で自分の荷物をまとめ出した。「いいよ、ちょっとそこまでだから」と言うのにタマンは昼寝中にもかかわらずついてきてくれた。本当にこの人たちはよく働いてくれた。仕事とはいえ。
 ナムチェで滞在のとき、私は両親あてにはがきを書いたのだが、郵便局はどこだと聞くと「あそこ。ちょっと遠いから僕が行ってきてあげる」と指を指すので見てみると、めちゃめちゃ遠いのだった。見えてはいるけど歩いたらたっぷり1時間はかかりそうなところなのだ。「やっぱりいいです。カトマンズで出すから・・・」と遠慮すると「全然ヘイキ、ノープロブレムよ!」と言って走ってくれたのだ。
 だいぶ仲良くなってきたので今夜は彼らの泊まっている石小屋におじゃました。ズンゲは酒飲みでとても歌が好きな陽気なおじさんだ。歩く道中でもいつも歌を歌っているのだ。私の知ってる歌はなかったけれど、ケンちゃんは何曲か知っている歌があったらしい。
「あの歌、体育会にいるとき歌ったことある。変え歌やけどな、女の子の前ではちょっと歌えんような歌や」
 ズンゲは向こうの言葉で歌っていたのでどんな意味の歌詞かはわからなかったが、ズンゲはげらげら笑いながらこの歌を歌い、周りの人もげらげら笑いながら聞いていたところを見ると、そーゆー歌だったのかもしれない。どこの世界もオトコは同じなのね。
 小屋の中ではみんなが楽しそうに夕食を食べていた。私たちに出してくれるものとは全然違い、質素だった。でも・・・それがおいしそうだったのだ。カレーライス。私の大好物。「ちょっとちょうだい」と言うとくれた。薄味でキュウリがたくさん入っていた。が、これが疲れた体にめちゃめちゃ心地よく、私はすっかりこの味にハマってしまい、帰国後しばらくの間、家でキュウリ入りカレーを作っては家族にふるまい続けた。
 ケンちゃんが「これ、明日の晩御飯に食べたい」と言うと、翌日本当に作ってくれた。高度が上がるにつれ、食欲もなくなってきていたので、久しぶりにしっかりと食べた夜だった。
 4240m。あたりは森もなく荒涼とした風景。山がどんどん迫り、空の色も変わってきた。
 紺色の空。地上と宇宙との境目の色。その色を見ていると、我々も宇宙の一員なのだと実感することができる。
 とてつもなく大きく、それゆえ実体のない・・・しかしそれは確かにここに存在している。それが発する大きな力に圧倒される。でもそれが何なのかはわからない。

 ペリチェのトイレはテントから少し離れたところにあった。がらんと広い小屋の中に穴がふたつ。仕切りもなにもない。私たちは並んで穴をまたぎ、小さな窓を見上げながら用を足した。窓からはやさしい月の光が差し込んでいた。静かな静かな月の光。

「子供の頃さぁ、ディズニーの映画で見た景色に似てる」

 ケンちゃんがペリチェの夜をそう語った。穴にしゃがんだまま。濃紺の夜空に連なる三角にとがった山々。淡々と浮かぶ月。
 その時の私たちの姿を思い出すとどうしても笑えてしまうが、私は隣でお尻を拭くケンちゃんを見ながら思ったのだった。

「この人と結婚するんだろうな、わたし」と。

   
ペリチェの丘でスケッチ 同行のみなさまと記念撮影

11月19日  ** ペリチェからロブチェ(4887m)へ **
 紺色の空、手に届きそうなほど近い雲。白い山と氷河。
 その広大すぎる風景は飽きることがない。

            ペリチェを振り返る

 それにしても腹が減る・・・高度が上がるにつれ食欲は減退していく。同行のシェルパたちは私たちのために重い荷物を背負い、遠くまで水を汲みに行ってくれるのだが私たちはそれを半分も食べることができず残してしまう。申し訳なくて悲しくなってくる。彼らは日本人のためにしょうゆ味のメニューを作ってくれるが、やっぱり何かが違う。日本食が食べたい・・・。
 おなかがすいてバテ始めたので、日本から持参したカロリーメイトを片手に今日も歩き続ける。
  Rest please!
 彼らとの会話はすべて英語。日本人と日本語で話がしたい。リーストプリーズ!と一歩歩くごとに私たちは立ち止まり、息を整えた。
 トゥクラという集落にやっとのことで到着。ここは素晴らしかった。山が近い。まるで両手を大きく広げているかのような格好で山がそびえ、私たちを抱きしめてくれた。ひときわ大きな山が見えたのでタマンに「あの山は?」と聞くと「アマダブラム」と言う。
「ええっ!アマダブラム?!」
 アマダブラムは標高6812m。登り始めた頃から常に見えていた山だった。まだ下にいた頃はずん胴みたいに見えたが、ここから見るその山は羽を思い切り広げた鷲のようだった。私たちは嬉々として写真を撮りまくり。
 トゥクラを過ぎると急坂が始まった。あたりは月面のように土と岩ばかり。何十回目かの休憩のとき、岩に腰掛けながらミルクティーを飲んでいると、石をたくさん積み上げた塔が無数に並んでいる一角が見えた。
「あれはね、エベレスト登山で死んだシェルパたちの墓だよ」
 タマンが言った。あんなにたくさん死んだのか・・・。
 シェルパじゃないけどその年、ある日本人女性がエベレストに登頂した。田部井淳子さんについで、日本人女性2人目の快挙だった。マスコミは連日湧きに湧き、私も毎日「今日はどこまで登った」と楽しみにしてテレビや新聞を見ていた。
 ところが登頂直後、天候が急変、彼女はあとわずかで皆の待つベースキャンプにたどりつく距離のところで亡くなってしまった。本当に残念な出来事だった。。。
 この旅行から帰ったあと、私はめでたく通関士試験に合格し就職活動を始めた。今、勤めている会社に面接に行ったとき、人事部の人は私の履歴書の「趣味」の欄を見て「登山が趣味ですか?」と聞いてきた。私はここぞとばかりにエベレストを見てきた!と自慢した。すると、
「難波さんみたい・・・彼女、うちの会社だったんですよ。私と同じ人事部でした」と、面接官は目をうるませたのだった。
 日本人女性2人目のエベレスト登頂者は会社の先輩にあたる人。あの時帰ってきてくれていれば私はもっともっと貴重な経験ができただろう。世界で一番高いところから見えた風景を写してきた瞳に出会い、世界で一番高い場所に歩いて行った人の話を聞くことができただろう・・・そう思うとひときわ悲しく残念だ。
 もちろん、この頃は自分が同じ会社に就職するなどとは夢にも思わなかった。雑誌に掲載された難波さんの記事を見て、職業OLと書かれているのに仰天し、「プロの登山家でもないのに何ヶ月も仕事休ませてくれるような理解のある会社がこの世に存在するのか!」などと思って、無職な私はちょっとひがんでいたりした。全く『縁は異なもの』である・・・。

   見えるかな?石の塔(お墓)が並んでるの

 ここへ来て再びケンちゃんの高山病が復活。頭が痛いとしきりに言う。どんなふうに痛むのか聞いてみた。

    孫悟空の頭にはめてるワッカ、あれをぎゅうううって締めつけられたような感じ

なのだそうだ。
 この日の宿営地、ロブチェに到着。白い山が夕陽に照らされている。「アルプスの少女ハイジ」のせりふ『山が、山が燃えてる』そんな感じだ。

          
        夕陽に照らされるヌプツェ(7855m)。この写真は帰り道に撮りました

 しかし高山病患者を連れていてはひとりで感動するしかない。
 頭痛に顔をしかめるケンちゃんをタマンが気遣ってくれた。
「大丈夫?酸素が必要ならいつでも言ってください」
と、リュックの中から酸素ボンベを取り出した。げげっ、こんなでっかいの持ち歩いてくれてるの?と気の毒になるくらいのシロモノだった。えらく年季の入った酸素ボンベ、材質は鉄である。
「いやあ、まだそこまで深刻じゃないから」とケンちゃんは言っていたが、日も暮れてあたりが暗くなってきた頃、

     「酸素・・・あの酸素を吸いたいとタマンに言ってきてくれ・・・」

 これは大変だ!私は慌てて寝ていたテントから飛びだし、靴を履きながらタマンのもとへ駆け出した。が、

     「吸ってもいいけどお金がかかるよ」

と言われた。かまわないからボンベを持ってきてほしい、と言うべき時に「いくらですか?」と思わず聞いてしまった自分に自己嫌悪。タマンは冷静に、

     「1押し1ドルね」

 私はテントに引き返した。ケンちゃんは私の足音に気がつき、テントの中から弱々しい声をだした。「持ってきてくれたかぁ・・・?」
 私は靴を脱がずにテントを覗き込んだ。「ワンプッシュ、ワンダラー(one push one dollar)言うとった!!」

     「いらん!!!」

 そう言うと思って私は靴を脱がなかったのだ。『1押し1吸いワンダラー』では破産してしまう。その足でタマンのもとへあと戻り。
「やっぱりもうちょっと様子をみてみます」と告げたあと、テントに戻ってケンちゃんと添い寝した。添い寝といってもシュラフ(寝袋)越しだが・・・。
 寒いので眠くなくてもシュラフにこもってしまう。日が暮れると何もすることもないし。テレビもないし本も読めない。電気もガスもない、ふたりだけのテント。車の音も聞こえない、人の話し声も。
 山ではまさにこの世にふたりきり、状態なのだった。

               雲に手が届く・・・

11月20日  ** ロブチェからゴラクシェプ(5100m)へ **
 とうとう5000mを超えた。岩と砂の道が続く。眼下には大氷河、『クーンブ氷河』が横たわる。岩と砂と氷河と空。それ以外のものは何もない。
 「もおおおお、なんやねん!この景色は!!景色を変えてくれーー!」
 何時間も続く単調な景色に嫌気がさしたケンちゃんはすっかりふてくされて砂の道に座り込んでしまった。
  
 「とにかく・・・イライラしてきた!なんでおまえはそんなに元気やねん!?なんでそんなに平然としてんねん!むかつくんじゃあぁぁ!!」

 ついに発狂。高山病が悪化してきているようだ。
 私も疲れた。。。高山病にはならなかったけれど、毎晩寒くてよく眠れないので寝不足と空腹に疲れていた。私も隣に座り込んだ。ふたりとも言葉もなく、黙って氷河を見つめるしかなかった。

 「オレはゴラクシェプでリタイアする。おまえはタマンとふたりで登ってこい」
 どこまでも私についてきてくれると言っていたケンちゃん、もはやこれまでか。
 もう見えているのにな、目指す頂上が。ここまで来たら一緒に頂上に立ちたい、そう思ったが言えなかった。暗い沈黙がふたりのあいだに流れていた。
 そこへズンゲが登場。両手にカップを持っている。ミルクティーの時間か。力なく受け取り、飲んだ。ん!?
 ミルクティーではなかった。それはレモネード。
 んんんっ!!うまい、うまいぞっ!!ケンちゃん大感激しながらあっという間に飲み干し、おかわり。しばらくすると、「さ、行くぞ」だって。ケンちゃんの高山病は本腰の高山病ではなくただ順応が遅いだけなのだ。
 ゴラクシェプに到着するとケンちゃんはズンゲを呼び、お湯を沸かしてもらうとヘヘーイと叫びながら頭を洗いはじめた。私もペリチェ以来の洗髪をした。終わって鏡を見ながら髪をとかしていると地肌に無数の白い粒が・・・げげっ、フケか??!と一瞬びっくりしたが、それは氷の粒だった。気温はどれくらいだったのか知らないが、登山シーズン中はマイナス20度から40度くらいまで下がるらしい。
 このとおり山中は寒くて乾燥していて、岩と砂の世界ゆえ砂埃が多いので始終のどが痛い。私も当初は『風邪をひいたか?』と不安になったりしたが、空気がきれいなので風邪は絶対ひかないよ、と山から下りてきた登山者に言われた。
 空気はうまいがメシはのどを通らない。出された食事を前に今日もふたりでうなだれる。

        
 大空にそびえるプモリ(7161m)その手前に見える茶色い丘の頂がカラパタール頂上(5545m)

 「もう・・・何も食えん・・・こんなにハラぺコやのに・・・。オレはもうあかん、カラパタの頂上をここから見あげて日本に帰る」 
 精神的にもへこたれてしまったケンちゃんのために、私は大事に大事にとっておいたものをリュックから出し、ズンゲにお湯を沸かしてくれるよう頼んだ。
 生麺タイプのカップうどん。お湯をそそぐと甘ーいダシのにおいが・・・
 わかった、何が足りなかったのか。毎日しょうゆ味のメニューだったが、彼らの作る料理には「ダシ」がなかったのだ。
「おおっ、これやったら食べれそうや・・・ひとつしかないけど・・・オレが全部もらってええか?」
 ケンちゃんは久々の「ダシの味」に感涙しつつうどんを食べ始めた。私は隣でミルクティーをすすりながら心で泣いた。ここは年長者としてガマンしよう・・・。しかし、

「ちょっと待って!!!最後の一滴だけちょうだいっ!!」

 と叫んでしまった。ケンちゃんはちょっとびっくりしながら汁が一滴だけ残ったうどんカップを差し出した。
 ずずっとひと思いにすすった瞬間、その一滴のダシが五臓六腑にしみわたった。細胞のひとつひとつにまで、、、ダシの風味が。
 憧れの頂を目前に、私は思った。・・・日本に帰りたい。

11月21日  ** ゴラクシェプからカラパタール(5545m)へ **
 ついに頂上を目指す。早朝から支度を始めた。私の隣にはケンちゃんが。

「今日一番のりはオレがいただく!」

 昨夜のうどんが効いたらしい。俄然やる気を見せている。
 君はゲンキだが、私は苦しい。一刻も早く、と急ぐ気持ちはわかるが体が追いつかない。今度は私がタマンを心配させた。めざす頂が見えているのに歩けども歩けども近づいてこないのだ。こんなに歩いてるのになんで??と半泣き状態。何度も休憩するうちにとうとう単独行の白人に追い越されてしまった。

 「あああ、一番のりは夢破れた。じゃあ二番を目指すぞ!」
 ケンちゃんはいたって元気。その元気さが腹立たしい。

 ・・・ちきしょう、あのうどん、きれいに食べやがって!!

 食べ物の恨みはおそろしいのであった。

「エベレストがきれいに見えるぞ!!」
 エベレストはネパール語で「サガルマータ」と呼ばれている。「サガル」は大空、世界、という意味で、「マータ」は頭、頂上の意味。ちなみに「チョモランマ」はチベット語である。
 単調な砂地の道を歩いていると大きな岩がごろごろしている所に出た。疲れきっているところにこの仕打ち。「もーイヤ!」と心の中で叫びつつ、岩をよじのぼる。
 そして・・・・ついに・・・!!!

 この景色を手に入れたのだった!!!
 向かって左の山がヌプツェ(7855m)、右がローツェ(8511m)。そして中央奥にたたずんでいるのが世界最高峰「エベレスト」(8848m)。
 5545mの頂に立ち、思った。こんなに長い時間をかけて歩き続けてこられたのはどうしてだろう。何にそこまで駆り立てられたのだろう。
 理由などない。ただそこへ行きたかっただけだ。そして夢に見た「そこ」は今この瞬間「ここ」になったのだ。
 でもこの景色を見て思った。5545mまで来ても所詮ここはカラパタールの丘。ヒマラヤ山脈にとってはちっぽけな「丘」にすぎないのだ。
 がむしゃらに上を見上げ続けるだけが人生ではない。ちっぽけな自分をきちんと見つめ、認め、そして愛すること。それが一番大切なことではないか。どうにもできないことはどうにもならない、物事には必ず限界というものがあるのだ。その事実はもはやどうすることもできない。
 私は多分、生涯のうちでこれ以上高い山には登ることはないだろう。私の力はここまでだ。どんなに憧れたって今この瞬間目の前に見えている高峰に登ることはできない。これが私の限界。所詮、カラパタールの『丘』。
 肩の荷がすうっとおりたような気がした。『私はここまで』。限界を知ることは悲惨なことでもなんでもなく、予想に反し、すがすがしい気分だった。このすばらしい「限界」の中で私は生きていこう。暗闇の中でやみくもにがむしゃらになりながら、わけもわからず前に突き進もうとするのはもう今日限りでおしまいだ。
 名だたる高峰に囲まれながら、そんなことを思った。
 自分を愛し、自分をとりまく現実を愛し、そして自分の傍らにいてくれるさまざまな人を愛していこう。
 こんなにちっぽけな私を愛してくれる、全ての人に感謝しつつ。

 そんなことを考えさせてくれる山。だから山は素晴らしい。

           
            カラパタール頂上にて。この翌年私たちは結婚しました。
 
 高山病に苦しんだケンちゃんも帰り道ではタマンとかけっこの競争をするなど、調子もよかったです。結果は、速さではケンちゃんの勝ちでしたが、ケンちゃんがぜえぜえ息を切らしている横で、タマンは静かに微笑みつつ、
 「酸素いる?」
 ケンちゃん、これは一本とられたね。
 大きな鉄製のボンベ・・・。あの時の記憶がよみがえった。そしてふと思ったので聞いてみた。ワンプッシュワンダラーって言ってたけど、ワンプッシュって「シュー」ってひと吹きなん?
 「んなわけないでしょー、ワンプッシュは3分くらいだよ」
 と、笑われてしまいました。もっと早く気づいていれば・・・。

 タマンは当時20歳にしてエベレストのサウスコル(8500m付近)まで登った経験があり、今ごろは頂上を踏んでいるかもしれません。
 登山家に無理な登り方を強要され、命を落とすシェルパも多いと聞きます。タマンが今日も元気に登山客を率いてあの道を歩いてくれていることを切に願っています。もちろん、ズンゲもコックさんたちもポーターの女の子たちも元気でありますように。

                               終