ホタルの思い出

加賀の白山(はくさん)に登ったときの話。
この時のコースは下山がとても長くて、足がすっかり棒になってしまった。
下っても下っても永遠に終わりが来ない。
絶望に近いような感じになってきた頃、ようやくゴールした。
男ひとり女ふたりの3人での山行。
ゴール到着後、男はすっかりバテきっていたので薬を飲ませて休憩所に放置し、
女ふたりで早速目の前の露天風呂へ。
山から下りたら「温泉とビール」に決まっている。
バテすぎて温泉にも入れず、ビールも飲めなくなっている状態の連れの男性を横目に
私たちは「お約束」を忠実に実行した。

そしてお決まりのように・・・どどっと疲れが。
私たちはへろへろ状態でタクシーに乗り、民宿へ。
白川郷にある、わらぶき屋根の素朴な民宿。
夕食を済ませると私たちはだらだらと畳の部屋にごろ寝。
これが気持ちいいんだよなあ。
もう一歩も動きたくない、そう思っていたところだった。
ここの民宿は個人経営で、畳の大部屋にはそこの主人の子供もごろ寝していた。
まだ小学校低学年くらいの男の子だっただろうか。
動けなくなっている私たちの横にやってきて、
「ねえねえ、ホタル見にいこうよ」
と言う。
「うん、もうちょっとしてからね」
と、適当にうなずいてみたものの、行く気などさらさらなかった。
こんなに疲れているときに、子供の相手はご勘弁・・・
しかし彼はめげずに言い続けた。
「ホタル見に行こうよ」
彼の熱心な誘いに私たちは依然生返事。
「うん、あとでね」
本当にホタルなどいるのか?
子供の言うことはどこまでが本当でどこからがウソなのかわかりゃしないのだ。
「ボクがホタル連れてきてあげるから」
ホタル学者じゃあるまいし、そんなことできるわけないのだ。私たちはますます気重に・・・
しかし、頭を丸く刈ったその少年の無邪気な笑顔を見ると
行かない、とはどうしても言うことができず、私たちは重い身体を起こした。

あたりはすっかり暮れ、田んぼしかなく街灯もろくに灯っていないそこは、まさに漆黒の闇。
少年の照らす懐中電灯だけが頼りの世界。
「ここにね、ホタルがいっぱいいるんだよ」
少年の指差す先は真っ暗な田んぼ。
やっぱり何も見えない。そこには闇が広がっているだけ。
ああ、残念だったねえ、でもありがとうね。
と、私は少年にかける言葉を考えた。
少年としては(おかしいな、よくここにホタルが飛んでいるのになあ)
という感じだろう。都会で暮らす我々にホタルを見せてあげようという
少年のあたたかい気持ちに感謝しよう。

しかし少年は真っ暗な田んぼに飛び降りた。
「ホタル、連れてくる!」
そこまでしなくていいよ、暗いから危ないよ、と声をかける間もなく
暗闇に向かってあぜ道を走っていく。
そして持っていた懐中電灯のスイッチを、非常用の点灯モードに切り替えた。
ちかちかちか。
点滅している電灯が、少年の顔を照らしていた。
照らされたその顔は満面の笑みだった。
ちょっと痛々しい気持ちになったのもつかの間。
暗闇の向こうから一筋の光がやってきた。
「ホラ!連れてきたよ!」
緑色の小さな光がひとつ、そしてふたつ、みっつ・・・
少年は腕を真上に伸ばし、誇らしげな表情で電灯を高くかかげた。
右から左から奥から無数のホタルが、暗闇にかかげられた電灯めがけて集まってきた。
無数のホタルが放つ光が漆黒の闇いっぱいに線を描いている。
信じられないほどの明るい光に包まれながら、
私たちはしばしその光景に酔いしれ、幸せな気持ちで宿に戻ったのだった。
幻想的世界への案内人(見た目は丸刈りの小学生)の照らす、
懐中電灯の光を頼りに。


縁日であれこれ

祇園祭の人ごみで、私はダーリンを見失ってしまった。
どこを見ても人、人、人。しかしどの顔も見たことない、知らない顔ばかり。
要するに私は迷子になってしまったのだ。
こういう時にはやみくもに動かない方がいい。私は人の流れから脱出したところで
ダーリンが迎えにきてくれるのを待つことにした。
そして、ぼうっと待っているのも退屈なので何か食べることにした。
こういう時はやっぱりたこ焼きがいいだろう。
「大阪名物たこやき」なんて言うが、子供の頃は食べた記憶がほとんどない。
たこやきは私にとってはこんな時しか食べられない『ご馳走』だったのだ。
いつダーリンが現れるかしれないので一番近い屋台でたこ焼きを購入。
ふたつほど食べ終えたところだっただろうか。ダーリンが汗をダラダラ流しながら現れた

「コラ!!」
叱られた。迷子になったくせにたこ焼きを食べていることにではない。
「屋台で食べ物なんか買うたらジイさんに叱られるぞ!」
ダーリンのおじいさんは
近所のスーパーの前や、地元のお祭りでタイヤキを焼いたり、おもちゃを売ったりしていた。
特にタイヤキは行列ができるほどの評判で、
私も食べたことがあるけれど、お世辞でもなんでもなくおいしい。
手間ヒマかけて炊きあげたあんこにふわふわの生地。しっぽのあたりはカリカリして香ばしい。
孫であるダーリンも幼少の頃から手伝いに出ていたため、幸か不幸か祭りの裏事情にやたら詳しいのだ。
おじいさんは根っからの『職人』であるが、
祭りにはいわゆる世の裏方でシゴトをしている『ヤ』の方々が大勢いることは事実。
「ホラ、前で焼いてる奴、あれはまだまだ下っ端や」
「あぁあぁ、あんな焼き方しおって。焦げとるやないか」
「粉の混ぜ方がなっとらん!」
「あの手つき、見てみ。あれがシロウトのやり方や」
ダーリンは私の耳元でしきりにささやく。
「そのたこ焼き、何が入っとるかわからんぞ」
ダーリンの記憶では・・・昔、おじいさんの手伝いをしていた時に、
隣のたこ焼き屋が
水がなくなったからと言って、裏のドブ川の水を汲んでいた、と言うのである。
まぁ、そんなこともあるだろーよ、と言いつつも食べ続ける私。
「ひとつ食べる?」
と聞いてみると
「まあ、一個だけな」
と返事が返ってきたので差し出すと、
「コラ!!」
また叱られた。そのたこ焼きにはマヨネーズがかかっていなかったから。
私はマヨネーズがあまり好きではない。嫌いとまではいかないけど、
できることなら食べずにいたいので、たこ焼きお好み焼きやきそばをたのむ時は必ずマヨネーズ抜きにしてもらう。
ダーリンもそんな私のことを独身時代から熟知しており、
ふたりで一皿のたこ焼きを買うときは、店の人にちゃんと言ってくれる。
「8個のうち、4個だけマヨネーズつきにしてください」

大阪の南の方に住んでいたころ、だんじり祭りと言うのがあった。
岸和田のだんじりは全国でも有名だけど、
南大阪地方の市という市は独自でだんじり祭りをやっていて、
どこの市民も「ウチが一番に決まっている」と岸和田をせせら笑っている。
岸和田ではない市のだんじり祭りにも行った。
私は今度は食い気に走らず、タレパンダのぬいぐるみに走った。
くじを引いて当たりが出ればもらえる、あれだ。
「あたりくじなんか初めから入ってへんのや」
どんなに祭りが熱く賑わっていようともダーリンは冷めている。
「ジイさんに叱られたなあ

ダーリンは昔、おじいさんの手伝いでおもちゃを売っていたときに
祭りのしょっぱなから箱にあたりくじを入れてしまい、
「なんちゅうことするんや、おまえは!」とこっぴどく叱られたそうである。
しかもそのあたりくじはしょっぱなから引かれてしまい、
目玉商品を持っていかれたおじいさんの店はなんとも見劣りのする、
さみしいおもちゃ屋台になってしまったそうである。

お正月には住吉大社に出かけたりもした。
縁日の食べ物で私が一番好きなのは、実はアメリカンドッグ。
アメリカンドッグとは、ウインナーに衣をつけて揚げたもの。
あのふかふかの甘い衣とウインナーの味わい!

でも需要が少ないのか最近はめったに見かけない。
鉄板でジュージュー焼かれている長いウインナーに押されて、今やすっかり下火になってしまった。
きわめて遺憾。

どうしてもアメリカンドッグが食べたくて、私はダーリンを端から端まで連れまわした。
「おまえはアホか」
と言われながらも頑張った。そして見つけた!無数の屋台の中から一軒だけ!
「あった!あった!」と狂喜乱舞する私をダーリンは冷めた顔で見ながら煙草を吸っていた。
「はよ行って買うてこい」
冷めた口調ながらもダーリンは財布からお金を出してくれた。
すでに先客がひとり。中年のオジさんだ。
「ワシはなあ、これが好きなんや!これが食べとうて4日連続で来てますんや、和歌山から」
上には上がいるものである・・・



戦争って


「人を殺すことは善か否か」
と質問されれば
多分ほとんど100%の人が「否」と答えるだろう。
でも戦下では「人を殺すこと」が正義となる。
政治のありようで正義がこうも変わるというのは本当におそろしい。

ずっと前、あるテレビ番組で中東かどこかの
戦火が耐えない地域で、たくさんの子供たちが親から引き離され疎開させられていた映像を見た。
どの子も親元を、自分が生まれ育った国を離れることをいやがり泣き叫んでいた。
あんなひどい国でも彼らにとっては祖国、ふるさとなのである。
が、国を離れて平和な環境できちんとした教育を受けると今度は
あんな国へは戻りたくない、と激しく泣き叫んでいた。
子供たちは平和な国で、人間として当たり前の保護を受け、教育を受け、
夢を持ち、希望を持って生きることを学んだ。
疎開させられなければ子供たちは一生涯あの戦火の中を逃げ回り、
親や友達を殺され、未来も夢もなく、それを当たり前のことだと思い込んで生活していたのだろう。
「知らない」ということは本当におそろしい。

去年の暮れ、広島の平和祈念公園に行った。
広島へは小学校の修学旅行で行った以来。
原爆資料館にはたくさんの資料があり、一日ではとても回りきれないほどだった。
小学生の頃は被爆直後の人間の焼けただれた皮膚の写真や
大きなきのこ雲の写真や
階段に焼きついた人の影とか
そういう視覚的なものに目がいき、かなりのショックを受けたが、
大人になった今では
なぜ原爆が落とされたのか、なぜ広島だったのか、被爆前の広島の様子や原爆の威力など、
文字や統計表などに目がいった。
それをひとつひとつ丹念に読んでいたものだから、一日ではとても時間が足りなかった。
もっともっと勉強しなければならないこと、見なくてはいけないこと、
知らなくてはならないことがたくさんある。
目をそむけたくてもそむけてはいけない事実が世の中にはたくさんある。

ひととおり展示物を見たあと、出口を抜けて通路に出た。
ここに展示されたたくさんの「絵」。
この絵を、通路ではなく中に入れるべきだと思った。
被爆者たちの書いた当時の絵。
子供が書いたらくがきのような絵もあったが、どの絵も強烈な力を持っていた。
生まれたばかりの子供を抱えて走っている途中で焼け焦げた立ち姿のままの女性の遺体、
中でも一番心に残ったのはある男性が書いた絵。
それは、まだ幼い自分の娘を火葬にしている絵だった。
娘を焼く。体液が流れ出てきた。形がだんだんなくなってきた。
焼けていく娘の身体を、実に冷静なまなざしで見つめている。
この男性には娘の上に息子もいたらしく、その息子はいまだ行方不明。
「でもあの子ならどこかで元気に暮らしているだろう、と思う。
子供たちよ、親としての義務も果たせず、本当に申し訳ないことをしてしまった」
と、その男性は絵に添えた文章にそう書いていた。
そんな思いを背負い続けながら生きてきたこの何十年間。
そんな思いをしながら生きている人がたくさん、たくさんいるのだろう。
広島だけではない。長崎だけでもない。日本人だけでもない。
被害者ツラばかりすることはいけないが、唯一の核被爆国という面から考えると
「被害者」としての経験を伝えていくことは重要だと思う。
たくさんの絵を資料館に残してくれた方々に感謝、そして尊敬の念を感じずにはいられなかった。

戦争に勝った国も負けた国も人の命は平等。
数年前のアメリカのテロ事件の時、
アメリカばかりが被害者ツラをしていたのが気になってしょうがなかった。
大国でも小国でも人の命は平等ではないのか。

人間は争い、闘うという習性をもっている。
いろんな考えの人がいて意見がぶつかりあうことは避けられないことなのだから
人間は戦争をやらずにはいられない動物なのだ。
理想論ばかり唱えていないで現実をきちんととらえなければならない。
争った時に自分を守るために武器を持たなければならないこともある。
高校生の時、社会科の教師がそう言っていた。

私は「目には目を」という報復根性は大嫌いなので、そういう行いをしないように
常に心がけている。完璧にできているかはわからないけれど一生懸命心がけている。
どんなに意見が食い違っても必ずどこかに一致点がある。
一致点が見つからなければ見つける。あるいは作り出す。
言葉や文章という立派な手段と、頭で考える力と勇気ある妥協。
日本人はカタキ討ち思想を好む傾向があるように思うけど、
人の上に立ち、国を動かす力のある人、いや
知識ある大人として「武器」で対抗、というのはあまりにも子供じみた考え方ではないか。
戦争は人間が生きている以上避けられないことなのだからと公言することは
男は性欲が強いからレイプ事件が起こるのは仕方がない、と言っているのと同等の
実にくだらない、恥ずべき発言だと私は思う。

何の意義も生み出さないことに時間を費やしてしまうほどヒマではない。
何の意義も生み出さないことに使うカネも体力も精神力もない。
それでも戦争は起きる。
結局は「理想論」でしかないのか・・・

しかし、理想論を言って何が悪い。


散歩道にて

長い間続けていると、どんなことでも必ずイヤになるときがある。
たとえ自分が選び、決めたことであっても。
たとえば「仕事」
仕事を辞めたいと一度も思ったことがない人は多分いないのではないだろうか。
いたとしたらきっとその人は恐ろしく鈍感か思慮の浅い人で
ある意味、問題だとすら思ってしまう。
私も今年の初めから数ヶ月、真剣に悩んだ。
どうしてここまで会社の思うままにこきつかわれなきゃならんのだ。
女房、子供を抱えた男の人なら話は別だが
私には子供もいないし、ダーリンひとりの収入でもやっていけないことはない。
幸せなことだが、これが結構クセモノなのだ。
辞めるも続けるも自分の自由。
自由というのは結構苦しい。むしろ「絶対に辞められない」理由が
あったほうがラクなのではないかと思ってしまうことがある。
事実、ダーリンが専業主夫していた頃は
何十時間残業しようが何ヶ月間も連続で夜勤をしようが
辞めようなどと思ったこともなかったし
深く悩むことなど皆無だった。
人間は環境によって強くも弱くもなってしまう生き物なのだなあ。

今回私が仕事を辞めたいと思った理由は
書き連ねると長くなるので一言で。
要するに
会社が私に要求していることと、私が目指しているものが大きく食い違っていたから。

うつうつとひとり悩む時間が日に日に増えていった。
休みの日などは最悪。ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう。
気がつくと灰皿にたばこの吸殻テンコ盛り。

これではいけない。
家にこもっているからあれこれ考えてしまってダメなのだ。
私はたばこをもみ消し、何の目的もなく散歩に出た。
梅の花咲き誇る大阪城公園へ。

ある一角がやけに賑わっていた。
近寄ってみると「大道芸人」がたくさんの大人たち子供たちの前で
芸を披露している最中だった。
彼が、
大きなナイフとりんごを何個も宙に舞わせたり
口から火を噴いて見せたりするたびに観客から歓声があがる。
そしていかにも大道芸らしいトークでみんなを笑わせる。
こんな不安定な仕事をしていて不安じゃないのかなあ。
彼は今後もこの仕事を続けていくのだろうか。
どうしてこの仕事を選んだのだろうか。
奥さんや子供はいるのだろうか。

すべての芸が終わると彼は観客に向かって帽子を差し出しながら言った。
「はい、お子様方はこちらにちゃりーんと1枚、そして大人の方は
小さく小さく折りたたんでこの中へ入れてねー
ボクはねホントにこの帽子の中のお金で食べてるんだよぉ
きびしいでーす」
好きなことを職業にして生活するということはこういうことなのだ。
犠牲も不自由も多い。
でも何よりも「自分で選んだ職業」に就けたという幸運。
明るく堂々と仕事をする彼の姿は少しだけ私の心を癒してくれた。
私だって「幸運」じゃないか、一応。

次は城の周りの堀に近寄ってみた。
魚釣りはしてはいけないと書かれた看板があちこちにあるのに
あちこちで若者たちが魚釣りをしていた。
しばらくその様子を見守りつつ一服していると
自転車に乗った男の人がひとりやってきた。
彼は自転車をおりるとそばのベンチに座ってポッキーを食べ始めた。
この辺りの住人のようだった。
堀のそばの森にはホームレスの人たちの住処がたくさんあった。
青いビニールテント、ダンボール・・・
家の造りもさまざま。
その中でひときわ目を引く家があった。
青いビニールテント製なのだが、一般的な家とは違い、木で柱を立てているかのような
真四角な頑丈な造りで、なぜだか玄関には大きなボンボン時計がはめこまれていた。
そして家の前にまるで郵便ポストのようにしっかりと固定された箱があって
「10円カンパお願いします」
と書いてあった。
1円、5円は入れるな、ということか?
そして自転車が数台。
それらにはカタカナで会社らしい名前が書いてある。
そう、ここは住居でなくオフィスなのだった。
玄関のパネルには
「屋根の修理、自転車の修理、庭そうじ、なんでもおまかせください、
法定最低賃金でご奉仕いたします」
オフィスの中からは人の話し声がする。
ケンカではなく、どうやら中には数人の人がいて議論をしているようだった。
彼らの仕事に対する姿勢に私は心打たれた。

もう少しだけ頑張ってみよう。
3月で辞めるぞ!と思っていたけれど、5月までは辞めないでおこう。
そんなことを考えつつ家に帰った。

そうして今は8月。
辞めると決めた日からもうすでに数ヶ月が経過している。


適  当

「おまえはなんでいつもそうやねん」
と、私はたびたびダーリンに言われる。彼のいうところによると私には
『ちきしょう!なにがなんでも』
というところがなく、いつもぼけっとしていて物事を深く考えることもなく、
『ポリシー』がなく見えるらしい。
しかし私も一応、ポリシーとまでは言わなくとも『座右の銘』というものを持っている。
「テキトウ」
ダーリンは、日頃の私の挙動を思い起こす。
「適当」
ダーリンはもう一度私の顔を見つめ、大いに納得したような顔で言う。
「そうか、そういうことなら仕方がない」

世の中はいろいろと複雑だけど、
ほんとうに自分に必要なものは、実はほんの少ししかない、
ということに気がついたのは20代の後半くらいだったと思う。
それまでの私は複雑な世間の波に漂いながら
どうして自分はこうなってしまうんだろう
どうしてあの人はあんなふうなんだろう
どうしてあんなことしてしまったんだろう
どうしてできないんだろう
いろんな人の、いろんな言動に翻弄され、
この先何十年も続くであろう人生に嫌気がさしたことがなんどもある。
どうして人間の寿命は80年もあるんだろう、30年くらいで終わってくれないだろうか。
そんなことを真剣に考えていた。

若い頃は、他人より劣っているところは直していこう、
そうしなくてはならない、と思っていた。
誰かが話しかけてきたら相手が喜ぶような返事をしなければ
というプレッシャーを感じて、心身ともにくたくたになっていたこともある。
そしてそれを実行に移してみようとするも無残に玉砕。
かえって相手を不愉快な気持ちにさせ、
自分も無理に相手に合わせる苦痛にへろへろ。
良かれと思ってやることなすこと全部裏目。

そうした時代を通り抜けて出た結論。
それが「適当」。これはいつも座右の銘として
自分の心にとめている言葉なのです。
ダーリンと結婚が決まったとき、ふたりの恩師である大学の教授に
「似合いのカップルだと思うよ。S(私の旧姓)はK(ダーリン)の話を
7割聞き流して残りの3割でまとめてうまくやっていくだろう」
と言われた。
この言葉がほめ言葉なのかどうかはいまだ不明なのですが
私は立派なほめ言葉だと思っている。

ほんとうに必要なもの、大切なことはほんの少ししかない。
どうして自分はこうなってしまうんだろう
・・・できないことはできないさ・・・
どうしてあの人はあんなふうなんだろう
・・・世の中にはいろんな人がいるさ・・・
どうしてあんなことしてしまったんだろう
・・・今度から気をつければいいさ・・・
どうしてできないんだろう
・・・できなくても別に困らないじゃん・・・

もしタイムマシンがあって、今の私が当時の私に会い、
これらの言葉をアドバイスしても
「なに言ってんだよ!そんな簡単な問題じゃないよっ」
と叱られるだろう、多分。

誤解がないように申し添えると、
「適当」は「いいかげん」とは違う。
適当、とは『適』&『当』であって、読んで字のごとく、
何が必要で何が必要でないのか、を慎重に考えなければならない。
実に高度な技術を要する行いなのだ。
ここまで分かればあとはその技術を磨くだけ。

これからもがんばろうっと。「適当」に。


コンタクトレンズ

 先日の土日は夫婦揃っての久しぶりの連休だった。
梅田に出てお茶をしようと何日も前から約束し、私は指折り数えて楽しみにしていた。
当日はもちろん昼前まで寝ていた。当然ダーリンも同じように寝ているだろうと思いきや・・・
目がさめるとダーリンはすでに隣にはいない。起き上がってリビングに行くと、
とっくの昔に服を着替えましたよ、
というような顔でパンを食べていた。
「どこ行くん!?」
私はあわてた。ダーリンのその格好はすでにもう今すぐにでも出かけますよ、という感じなのだ。
ちょっと近くのコンビニに牛乳を買いに行くのとは全く違う。
「ちょっと仕事が入ってさ」
ダーリンはかばんを手にしながら玄関へ。
「どこ行くん!?私の寝てるまにこっそりどこに行こう、思てんの?」
「仕事やて」
「うそつきぃぃ!今日はふたりでカフエーでほっこりする言うてたのに!!」
私は玄関先で思いきりだだをこねた。
30歳をとうに過ぎたということはわかっている。が、
こういうことをする自分が自分で結構好きだったりする。
私にこういう一面があるということを「発見」してくれたのはダーリンである。

ダーリンは仕事に行ったのではない。コンタクトレンズを買いに行ったのだ。
子供の頃から「剣道」をしてきたダーリンは、
今は地元と職場の剣道部に入って竹刀を振り回している。
今年は本格的な防具も買い、稽古にはげんでいるのだ。
剣道をする際にかぶる面。
めがねをかけていてはその面がかぶれない。
やむなくめがねを外して試合に臨むのですが、
剣道とは相手の一瞬の動きにも目を外せないので、目が悪いということは大変なハンディらしい。
私はダーリンの小さな目に「モノ」を入れるのがなんともかわいそうな気がして、
あまり賛成はしなかったけれど、本人がそうしたいのであれば仕方がない。

ダーリン帰宅。
「今からレンズを目からとりだすぞ」
よっこら、よっこら、よっこら・・・・
手に汗を握りつつ、見守った。やっと取れたレンズ。使い捨ての柔らかい物体。
「なあ、レンズ屋で初めて入れるとき、こわかったやろ」
「そりゃあもう」
「びびって後ろに倒れんかったか?」
「倒れんかったけどちょっと後ろに引いてもうたわ」
「やっぱりついていってあげたらよかったわ。。」
と、やさしいかわいい妻を演じつつ・・・
本心は「小心者」のダーリンの、そのびびり具合を見たかったと意地悪く思う妻なのだった。

次はレンズを入れる練習をする。何度やっても入らない。
見ているほうが疲れてきて、私は席を離れた。
「お!入ったで!」
「どれどれ?」
「黒目の縁をよう見てみ。うっすらレンズの形がわかるやろ」
「わからん・・・」
目をこらしてみても、生まれつき視力がいい私にはよくわからないのだった。

「剣道はな、相手の目を見ること。これが重要なことなんや」
コンタクトレンズをつけた目で対戦相手を見つめる・・・
「わたしのことも見てーな」
と、文句を言ってみても
「よし、カフェーに行くぞ。めがねでな」
と、かわされてしまった。

きな剣道に目を輝かせるダーリン。私も近々その雄姿を見にいこう。


水 族 館

私はよくダーリンとふたりで水族館や動物園に行く。
人の多い昼間を避けて夕方から出かけるので、水槽の前のベンチなどに
腰掛けながら、まるで魚になったかのようにふわふわとした気持ちで
ぼーっと物思いにふけるのです。
ダーリンのいつにもましてのトボケ顔を横目で見ながら、
「なぁなぁ、今、何考えてんの?」と聞くと、
「なーんも」
という答えが返ってくる。予想どおりの答えに
私は心底安心し、幸せな気分になる。

近場に「海遊館」という水族館があるので私たちはそこへ行くことが多い。
以前に会社で上司のそのまた上司(アメリカ人)が
久しぶりに日本に来るからということで
海遊館に案内しようという話になったことがある。
わざわざ日本に来るのになんでそんなとこに連れていくのだ
と、思ったものだが、意外なことにアメリカ人上司が
「海遊館」に行きたい、と自ら申し出たらしい。
この水族館は日本人だけでなく外国人にも人気スポットらしいのだ。

まず最初にお目見えするのは「カワウソ」君だ。
「日本の森」をイメージした一角に2頭のカワウソが忙しそうに
水にもぐったり岩に登ったりしている。
その横には様々な川魚が泳いでいる水槽があって、
「川魚ってうまいよな」
と、ふたりで盛り上がる。
「イワナの塩焼きとビール、夏はこれに限るよなあ」
「いやいや、オレはやっぱり刺身と日本酒や」
最初からこんな調子で、結局終わりまでこの調子。
釣りが好きなダーリンは
魚の釣り方や料理の仕方、いろんな味を知っている。
そういう解説を聞きながらの水族館見物もなかなか楽しい。

この「海遊館」には重大な欠陥がある。
私は出口付近でダーリンに囁いた。
「なぁ、あそこに立ってる案内のお姉さんに聞いてきてーな」
ダーリンはためらう。結局私の願いは聞いてもらえることなく
海遊館をあとにした。
私はお姉さんに聞いてきてほしかった。
『すみません。ここにはデンキウナギはいないんですか?』と。

デンキウナギ。
私の最も気になる存在。
海遊館にはいないみたいです。
神戸の須磨にある『海浜水族園』にはいたんだけどなあ。
デンキウナギ。英語で言うと electric eel。
なんて知的な名前だろう!
長身の身に白衣をまとい、細面の顔に銀ブチのメガネ等かけて
真剣なまなざしで試験管でも振っていそうな感じがする。

須磨の水族園ではデンキウナギがいて、『ショー』がある。
ピラニアのショーにもひけをとらない人気ぶりで
私はちょっとでも前で見ようとショーの始まる何分も前から前の席を陣取る。
小さい子供がいようとも席をゆずろうという気は全くない。
数年前に見た「彼」のショーは本当に素晴らしかった。
水面に落とされたドジョウにすばやく反応、高圧な電力をもって
一瞬にしてドジョウを感電させ食べてしまった。
「このようにデンキウナギは強力な電気を放ち、獲物をとらえます」
コンパニオンのお姉さんもショーの成功に誇らしげだ。
「デンキウナギは密林の川に生息していて、どんな暗闇でも
カラダで反応できる性質をもっています。一応目はありますが、
川の底の深いところにいるため
長年の間に目が退化し、今ではぽつんと『目』のなごりがあるだけです」
私はショーの後、水槽に近寄り、彼の『目』を確認した。
大きくて太い太い体の端の方にある小さな小さな丸い突起。
『長年の間に目が退化・・・』
私は彼が暮らしてきた暗闇の、その暗さとその時間の長さを想像し、
目もくらむような気分になった。
去年も同じところで同じショーを拝見したけれど、
「彼」はお疲れだったのか、それともあの時の「彼」とは別ウナギだったのか
ドジョウのしびれさせ方もイマイチで、やっとのことでドジョウを
しびれさせたけれど、なかなか食べることができなかった。
私はショーが終わってからも水槽を離れがたく、
「ほら、ここにいるやん、ここ、ここ!」と
水槽をバンバン叩いた。
ダーリンはすっかり呆れていたけれど、
同じことをしていた大人が数人いた。
デンキウナギはやっぱり人気者なのだった。

私たち夫婦は水族館での一日を終えると、食事に行く。
行先は和風居酒屋。
やっぱり魚を見たあとは、うまい酒が飲みたくなるのは
どうしても避けられない心理なのであった。


Greeting

梅雨明け間近!!みなさまいかがお過ごしでしょうか。

計画から約半年。ついに自分のホームページを持つに至りました。
超メカオンチの私がこんなことをするとは、自分でも夢にも思いませんでした。
いろんな方々にご協力いただき、
特に高校時代からの「戦友」miyanをはじめ(ダンナさまにもよろしくデス)、
STARDUSTさまにもメールでお世話になりました。
(上記のおふたりも素敵なHPをお持ちですので「LINK」のページをご参考に)

特にこれといった目的はないのですが、
書くことが好きで、他の人の掲示板をお借りして書くことも楽しいけれど、
自分のだったら自分の責任で
もっともっと好きなことが自由に書けるのではないかと思っていたところに
身近な友達が(miyan、あなたのことですワ)
HPを立ち上げたのを知り、むむむ、これは私もひとつ、やってみるか、と
思ってしまったのが行動に移したきっかけ。
自分が素晴らしいと思ったことを他の人にも伝えられたら、と
そんなことを考えながら作りました。
がんばって更新もしてまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。
ご意見・ご感想もメールしていただければうれしいです。


トップページにもちらっと書きましたがコンテンツの紹介をここでも少し。

BOOK
本を読む習慣がついたのは3年くらい前。夜勤をするようになってから。
仕事明けに一杯やりたいと思っても開いてる店はパン屋しかないし、
家に帰ってもテレビはワイドショーしかやってないし、
だあれも遊んでくれないし、
そうなると本を読むしかすることがなかったのですね・・・
「読書が趣味」って結構さみしいことですね。


MUSIC
高校時代は部活で吹奏楽を、大学時代は地元の吹奏楽団に入って、
テナーサックスなるものを吹いたりしておりました。
クラシックが好きですね。特にピアノ。
ピアニストの近藤嘉宏さまのファンクラブ会員やってます。
というわけで、私が出かけるコンサートといえば99%が近藤さんのです。
他の人のも行きたいのはヤマヤマですが、音楽ってお金がかかるんですもの・・・
というわけで、このぺ―ジはかなり偏っていて、なおかつ
近藤さんを熱烈に愛する自分に、自分で陶酔している私のアリサマを
うかがい知ることができるでしょう。


TRAVEL
旅行記です。
大自然満喫型旅行が好きです。一番の趣味は登山ですから。
最近はなかなか行けないですけど。
山はいいですよー。しんどいだけじゃないですよー。
ということをわかってほしくて書いてます。
「生きててよかった」と登るたびに感じます。
山なんか登って、そんなしんどいことよくやるね、とよく言われますが、
私は逆に、疲れてくると山に行きたくなるのです。
「生きててよかった」って感じるために。元気になるために。
健康な自分、旅行に行けるだけの経済的時間的精神的ゆとりがあり、
笑顔で送り出してくれる夫や、心配してくれる両親が
いてくれることに感謝。

ESSAY
これが一番したかったことかも。
思いつくままに、脈絡なく、自由に。
よろしければおつきあいください。

LINK
お世話になってる方々のHPのリンクです。
徐々に増やしていきたいと思っています。リンクご希望の方はメールください。
ついでに私のもリンクしてーーー。


BBS
設置するのにだいぶ迷ったんです。
ヘンな人に荒らされたらヤだな、とか誰も来てくれなかったらみじめだな、
とかいろいろ考えて。
設置の決心したのは・・・私もあなたの「affen liebe」が聞きたいから。
私にいろんな世界を教えてください。

以上、ごあいさつ兼ご紹介ということで。