過去のもの

佐野洋子
「100万回生きたねこ」
講談社¥1400
おすすめ度☆☆☆☆

 全国学校図書館協議会選定図書、中央児童福祉審議会推薦図書。
 これは子供向けに描かれた絵本です。

「5分で読めますから読んでみてください。で、感想を聞かせてください」
 先月、会社のバイトの女の子に貸してもらった本です。
 確かに5分もあれば読めるんですが、一日借りることにしました。子供向けの絵本にしては内容が深くて重かったので、ぱっと感想がまとめられなかったのです。

 100万年も しなない ねこが いました。
 100万回も しんで、100万回も 生きたのです。
 りっぱな とらねこでした。
 100万人の 人が、そのねこを かわいがり、100万人の 人が、そのねこが しんだとき なきました。
 ねこは、1回も なきませんでした。***(P2)

 ねこは生き返るたびにいろんな人に飼われました。王様や船乗りや手品師やどろぼうやひとり暮らしのおばあさんやちいさな女の子の飼い猫だったのです。
 が、矢に当たって死んだり、のこぎりでまっぷたつに切られて死んだり、女の子のおぶいひもが首にまきついて死んだりします。
 そのたびに飼い主はねこを抱きしめて泣くのですが、

 ねこは しぬのなんか へいきだったのです。***(P14)

 ねこ好きの私にはねこが死ぬ話はとってもつらいのです。しかもどれもこれも結構残酷な死に方・・・。
 さまざまに死んだあとに、「ねこはしぬのなんかへいきだったのです」
 つまりねこは100万年ものあいだ、自分を愛してくれる飼い主のことも自分のことですらどうでもよかったということ?
 衝撃的だ。キツい・・・。  

 そして次にねこはのらねことして生き返り、誰のねこでもなく、自由にのびのび生きます。そしてねこは自分のことが大好きになります。
 さまざまなメスねこがお嫁さんになりたがります。魚やまたたびをプレゼントしてくれるメスも出てきます。ねこはモテモテです。いつの時でもねこは愛されて生きています。
 ところがねこは相変わらずすさみきっているんです。メスねこたちを適当にあしらいます。というのも、

 ねこは、だれよりも 自分が すきだったのです。***(P18)

 衝撃的だ。キツい・・・これ、ほんまに子供に読ませてええんか?って感じである。

 モテモテのねこにも転機が訪れます。たった1匹、自分に見向きもしない白いねこが現れます。
 ねこは100万回も生きたことを白いねこに自慢しますが、白いねこは気にもとめません。
 「おれは100万回も生きた」「君はまだ1回も生き終わっていないんだろ」と、『自分大好き』なねこは白いねこに自慢し続けるのでした。でも白いねこはずっと無関心なまま。
 そんな白いねこにねこは恋をし、「100万回も・・・」と言うのをやめ、

 「そばにいて いいかい。」
 と、白いねこに たずねました。
 白いねこは、
 「ええ。」
 と いいました。
 ねこは、白いねこの そばに、いつまでも いました。***(P22) 

 
 白いねこはやがて子ねこをたくさん生み、成長した子ねこたちは独立してどこかに行ってしまいます。そして2匹は年をとり・・・

 ねこは、白いねこと いっしょに、いつまでも 生きていたいと 思いました。***(P26) 

 やがて白いねこは年老いて先立ちます。ねこは白いねこの死を悲しみ、初めてなきました。夜になっても朝になっても泣き、100万回も泣き続けたのでした。
 そしてそのあと白いねこのとなりで動かなくなります。

 100万回も生きたねこ 100万年も誰かから愛されたのになんとも思っていなかったねこ、死ぬのなんかへいきだったねこ。
 白いねこのそばで100万1回目の死を迎えたねこ。次はどんなねことして生き返るのだろうか。またのらねこか、それとも人間の飼い猫か。

 白いねこを抱いて号泣するねこの絵。ページをめくると、

 ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。***(P30)

 本は翌日に貸主さんに返しました。
「どうでした?」
「すごく悲しかった」
「悲しかったですか!?そういう感想は初めて聞いたかも」
 どうやら貸主さんはいろんな人にこれを貸して感想を聞いてまわっているらしい。でもどの人も違う感想を述べるそうです。

 どういうところが悲しいかというと、「愛する」ということは自分の命とひきかえにしなければならないくらい重い意味を持っていること、そして「誰かを愛する人生」というのは一度きりしかできないということをこの本は示してるんだろーな、と思えたからです。それはしあわせなことには違いないんですけど・・・なんかとってもせつなくて悲しく思えた私でした。

 うすっぺらく100万年生きるより、たった1回の人生を大切に、誰かを愛し、思いやり、一度しかない命を大切にしなさい。
 
 子供がこの本からこれらのことを想像し、読み取るのは・・・ちと難しくないかい?
 子供が大きくなって、自分の手から離れていく年頃になってからプレゼントするのがいいかもしれない。

 とっても奥の深い絵本でした。
 最初は借りて読んだ私ですが、1週間後に買いました(笑)。



重松 清
「流星ワゴン」
講談社文庫¥695
おすすめ度☆☆☆☆

 今夜、死んでしまいたい。
 もしもあなたがそう思っているなら、あなたの住んでいる街の、最終電車が出たあとの駅前にたたずんでみるといい。暗がりのなかに、赤ワインのような色をした古い型のオデッセイが停まっているのを見つけたら、しばらく待っていてほしい。
 橋本さん親子があなたのことを気に入れば・・・それはどうやら健太くんに選択権があるようなのだが、車は静かに動き出して、あなたの前で停まるだろう(P9)

 もうすべてに疲れた・・・今、死んでもいいや。
 そう思うことくらい、真面目に生きてりゃ誰だって一度や二度あるんじゃないかな。私も昔、ほんの一時期ですがそう思っていたことがあります。
 でも赤ワイン色のオデッセイは私のところには来なかったです。子供に好かれるタイプでなかったのがいけなかったのかなあ。
 いいえ、きっと「死んでもいいや」と思う気持ちが足りなかったんでしょうな。

 橋本さん親子というのはすでに死んじゃってる親子。5年前の交通事故で即死した親子です。
 橋本さんという人は健太くんの本当のお父さんではない。結婚相手の女性の連れ子である。自分になかなかなつかない健太くんの気を引こうと、一生懸命に車の免許を取り、意気揚揚と初めてのドライブに家族で出かけ、事故であの世へ。お母さんだけが生き残ってしまった。
 今も親子は成仏することなく、駅前で車を停めては「死にたがっている」人を見つけ、同乗させてドライブを続けているのであります。
 怖ーい。
 これはホラー小説?いえいえ。これは全国のお父さん必読ともいえる、感動の親子もの、あらためて「親子とは何か」を考えさせられる物語です。

 母親・妻の話はほとんど出てきません。あえて登場させない方法で、父親と息子の存在を際立たせているようです。
 思えば母にとって子というのは直接自分の体から出てくるものだから、血のつながりは明白で、親子であるということに疑いの余地はないですが、父と子というのは一種独特の信頼関係を持っていなければ成り立たない関係ですよね。最近はDNA鑑定でもすれば「確かにオレの子だ」と調べられるけど、そこまでする人はほとんどいないでしょう。

 物語は橋本さん親子、そして主人公である永田一雄、その父と息子の合計5人が登場する。
 一雄と父も随分昔から不仲、そして息子の広樹ともうまくいっていない。中学受験に失敗した広樹は登校拒否で家に閉じこもったまま、妻は外出ばかりで朝まで帰らないこともしばしば。さらに一雄はリストラに。
 もう死んでもいいや、と思っている所以であります。

 橋本さん親子のオデッセイに乗ると、「人生の岐路だった時と場所」に連れて行ってくれます。一雄はそのたびに「これのどこが岐路だったんだ?」と不思議に思うことの連続なのですが、そこでいろんなことを知るのです。
 妻がたびたび外出するのはテレクラで知り合った男たちとホテルに行くためだったこと、息子の受験のお守りを買いにいったついでに男と会っていたことも知ってしまう。息子が長い間学校でいじめにあっていて、ずっと前から親を憎んでいたことも・・・家では明るく素直だった息子が実は陰では親を憎んでいたことを。
 そして途中からは一雄の父が登場します。病床に臥せり、死にかかっている父。憎んで憎んで顔も見たくない父が、自分と同じ38歳の頃の姿でオデッセイに乗り込んできます。そこで一雄と父は奇妙な友情関係を結んでいくのです。

 38歳、秋。
 ある日、僕と同い歳の父親に出逢った。
 僕らは、友達になれるだろうか?


 本の帯に書いてある言葉です。映画化も決定したらしい。

 私は男ではないし、子供もいないから、「父と子の関係」とか言われても全然ピンと来ないけれど、親子の関係を超えた、個人どうしの物語として、この本はとても面白く読めました。
 私は昔から「家族」というものに対して憧れはなく、結婚したいとか子供がほしいとかほとんど考えない人間でした。もちろん親には感謝しているけれど、正直なところ、人間として尊敬はしていない。父親なんて特に。
 でも特に不幸な家に生まれ育ったわけではなく、ごく普通の家庭だったと思う。けれど終始退屈で不自由だった、という印象が今となっても拭いきれない。なのでもう一度子供時代を生きなおしたいかと言われれば絶対にNOである。
 学校もつまらなかった、勉強もしんどかった、運動会で毎回かっこ悪いところを見られるのも苦痛だった、やりたいことがあってもお金はないし、「子供だから」という弱い立場で狭い世界にしか生きられない不自由さは身にしみて感じていたし、子供独特の未熟な人間関係にも子供心ながらウンザリしていた!
「誰々ちゃんとは遊ばないで」「あの子と私とどっちが好きなの?」「私とお揃いの物を買おう」「みんな持っているのにあっこちゃんはどうして持ってないの?」「そんなことするんだったら今度から遊んであげないよ」
 女の子の世界はしがらみが多くて本当にうっとうしいことこのうえない・・・。子供時代は学校が全てであるため、今のように自分にプラスになると思える・一緒にいて楽しい・尊敬できるような良い友達だけを選べないのが最大の難点。

 が、最近になってからそういうことのひとつひとつが決して無駄なことではなかったことを知った。気づくのが遅すぎだけど。
 私の父親は家庭には不向きであり、親としては失格・落第者であるが、友達にはなれたかもしれない。今でも父にはイライラさせられ、私にとって非常にストレスの溜まる人物であり、「あんなふうにはならないでおこう」と心に誓ってみたりするが、思い起こしてみればみるほど父と私は性質・行動がそっくりだ。きっとそっくりゆえにイライラするんだろうと思う。
 しかし子供時代には常にイライラしていた両親が今となっては穏やかで、彼らも忙しい仕事と子育ての両立のなかでそんな態度になっていたことはじゅうぶんに理解でき、子供にとっては親が全てであるが、私の目から見えていた親の姿というのは本当はほんの一部分にしか過ぎなかったと思える。

 主人公の一雄も同い歳の父と出会って、改めて自分の子供時代を振り返ることができた。純真無垢で奔放な健太くんと楽しそうに遊ぶ父。自分も健太くんのように細かいことにとらわれない奔放な子供だったら父も楽しかっただろうに。自分が子供の頃、いつも言葉が荒くて厳しかった父に育てられ寂しかったように、すぐにそっぽを向いて黙り込んでしまう子供と過ごした父の寂しさも理解できるようになる。

 人生の岐路に連れて行ってくれる赤ワイン色のオデッセイ。
 自分がもしこれに乗れることになったら、どこへ連れて行かれるのだろうか。きっと一雄のように「身に覚えのない時と場所」に連れて行かれるのだろうな。
 だって今まで「あれが岐路だった。あの時ああしていれば」と後悔するようなことがひとつもないので。ま、岐路というかなんというか、「もっとお金持ちな家庭に生まれるべきだった」って感じでしょうか。
 みんなみたいに塾に通いたかった・・・大学受験の時に初めて塾(予備校)というものに通いましたが、そこでは目の覚めるような受験テクニックを学びました。自己流の稚拙&苦しいだけの努力の半分で、偏差値が10も20も簡単に上がるのにはびっくりしました。
 いろんな習い事もしてみたかったし、東京の大学も受験してみたかったし、留学もしてみたかった。そこでどんな苦労をしたって、親の金銭面バックアップがあるということは何よりも幸せなことだと思うし、プレッシャーもあるのでしょうが、それは贅沢な苦しみじゃないのかな、と。貧乏な家庭に育った者としてはそんなふうに考えてしまいます。
 でも大学に行かせてもらえたからよかったです。奨学金を借りながら、学費を毎回延納しましたがね。。。
 卒業式の日、親に頭を下げました。「大学まで出させていただいてありがとうございました。いろんな経験ができました」と。大して勉強もしなかったけど、今の自分の人生の中心と言うか、人格の基本は大学時代にできあがったような気がするので。
 あー・・・でも子供の頃から塾に行ってれば・・・もっといい大学に行けたかもしれんなぁ、なーんて。愚痴はキリがないのでこのへんでやめましょう。

 自分の人生は自分で切り開く!私は私の人生の主人である!
 そう思っていたけれど、本当は自分で気づかなかった大事なことが無数にあって、今もそれに気づかないまま生きているのではないかと思った。
 この物語のつらいところは、岐路に戻っても現実(未来)は変えられない、というところ。
 受験に失敗したことが原因でやがて非行に走って行く息子に「受験をやめたらどうか」と説得を勧めるも、どうしても「受験する、絶対に受かるから」と言い張る息子。

 「信じてよ」
 広樹は言った。「せっかく夕方立ち直ったんだからさ、マジ、信じてよ、息子のパワーを」とガッツポーズをつくった。
 「・・・・・・じゃあ、お父さんのパワーも分けてやるよ」
 席を立ち、広樹の頭を少し乱暴に撫でてやってから、ソファーに戻った。「いまの、気を送ったの?」と笑う広樹に背を向けて座る。正面から顔を見るのがつらい。
 「知る」と「信じる」は両立しないんだと気づいた。知ってしまうと、信じることはできない。子どもが「信じてよ」と言う未来を信じてやれないのは、子どもについてなにも知らないことよりも、ずっと悲しくて、悔しい。(P364〜365)


 現実を変えられない苛立ちに、このオデッセイに乗る意味があるのか?と苦悩する一雄でありますが、

 「負けてもいいんだ。ずうっと勝ちっぱなしの奴なんて、世界中どこにもいないんだから。みんな、勝ったり負けたりを繰り返してるんだ」 
 受験の結果がわかったときにも、いまの言葉を思いだしてほしい。落ち込んで、自分の部屋に閉じこもって、ヘッドホンで手当たり次第にCDを聴く、そのときに、広樹は僕の言葉を思いだしてくれるだろうか。僕がやり直したこの現実は、明日からの広樹の記憶に、どこまで残ってくれるのだろう。むだかもしれない。それでも、伝えたい。(P362)


 悲劇の未来に少しでもうまく対応できるようにメモを残したり、ビデオにまで残す一雄・・・オデッセイを降りたあと、未来はどうなるのか?いやいやいや、それ以前に一雄はオデッセイから降りられずに橋本さん親子とともにあの世へ行ってしまうのかもしれない。
 どうなるの?どうなっていくの?
 と、あっという間に読めてしまった小説だった。
 未来に向けてひとりで苦悩する父・一雄の姿が痛々しく哀しいけれど、ある意味とても爽やかで、「がんばれ!」と声援を送りつつ読めました。なので最後はハッピーエンドとは言えなくとも、なんだか爽快な気分になりました。
 こういう余韻を残す小説もいいですね。

**余談ですが、私の登山仲間のS氏の車、赤ワイン色のオデッセイなんですよね(笑)**
 


黒木 瞳
「夫の浮わ気」
幻冬舎文庫¥457+税
おすすめ度☆☆

 バリ旅行に行く直前に空港の本屋で購入。
 ビーチで読書などいいじゃない?こういう時は難しい本はではなく軽めのエッセイなどが読みたい。
 で、黒木瞳のこれ。へー、この人、本も書くのかぁ。
 まぁ、この人はすごいよね。友達と話していても時々話題にのぼります。
「子供産んでもあんなにキレイなのはなぜだ?罪だよなー」と。

 このエッセイは子供が出来る前に書かれたもので、夫婦ふたりだけの生活の中で「夫に女の影が見えた」瞬間についてその解説と、妻である著者の嫉妬心・猜疑心などが細かく書かれてました。
 
 たとえば夫が車を新調した。ナンバーは93-15だった。
 9,3,1,5・・・ク,ミ,イ,コと読める。
 夫が結婚前につきあっていた女の名前はクミコ。
「そんなにクミコに乗りたいの!?」
 とナンバーを変えるように夫に命令する妻。

 夜中に「明日の朝、ハムトーストが食べたい」とつぶやいた夫。
 夫はいつも朝はつらくて食べられない体質なのに、なぜ急に、しかも家では食べたことのないハムトーストだなんて!
 どこか他の家で「朝食にハムトースト」しているに違いない!

 と、そんなようないくつもの「妄想」で構成されるエッセイです。
 でもちっとも暗くなく、悲壮感もなく、そんな妄想をすること自体を完全に楽しんでいます、彼女は。すごく可愛い女性なんだなー、黒木瞳って。
 そういうとこがアタシと似ている・・・な〜んてネ!
 私も夫にヤキモチを妬く。
 時々携帯のメールをチェックし、女の人から入っていると、
「この人、アンタに気があるわ。どーすんの?『今夜、一緒にいてください』なんて言われたら」
「いやぁ・・・このコ、おデブやからなぁ。遠慮しとくわ」
 などと返事が返ってくる。
 そして私は勝ち誇ったような気分になる。

 ヤな感じ???

 不倫の純愛には、人は感動します。でも、夫婦の純愛に、人は感動しません。理屈として、考えるまでもなく、夫婦は愛し合っていて当然のことだと人は思っているからです。
 でも私は思います。
 当然のことだからこそ、死語になりつつある努力が夫婦には必要なのです。夫婦の絆は、努力という行為で強くなるのです。努力は行為なのです。走る叫ぶ食べる、などと同じように、思慮や決心をへて意識的に行われる動作なのです。努力は無意識ではないのです。ましてや、壁に飾られた木彫の『努力』のように、眺めるものでもないのです。
 夫婦の純愛は当たり前すぎて、犬も食べません。それを言うなら夫婦喧嘩ですが。夫婦の純愛は聞くも甘ったるくて、夏の終わりの蟻だって食べません。
 でも、意識をもって行う努力が必要な夫婦だからこそ、二人の間に生まれた純愛が一番美しいのではないかと私は思うのです。
 それに、夫婦の純愛はとても普通です。でも普通であるというのも努力同様、大変なことです。きらびやかなスポットライトなどどこにもないのですから。誰も褒めてはくれないのですから。
 だから、夫婦が普通に愛し合い、夫のために生まれてきたのだと普通に思えることが、私には素敵に思えるのです。
 普通であることはカッコイイのです。襟を正してすがすがしい里山を眺めるように。私は、普通であることを恥ずかしいとは思いません。(P195〜197)
 
 縁あって結婚してしまった以上、マリッジライフがリゾートライフのようにさわやかに新鮮に過ごせたらいいなと思う(P204)

 私は、世界一、夫が好きです。
 世界一大事です。世界一大切です。世界一そばにいて欲しい人です。
 世界一好きだから、夫に浮気をされては困ります。(P186)
 

 リゾートライフのようなマリッジライフをエンジョイするにはやっぱり努力が必要だと思います。
 私にとって夫との毎日はリゾートライフのようです。どんな努力をしているのかと聞かれたら困りますが・・・しいていえば「自分が自分らしく楽しく過ごす」「夫の前でイライラしないように、ストレスは他で発散する」「いつでも夫の味方である、ということを示す」くらいかな。
 美しい女優さんと自分を一緒にひっくるめて考えるのはちょっと気がひけますが、私も黒木瞳同様、ご飯は作らないし、出張だろうが旅行だろうが夫の着替えや身の回り用品を用意したりはしないし、夫が自分の給料を何に使おうが自由だと思っている。でも夫が連日の午前様でくたくたになってつらそうにしていたら「仕事は人生の一部だから頑張り。でも本当につらくなったらいつでも言い。一緒に考えよう。私がアンタを守るから。いつでも味方だから」
 と言う。そのためには経済的に自立していることが必要だから、私は家で夫の帰りを待つことよりも仕事を優先する。それも愛情表現のうちだと思うからです。だから夫婦の関係は「いたわりあう戦士」のようで、「今日はどんなことがあった?」「最近どう?」などと会話も尽きることがなく、退屈だ、何を話していいかわからない、なんて感じたことは一度もない。まるでリゾートライフのように新鮮なのです。
 
 それでも夫はときどき「家に帰ったらフロができていて、掃除もできていて、あったかいご飯ができてたらええなぁ〜」と言う。
 私も時々普通の妻らしく、夫に「お茶淹れてあげる」などと言い、夫がお茶を飲みながら「ん、うまい」と言うのを見て、「わーい、お嫁さんゴッコや」などと心底楽しいと思うことがある。ちなみにこの本にもこれと全く同じシーンが出てきます。

 要するに、専業主婦であろうと兼業であろうと、お互いが一番心地よい距離を保っていることが大切なんですよね。
 その距離をいつまでも保ち続けること、それがいつまでも新鮮でいられる秘訣だし、そのための努力をしていくことが「普通の」夫婦のあり方なんだろうな、と思いを新たにした次第。

辻 仁成
「太陽待ち」
文春文庫¥667
おすすめ度☆☆☆☆☆

 「白仏」に次ぐ名作だと思う。構成力、読ませる技術力、登場人物のわずかな心の揺れまでも逃さず表現、彼らが生きたそれぞれの時代についての深い洞察・・・すべてにおいて「うーん、すごい」と唸らせる力があった。さすが、辻仁成!

 構成は少し複雑で、小説の基本「一人称で語る」形式ではなく、
 四郎(映画の仕事に携わる)
 四郎の兄・二郎(麻薬密売にかかわり、拳銃で撃たれて植物状態になっている)
 藤沢(二郎のヤクザ仲間で兄貴分のような存在)
 井上(四郎が携わる映画の監督)
 クレーグ・ブシャード(アメリカ人。原爆投下前の広島で捕虜になる)
 
 この小説は40の章から成っていて、章ごとに以上の5人がかわるがわる自分の思いを語る。生きた時代も立場も違う5人であるものの、40章を読んでみるとすべてがしっくりとつながり(これっぽっちの矛盾もなく!違和感もなく!!非常に綿密!!!)ひとつの壮大なドラマができあがっている。
 時代、立場も違う5人の話がどうやってつながるのか?ここで辻のワザが光っている。
 植物状態になっている二郎がそれぞれの時代、人々の橋渡し役を担っているのだ。

 兄を日常より失ってから、僕は兄二郎のことばかりを考えすぎたせいか、世界という入れ物の限界を感じて仕方がなかった。僕がインターネットを利用しなくなった理由の一つには、世界があまりに簡単に手に入る気がしたからだった。否、手に入れた気になりすぎてしまうのがつまらなかった。
 実際には何一つ手に触れているわけでもないし、見ているわけでもないのに、世界や社会の隅々を感じているかのような錯覚が起きてしまうことに、みんなが騒ぐほどのすばらしさを感じず、むしろ興ざめしてしまうのだった。あらゆる情報が瞬時にわかる便利さは認めるが、そのせいで、安易にたどり着くことができないことの美徳が失われてしまった。
 昏睡状態の兄を見つめたり、感じたりすることが僕にとっては真実の世界の入口であった。生きているとも死んでいるとも言いがたい兄の肉体を見つめ、精神を感じようとする時、僕はそこに世界の確かな肌触りを覚えた。
 昏睡状態の兄は本物だろうか。それとも偽物か。兄の肉体が保管されているこの世界が偽物なのではなかろうか。(P36)


 今現在私たちが生きているこの社会、世界は果たして本物か偽物か。
 そんなことは考えても答えが出るわけでもないけれど。私たちが目にし、体験している現実は単なる「現象」であり、それは氷山の一角にすぎない。水面下に沈んでいる「目に見えない現実(真実)」を掘り出していくように物語は進む。植物状態の二郎がいろんな時代を行き来し、俯瞰するという形で。
 1937年南京、1945年広島、そして現在。二郎が見たものは・・・?
 敵国の国策映画に借り出された中国人少女の悲劇であり、原爆の投下計画を全て知りつつ広島で捕虜となってしまった米兵の恐怖と苦悩であり、二郎を忘れられず不眠症に陥る元彼女の悲しみと新たな恋であり・・・。
 運命に逆らうことはできない。それぞれの時代に生きる人々がそれぞれの時代に翻弄されつつ・絶望を味わいつつ、それでも彼らは生きることをあきらめない。

 厚き雲に覆われし空。それでも彼らはいつか必ず出てくるであろう太陽を待ちながら、生き抜く。
 彼らそれぞれの心の中に射した太陽の光とは?

 『太陽待ち』
 心に響く大作だった。
 


テリー・ケイ
「白い犬とワルツを」
新潮文庫¥552
おすすめ度☆☆☆

 ほんわかした夫婦愛を描いたものってあまり読んだことない。けどダンナが買ってきて読んでいたので借りてみた。
 前半はとても退屈でなかなか読む気になれなかったけれど、白い犬が現れたころからだんだんおもしろくなってきた。
 
 永年連れ添った妻・コウラを突然亡くしたサムは、娘たちが心配しようと余生をひとりで生きていくことを選んだ。なかなか骨のある老人である。サムは毎日日記をつけている。

 きょう妻が死んだ。結婚生活五十七年、幸せだった。

 こんなに簡単な日記ははじめてだった。
 この日は忘れない。牧師は忘れても、俺が忘れるものか。(P17)

 ある日突然、白い犬が現れた。その犬はサムの前にしか姿を現さない。どこからともなく現れて吠えもしない。娘たちは父親が孤独のあまり気が狂ったと思い込む。
 ガンコに1人暮らしを続けるサムはとうとう倒れてしまった。彼が家で気を失っている間、白い犬は初めて娘たちの前に姿を現した。家のカギは全部閉めていたはず。犬はどうやって外へ出ていったのだろう。それをきっかけに娘や孫たちにも白い犬が見えるようになる。

 今日、マディソンA&M同窓会幹事から二度目の案内状が届いた。マディソンに住んでいたのはずいぶん昔のことだ。すっかり変わってしまったことだろう。(中略)
 マディソンはわが生涯でも最良の日々だった。妻に会ったのも、結婚したのも、マディソンだ。この前マディソンを訪れたときはコウラと一緒で、昔の友達にも何人か会った。年を取ってからのふたりの人生で、格別に楽しい数日間だった。同窓会には行こうと思う。わたしの白い犬だけを連れて、ひとりで行く・・・(P163,164)

 サムは白い犬と車に乗って旅に出た。同窓会の会場に入る前に妻との思い出の場所に立ち寄っているうちに、会は終わってしまっていた。誰もいない会場にひとりたたずむサムのそばに昔の友達がやってきた。
 もう年をとってしまったふたり。「多分、会うのはこれが最後ね」と友がつぶやいた。
 こういうもの悲しい感じを、いずれは私も味わうことになるのだろうなぁ・・・。さみしいなぁ。

 数年後、サムは癌におかされる。死の直前に彼は息子に語る。「あれはお前たちのママだったんだ。俺を見守るために戻ってきてくれてたんだ」と。
 白い犬はもうサムのそばにはいなかった。子供たちが家でサムの面倒を見るようになった日、犬は姿を消した。
 そう言って彼はにっこり微笑む。「俺はもうすぐあれに会える。俺の犬にも会うぞ」
「そうだね」
「毎晩毎晩、白い犬はお前たちのママだった」
「ママだったの」
 彼はうなずく。手を伸ばして、息子の手をしっかり握る。息子には父親の指が骨の形までわかる。
「あれはな、お前たちのママだったんだ。毎晩、ベッドで俺のそばに眠ってくれた。若い娘だったころの姿でな。かわいかったぞ、おい。かわいい娘だった」(P266)


 いいなぁ・・・。うちのダンナも臨終の際にはこんなこと考えてくれるだろーか。若い頃の私の姿を思い出してくれるだろーか・・・。
 私はどうだろう。臨終の間際にダンナの若い頃を思い出し「かわいかったなあ」と思い出すだろうか?
 ヤダ!!!アタシはダンナに見取られて死にたいッ!あとに残されるなぞ、まっぴらごめん。

 読み終わったあとにあれこれ考え涙してしまう、そんな作品だった。

南木佳士
「海へ」
文春文庫¥495
おすすめ度☆☆☆

 読書生活復活!なかなか面白い本に出会えないけれど、これはなかなかよかった。
 著者は南木佳士(なぎけいし)。聞いたことない作家だけど、彼は芥川賞作家だそうだ。本職は医者であり、1956年には難民医療日本チームに加わり、タイ・カンボジア国境に赴く。現在は長野県の総合病院に勤務。そのかたわらで地道に作家活動をしているらしい。


 医者として多くの死に立ち会ってきた著者は、やがて精神を病んでしまう。そのせいで作家としての自分をも見失い、原稿に向かっても一文字も書けない、あるいは陰鬱な文章しか書けなくなってしまう。
 それを読んだ旧友が彼に電話をしてくる。旧友は医学生時代の同窓で、今は親が残した小さな診療所を継いでいた。場所は海のすぐそば。
 療養がてらこっちに来てみないか、と友に誘われ、著者は友が暮らす海へ向かった。一人で電車に乗るのは10年ぶり。

 旧友は温かく出迎えてくれた。高校生の娘も人懐っこくて明るい。
 ある日著者は昼間の時間に釣りをしている娘に出会う。時々学校をサボって釣りをしているんです、釣ったイワシをひとりで焼いて海を見ながら食べるんです、という娘に連れられ、海水を鍋で沸かして塩を作り、それにイワシを浸して焼き、パンにはさんで食べる。

 海だなあ。

 娘は息をつく間もないほど著者にいろんな話を聞かせる。楽しい時間が流れる。あぁ女の子はいいなぁと、息子2人の父である著者は思うが、それにしてもこの娘のおしゃべりさには少々辟易。

 明るい娘との交流、旧友の優しさ、美しい景色。
 そんな中にいても著者は癒されきれない自分を自覚する。朝市の老婆の顔に今は亡き祖母の顔を見、今まで仕事で立ち会ってきた数々の死について思いをはせる。

 大自然を目の前にすること=自分と向き合うこと? こういう方式を「公式」にしてしまうのは無理があるのかもしれないけど、こういう気持ちはなんとなくわかる。物語は淡々と静かに、ただそこにあるものだけを描写しながら進む。劇的なものはない。
 5日間の休暇をここで過ごした著者は、帰る間際になってから、この旧友がおかれた境遇を知る。
 彼には精神を病んでひきこもったままの妻がおり、彼の孤独は行き場を失い、娘がおしゃべりなのは、こんな家庭の「密度の薄さ」を埋めるための必死の努力だった・・・・・・。
「この家はもう、壊れかけてる」
 友の言葉。

 休暇を終えた著者は海をあとにする。友が運転する車の窓から見えたのは、霞む空と溶け合いながら雄大な弧を描く水平線。

 まったくの海だ。(P204)
 
 この一文をもって、この小説は終わる。
 どこまで行っても癒されきれない自分、どこへ行っても癒されない人々の心。

 まったくの海だ。
 マッタクノウミダ。
 たった8文字に込められた想い。短くて静かなのにこんなに重い。

 上手いなぁ・・・・・・。
 


酒井順子
「負け犬の遠吠え」
講談社¥1400
おすすめ度☆☆☆

 ある日、何気に本屋に立ち寄ったら、

 『30過ぎて、未婚・子ナシは女の負け犬』
 
 と、デカデカと書いた紙が貼ってあるではないか。このフレーズに衝撃を受けた人は少なくないだろう。私も大変なショックを受けたひとり。

 あ、アタシって「負け犬」だったのね・・・・・・。

 その時は本を手にとることもなく、すごすご帰った。書かれていることは大体予測できた。少子化問題の深刻化。それをいいことにああやって子ナシ女を堂々と非難しても許される時代になったのだ、言論・出版の自由もココまで来たか、と。
 でもあとから聞くと、この本の著者も「負け犬」らしいのだ。それなら話は別、ちょっと立ち読みしてみよう、ということで再び本屋へ。
 1400円かぁ・・・高いなあ・・・買ってまで読むべきか否か。迷うこと十数分。その間に『負け犬』と思しき女性たちが入れ替わり立ち代わりこの本を手にとって考え込んでいた。そこはまさに「負け犬の社会問題化」の縮図のようであった。
 立ち読み後15分ほどで「買おう」と決めた。
 面白くってさ、顔がにやけてくるんだもん。家でえびせんでも食いながら読もぉっと!!私はレジで1400円を支払った。

 まず、負け犬とはどういう人たちのことを指すのか。
 狭義には、未婚、子ナシ、30代以上の女性のこと。この中で最も重要視されるのは『現在、結婚していない』ということなので、私の場合は『負け犬』にはあてはまらないことが判明。なんか残念。。。でも広義の意味としては、
 
 つまりまぁ、いわゆる普通の家庭というものを築いていない人を、負け犬と呼ぶわけです。(P7)
 勝ち犬とは・・・いわゆる、普通に結婚して子供を産んでいる人たちのことです。(P8)

 私は明らかに勝ち犬のカテゴリーには入らない。じゃあ、負け犬ということで。と、ちょっと強引に定義したけれど、読めば読むほど、「私は負け犬だ、間違いない!」と確信を持つまでに至った。
 うん、うん、わかる、その気持ち・・・と共感したり、よくぞ言ってくれた!と拍手喝采したり、面白かったなぁ、この本。
 いまや「社会の不良債権」扱いされている未婚・子ナシ女性にとっては一時的な心の癒しの本、て感じ?
 そもそもどうして「勝ち負け」で女性を区別するのか、どうして子ナシは「負け」なのか、言わずもがな、って感じだけど、本書から引用すると、

 勝ち犬は、家庭という世界において子供という有機物を生産しています。そして負け犬は、経済社会においてお金という無機物を得ている。両者が生産したもの、すなわち「子供」と「お金」を比べた時に、子供のほうがよりまっとうで価値の高い生産物とされるから、負け犬は「負け」ていると判断されるのです。(中略)お金を稼ぐ人は「すごい」とは言われるけれど、そのお金が宿命的に持っている下品さ故に、「偉い」とはいわれません。「偉い」のはやはり、お金だけでは育たない有機物を生み出すことができる人なのであり、だからこそ江戸時代の士農工商という序列においても、農は商より偉いのだと思う。(P11)
 

 ま、そういうことです。異論、全くなし。勝った負けたの話はここまでにして、面白かったトピックをピックアップ。かなり迷って以下の3つ。
 @負け犬と家族 A負け犬VS子持ち主婦 B負け犬と依存症

 @負け犬と家族
 著者の実家には今、両親が二人で住んでいて、お兄さんはずっと前に結婚して家を出ているものの子供を持とうという気配もなく、両親は「孫ナシ」状態が続いているとのこと。

 平均年齢が48・4歳の一家が、とある父の日に、中華料理店で食事をしていた時のこと。私は、自分のテーブルにグレイの雲がかかっていることは理解していましたが、ふと周囲を見回してみると、店全体が陰鬱なムードに包まれているような気がしたのです。案の定、その店のほとんどのテーブルが、「老いた両親と、若くない子供」で占められていました。比較的落ち着いたムードの店だったせいか、小さな子供の姿は一切ナシ。老夫婦とその娘らしきアブラっ気のない老嬢、とか。60代の夫婦とその息子らしきオタク感満載の男性とか。もうそんなんばっかしが父の日の食卓を囲んでいた。私はその時、実にリアルに、日本の将来の姿、すなわち「少子高齢化が進んで活気がなくなった社会」というものを、頭に思い浮かべることができたのでした。老いた親とその若くない子供たちが、笑い声もたてずに、固い食材をよけながらぼそぼそと食事をする、中華料理店の、冴えない感じ。これこそが、日本の未来像なのです(P133)

 うん、わかるわかる、このイヤーな感じ。
 私の父方の親戚は孫がひとりもいない。父には兄がいるが、そこの娘はひとりは若くして死に、結婚はしていたものの子供はいなかった。妹の方は私よりも年上だけど独身だ。うちにも弟がふたりいるが、揃って結婚の気配もなく実家にパラサイトしている。
 実家に帰るたびに陰鬱な気持ちになるのです・・・・・・。門から家を見ながら毎回思う。
 あぁ、おじいさんが残してくれたこの土地と家・・・やがては国庫に帰属するんやなぁ
 墓参りに行っても心寒い。
 あぁ、この墓・・・無縁仏になるんやなぁ
 父方の親族の葬式に出たときには。これだけ多くの親族が集まっているのにもかかわらず、若者がひとりもいない現実をまのあたりにし、
 あぁ、みんな、みんな死んでいくんやなぁ
 と、「死んでいくばっかり」の実家の家系に悲しみの念を覚える。
 実家に帰ると気が重い。定年退職し、ぼんやりとテレビを見るだけの父、あいかわらずの弟たち、そしてそれらの男たちに囲まれて暮らす母の姿。そのあまりの陰鬱さに2泊もしていられない。
 あまりの苦しさに母に言う。「ネコを飼えば」と。「世話がしんどいわぁ」と母は乗り気ではない。「ネコはええで、かわいいでー。家が明るくなるで」と私はしきりに勧めるのですが。

 A負け犬VS子持ち主婦
 30代になってから、「子供がいて、本当によかったと思うの。あなたも、絶対に産んだ方がいいと思うわ!」といったことを言われることが非常に多くなりました。35歳になると、その機会はさらに頻繁となります。
 この手のことを言うのはもちろん、子供を産んだ、もしくは産ませた経験を持つ人たちです。この手の忠告をして下さる方々は、確実に良い人なのです。「個人の意思が尊重されるべき今、こんなことを言ってはいけないかもしれない」などという心配は全くせず、自分が「素晴らしい!」と思った子産み・子育てを、ダイレクトに他人にも勧められる人が、裏表のない良い人でなくて何でありましょう。彼等のキラキラした瞳の中に、自分が既に失ってしまった純粋さを、私は見るのです。
 さらにそのキラキラした瞳を見ていると、子育てというのは宗教のようなものであるということが、理解できてきます。その「子育て教」は衰退しつつはあるけれどほとんど国教のようなもの。キラキラ輝く瞳の眩しさに目を細めながら、自らが異端であることを、私は感じざるを得ません。(P180)

 

 うん、わかるわかる、この寒ーい感じ。
 純粋さを失った、自らを異端と感じる、なんともいえない疎外感。「勝っている」人たちのあの「輝かしさ」はいったい何だろう!?
 私は「異端」どころか自らを「異常」だと感じざるを得ません。仕事のキツイ会社にしがみつき、「もう辞めたら」という身内の言葉にも耳を貸さず・・・。ダンナの稼ぎでつつましく暮らしていけばいいものを。
 なんかさ、アタシって頭おかしいんじゃないかって思うときがあるわぁ・・・・・・
 会社の喫煙コーナーで、もう社内でふたりだけとなってしまった同類、「子ナシ」の後輩とつぶやきあってみた。
 そんなことないです、ねぇ・・・?
 と、後輩の顔も翳っていたことは言うまでもない。
 その後ふたりは無言で、ただただ、鼻からタバコの煙を出すだけであった。

 負け犬の遠吠えというからには、既婚&子持ち主婦との比較(隠そうにも隠し切れない対抗意識、含)がしばしば出てくる。それを面白いと思えるのは「負け犬」である証拠と思われます。←よってこの本は「負け犬の負け犬による負け犬のための本」ですので、勝ち犬の方には読んでもおもしろくもなんともないと思われます。ご注意ください。


 B負け犬と依存症(アディクション)
 負け犬が何に依存しがちかというと、「伝統芸能」「伝統文化」だそうである。今までは子育てを終えたおばさんやおばあさんの世界であった歌舞伎や狂言や、能などの公演に負け犬たちが押し寄せているらしい。

 歌舞伎を観るのも着物を着るのも、既に子育てを終えて時間的にも経済的にも余裕ができた、おばさん以上の年齢層の人たちだったはずです。
 そこにやおら参入してきたのが、普通なら子産み・子育てをしている時期に子を持たぬ、負け犬達。人生という膨大な暇を潰すにはもってこいの作業である子育てをしていない負け犬は、その有り余る暇と経済力とを、伝統文化に傾注しているのです。子育てと伝統文化の習得は、カネとヒマを喰うところも同じなら、少しづつ進歩していくところも同じ。負け犬は子育ての代替として伝統文化を愛しているので、そりゃあ熱心にもなりましょうし、伝統文化ブームにもなりましょう。(中略)
 観劇系の趣味を持った場合は、定期公演はいわずもがな、お金を持っているので地方の公演まで駆け付けて、おっかけ的行為を楽しむ。そして同じ趣味を持つ負け犬同士で集っては、ワインなど飲みながら趣味の話に花を咲かせ、水面下で「アタシの方が詳しいのよ」「先生と一番親しいのは私よ」みたいな火花を散らす。(P113)

 

 痩せた痩せたと心配し、調子が悪いと「何かあった?」と心を痛め・・・満員の聴衆の前で誇らしげな表情の彼を見ては「あぁ、よかった、よかったなぁ、よ●ひ●ぉぉぉ」とむせび泣き・・・その心境は旅立つ息子の背中を見送ったかのようであった。(参照:MUSICのページ、2003年11月23日のレポ)
 一方で、あまり衣裳持ちではない彼に対し、「服、少ないねえ、またあの時とおんなじ!」、服にしわが寄っていようものなら「人前に立つ仕事なのに・・・服に変なしわが寄ってるワ」と仲間とぼやき。その姿はイケズな姑さながらである。
 やはり私は、子育ての代替として彼を愛しているのだろうか・・・?
 数十年後、「よ●ひ●は私が育てた」などと人前で口走らないよう、気をつけることにしよう。

 
 休日を全て趣味に費やし、スターのおっかけをする人達は、とても忙しそうです。が、その「ああ忙しい」というセリフを聞いていると、私はつい思ってしまう。「これって・・・・・・アディクションってやつだよねぇ」と。そして、「30を過ぎたら、おっかけだけはしてはいけない」と心に誓う。
 我が眷属たる負け犬達は、つまり皆そこそこお金を持っている上に、暇なのです。それは、仕事は忙しいものの仕事以外の時間となると途端にすることが無くなるという、かつてのモーレツ社員のような暇さ。暇がもたらす恐怖感から目を逸らすために、彼女達は趣味に依存する。(P114)


 バレたかぁ。。。そう、実は私、「暇」です。あっこちゃんは忙しいから、といろんな人に言われるけれど、それは間違い。
 めっちゃ暇やでぇ〜〜〜ホンマに忙しかったらおっかけなんかでけへんで〜〜〜毎回レポートも書けへんで〜〜〜確かに休日の確保は難しかったりするけれど、確保しちゃえばコッチのもん。100%自分の時間。
 「なぁ、休みの日って何してるん?」と独身の友達といるとしばしば聞かれる。さすがに「何もしてない」というのは格好悪いので、趣味は複数持つとよいようである。山仲間と話すときは「山に行かないときはピアニストのおっかけしてる」、おっかけ仲間と話すときは「コンサートのシーズンオフは山に行ってる」といえばなんとか格好がつく。
 しかし本当のところは休日は近所をフラフラ、本屋に行ったり、喫茶店で本を読んだりメールをしたりしている。昼寝も時々している。テレビはあまり好きじゃないので寝転がりながらじいっとネコの顔を見ていたりする。
 絶対に子持ちの主婦の方が忙しいに決まっている。負け犬が忙しいのは一日12,3時間程度、週5日だけよん。
 
 というわけで。なかなか楽しい本でした。でも、読んでるときだけネ、楽しいのは(哀)。


浦沢直樹
「MONSTER」全18巻
小学館ビッグコミックス

おすすめ度☆☆☆☆☆


 久しぶりにマンガを読んでみた。
「マンガをバカにしたらあかん」とはうちのダンナの弁。この「MONSTER」もダンナの所持品の一部。
 第1巻の冒頭からグイグイ引きこまれた!久々に『星5つ』の本の出現!!
 これは面白かった!!!
 
 最初に読んだのはいつだったかな、もう忘れてしまった。当時はまだ10巻くらいまでしか出版されていなくて、「次はいつ出る?え、もう出てる?早く買いに行こう!」とダンナを急かしていたけれど、途切れ途切れに読んでいたのではしらける。「完結したら教えて。1巻から一気に読みたいから!」
 ということで待つことにした。数年後ついに完結。18巻。
 1巻の1ページ目から18巻の最終のページまで余すところなく楽しめた。ページをめくるたび、
「ええっ!」と愕然としたり、「ひエーッ!」と心で叫んだり、「あぁ」と言葉を失ったり。結末はいったいどうなるのだ、とわくわく。
 その結末は・・・うわぁ・・・ヤだな・・・という感じ。

 何がテーマかというと・・・難しいな、、、「マインドコントロール」ってとこかしら。
 舞台はドイツ。東ドイツから亡命した政府高官・リーベルトと、その子供〈双子の兄・ヨハンと妹・アンナ)は亡命直後何者かに銃撃を受ける。
 両親は死亡、双子の兄は頭部に重傷を負い、妹はショック状態に陥る。子供たちは病院に運ばれ、瀕死の兄は有能な日本人医師、テンマにより一命を取りとめた。
 そこから全てが始まる・・・・・・。
 手術が行われた病院の院長、外科部長、外科チーフが毒入りキャンディーで殺され、双子たちは逃走。それからというもの、次々に殺人事件が起こり、たくさんの人が死んでいく。
 ドイツ連邦捜査局の敏腕、ルンゲ警部は日本人医師テンマを重要参考人として追う。しかしテンマは自分が救った双子の兄、ヨハンを追うためドイツ中を逃げ回る。
 テンマは将来を嘱望された脳外科医だった。腕もよければ人もいい。双子が担ぎ込まれたときもその直後にかつぎこまれたデュッセルドルフ市長の執刀を依頼されたのに「子供の方が先にかつぎこまれたのだからこちらを優先する!」と言い、市長の執刀を断った。病院としては名もない子供より市長の命の方が重い。病院の名をあげるためには。それを振り切って子供の執刀をしたテンマは出世街道から転落させられ、院長の娘との婚約も破談になる。
 全てを捨てて取り組んだヨハンへの手術・・・それがとんでもないアダとなる。
 次々に起こる殺人事件は双子が逃げ出した直後から起こっている。テンマはヨハンが犯人だと断定し、これ以上死者を出してはいけない、と自分の手で殺すことを誓う。
 一方ルンゲの方は「子供がそんな事件を起こせるわけがない。犯人はテンマだ」とテンマを追い続ける。
 「解離性同一性障害」という言葉をご存知?いわゆる多重人格ってやつなんですが、ルンゲはテンマがこの病気に違いないと思っている。この病気の人は、自分ではどうしようもないストレスがかかったときに、無意識のうちに凶暴な人格に変貌し、傷害事件や殺人事件を起こしたりするらしい。
 ええっ、テンマがそんな病気!?あのすばらしい医者がそんなこと・・・。

 犯人は誰なのか、ヨハンは何者なのか、何が目的なのか。
 テンマはヨハンの出生の秘密がプラハにあることをつかみ、舞台はドイツからチェコへと移動する。
 双子の妹、アンナも途中から登場。アンナは両親が殺されたあと、ある夫婦に引き取られ、幸せに暮らしていた。しかしまた何者かによって養父母を銃で殺されてしまう。妹は兄のことをあまり覚えていない。子供の頃の記憶がストンと抜け落ちているのだった。
 物語が進むにつれ、アンナは少しづつ記憶を取り戻していく。少しづつ、少しづつ。この過程もおもしろい。

 ヨハンの出生をたどるうち、「511キンダーハイム」の存在が浮上。これは東ベルリンに特別に作られた孤児院。そこでは非常に特殊な教育が子供たちに対してなされていたのだった。
 徹底的に記憶をなくすこと。楽しかった思い出も悲しかったことも自分の名前さえも。感情すら失ってしまった子供たちはそこで殺し合いを始めた。生き残った子供たち、すなわちあらゆる感情と自分の名前すら忘れてしまった子供たちは大人になり、そしてどこで何をしているのか・・・。次々に起こる殺人事件の謎がこれでだいぶ解ける。
 孤児院でどんな教育がなされていたのか、教材として何が使われていたのか、も興味深い。
 私が最も好きだった登場人物はグリマーさん。511キンダーハイムで何が行われていたか、を調べているフリーのジャーナリスト。彼は実はこの孤児院、511キンダーハイムの出身だった。笑顔がとってもすてきなんだけど、、、これも教育されて学んだもの。孤児院を出た彼は今度はスパイ教育を受け、「笑うときの顔の形」を学んだのだという。
 孤児院で教育された「感情の抹殺」により、笑い方は覚えても感情の持ち方は失われたままだった。結婚しても妻を愛せず、子供ができても子供の愛し方がわからない。子供は不幸にも事故で死ぬが、

「俺は自分の子供の愛し方もわからなかった・・・俺は以前、自分の子供の死んでいく時に、どんな反応をすればいいのか考えてた・・・この場合は泣けばいいのか・・・どのぐらい泣けばいい・・・叫び声をあげればいいのか、歯をくいしばるのか・・・今でも、どうしたらいいかわからない・・・わからないんだ・・・」(12巻P45)

 と、テンマに語る姿は印象的だった。グリマーは孤児院の出身であるにもかかわらず、徐々に人間性を取り戻していく。この言葉をテンマに話したのも、ある孤児院の子供たちとサッカーをしたり話をしたりして、子供たちから手紙をもらったり似顔絵をもらったりしたあとに彼がぼそっとつぶやいた言葉。「どうしてあの子達は俺にこんなことをするのだろう?」テンマが「それはあなたのことが好きだからですよ」「???こういう場合はどういう反応をしたらいいのだろう」と彼は苦悩するのだった。
 ぜひぜひ生き残ってほしかったグリマーさんだったけど、、、残念、彼も殺されちゃうのだなぁ。死に際の言葉が泣かせる。彼は涙を流しながら、

「悲しい・・・自分が死ぬから悲しいんじゃない・・・自分の子供が死んだのが・・・今・・・悲しい・・・人間は感情をなくすことはできない・・・感情はどこかわからないところに迷い込んでいたんだ・・・まるで・・・俺宛に出した誰かの手紙が何十年もたってから届いたみたいだ・・・これが・・・本当の悲しみか・・・これが・・・幸せか・・・」(18巻P92)


 悲しいことを悲しいと思える、つらいときに涙を流せることが「本当の幸せ」なのだ、ということに気付かせてくれる言葉である。目がさめるような思いだった。

 ヨハンを殺すため行方を追い続けたテンマ、そして子供の頃の記憶を全て取り戻したヨハンの妹・アンナ。ふたりはついにヨハンを追い詰めた。そしてヨハンは撃たれた・・・。
 しかし、ヨハンは・・・・・・。結末までココで書いていいものかどうか・・・これから読む人に楽しみを置いておかなければならないのでこれで終わりにします。
 今、深夜1時過ぎから(月曜か火曜)アニメで放送されてますが、本で読むほうが迫力あると思う。アニメって色がついてるでしょ?あれがいけない。マンガ本の白黒映像の方が真に迫ります。
 ヨハンは何者なのか、何が目的なのか。自分の名前を忘れ、感情も忘れてしまった人間の行く末にあるもの、そこには何もない。・・・目的すらない。
 以上、後味の悪いハナシでした。


アエラ臨時増刊
「子育ては損か?」
朝日新聞社¥680

おすすめ度(これから子育てしようと思ってる人には)☆☆☆

「子育てなんて、何か得るものあるんやろか?」
 同じ会社に勤めていたHさんにこの間久しぶりに会った。食事しながらHさんは上の言葉をぼそりとつぶやいたのだった。
「うーん・・・」
 私ももうひとりの連れも返答に困った。だって私たちふたりとも子供がいないし。子供がいるのはこの場ではHさんしかいない。黙りこむ私たちにHさんは、
「子育ては修行。もう2度とごめん」
と、言い切った。

 Hさんは離婚後、お子さんを引き取り育てている。お子さんは今度中学3年生になるそうだ。Hさんは結構職を転々としている人で、うちの会社に勤めていたのも2年弱くらいか・・・。
 同じ会社で働いていた頃、彼女と私は家が近所だったため、一緒に通勤したりたまにお子さんも一緒に食事をしたりした。お子さんはとってもよくできた男の子で、いまどきこんなにいい子がいるのかと思うくらいだった。
 ある日、
 「あぁ、仕事しんどい!疲れた!おなかすいた!!!」
と、ぼやきながらHさんは帰宅したそうだが、翌日、出勤しようとテーブルの上を見たら、菓子パンと100円玉がおいてあったそうだ。仕事中にお母さんのお腹が鳴りませんように、とのお子さんの気遣い。
 そんなかわいい子供がいてもなお、「子供なんか作らないで夫婦で楽しく暮らした方がいいに決まっている」とHさんは言う。

「子育ては損か?」という本はアエラの別冊で、もう随分前に発行されたものなので、今は在庫を取り寄せるしかないのだろうが、これはアエラ読者の方が「子育て」について思うところをメールで綴ったものを集めたもの。2118人の悲痛な叫びの中に現在の『出産子育て』をめぐるさまざまな問題が浮き彫りになっている。
 少子高齢化が進み、今後の社会状況は厳しくなるばかり。結婚してるのに子供を持たないDINKSも増えているそうだが、風当たりはキツイ。いつぞや政府のオエライさんが「子供も産まないで自由に遊んでいる者には将来年金をやらん」と暴言を吐き批判されていたけれど、男女不平等の社会で差別を受けつつも働いている女性、または男女雇用機会均等法の名のもとに男性なみに働かなくてはならない女性、経済的事情や身体の事情により産みたくても産めない女性に対する配慮はまるでない。そういう世の中なのだ。
 子供を産まない女性に対して「人間として欠陥」みたいな言い方をするのもどうかと思う。確かに子供がいればいないのと比べてさまざまな経験ができるのかもしれないが、子供がいないからこそできる経験もある。だからどっちが価値のあることか比べるのはおかしいと思う。
 ただ少子化が進むことは誰にとっても困った問題であることは確か。それならもっと政府がなんとかしろよ、と思う。
 
 私は子供を欲しいと思ったことがない。犬や猫や動物の赤ちゃんは「かわいいっ!」と思うのに、なぜだか人間の赤ん坊を見ても「かわいい」という感情が湧いてこない。 
「そんなこと言って!よその子と自分の子は違う、それに子供を持ったらよその子もかわいく思えるし世界も広がるから」と私の親は言う。
 自分のような人間を親だと思ってくれ、笑顔で手を伸ばしてくる。確かに自分の子供ならかわいいと思えるかもしれない。
 だからどうしてもいらない、とまでは言い切れないが、自由を捨ててまで、仕事を辞めてまで、生活を切りつめてまでは・・・というのが本音。子供を産んだからといって仕事が減るわけではないので、今の生活に苦労がきれいきっちり上乗せされる。自分の子供はかわいいかもしれないけど、朝も昼も夜も休日も気が休まることがない、なんて生活を考えるとやっぱりつらい。仕事は辞めたけりゃ辞められるし、ダンナとも別れたいと思えば別れられるが、子育ては何があっても放棄することは許されない。そう考えると目の前が暗くなってしまう。
 帰り道、電車の中で思う。「あー、家でゆっくりしよう」と。と同時にシュミレーションしてみる。もし私に子供がいたら・・・?今から迎えに行き、ご飯を作り、食べさせ、風呂に入れて寝かしつける・・・。仕事中にも考える。保育所で子供の具合が悪くなったから引取りにきてくれと電話が入る・・・。そのたびに「あー、やっぱり私にはムリだ」と再認識させられる。
 その一方で、「子供を産まないという選択をしてまで、今の仕事は続ける価値のあるものか?」とも思う。
 仕事はつらい。やっててよかった!と思えることもあるが、しんどい!と思うことの方が多い。つらい時は本当につらく、ダイエットもしないのに4キロも5キロも体重が減ったりする。
 でもやっぱり思うのだ。経済的ゆとりは人生には欠かせない。仕事あってこその自由、というものが確かに存在する。旅行に行きたい、教養を身につけたい、そのためには出費を惜しみたくない。子供が将来、「私立に行きたい」と言えばすんなりOKを出してあげたい。奨学金の返済がいまだに終わらないという自分のつらさを子供には味わわせたくはない。
 だから生活レベルを下げたくない。これは「贅沢」なんだろうか。。。勉強し、試験を受け、面接で売り込み、やっとの思いで今の会社に入った。そういう永年の努力をやっぱり「無」にはしたくない・・・しかし今の生活にさらにのしかかる子育ての重圧・・・悶々。
「何も考えずに産め。そうしたら世界が開ける」ダンナの父親に言われた言葉。開ける、んじゃなく「開かなきゃどーにもなんなく」なるんだろう・・・。やっぱり「そこまでして産まなきゃなんない?」と思ってしまう。産んだってさ、こんな世の中じゃ苦しいことが多すぎる。
 それにそれに、子供一人育てるのに2000万かかるんだよ!2000万円分稼ごうと思ったら一体何時間働かなきゃなんない?親の介護の問題も目前に控えているし、何よりも自分の老後の生活はどうなる?一体どこまで苦しまなきゃならんのだ?

 損じゃない、と言う人の意見その1
 目先のこと(日々の生活の大変さとか、出ていくお金の大きさとか、気力・体力的な問題など)だけ見ると、確かに一見「損」な面も多い。(中略)しかし得られるものも多いはず。自分だけを頼りにしてくれる存在、味方でいてくれる存在が増えることによって実感できる自分の存在意義とか、心の安定、幸福感。将来子供が成長したら、いろんな話ができて、楽しいだろうし。
 妊娠・出産で、私たち姉妹は母と共通の話題ができ、いろいろ世話になったり赤ちゃんだった自分を親がここまでして育ててくれたのか、と感慨深く思ったりして、いい面があった。義父母とも話題に困ることなく、「家族の一員」という感じが強まった。(中略)
「命」の創造者であることをもっと前向きに考えたら?仕事は代わりが利くけど、妊娠・出産は「じゃ、代わりによろしく」とはいかない。仕事の業績じゃ、何も世の中に残せないかもしれないけど、自分が死んでも「命」は続いていくんだから。(P34)


 義父との話題。実は私も困っている。子供を産めば多分、義父との話題もできて楽しいだろうと思う。

 損だ、と言う人の意見その1
 妊娠してから子供が成人するまでの20年間、精神的・身体的・経済的に大変な苦労をすることが目に見えている。それらの投資をしたからといって、子供が真っ当に育つという保証は何もない。苦労をした揚げ句、待っているのは「殺人者の親」という役割かもしれない。
 そんな危険な賭けはしたくない。(P21)


 これ、かなり共感できる。ちっとも大げさなことではない。今の世の中の状況を考えると。
 親と子供を取り巻く環境は厳しいことこのうえない。その厳しさは「産む段階」から始まる。私にも一応、妊娠の経験はある。でも嬉しかったのは最初の2週間だけだった。
 片道2時間の会社への道のり。思う存分仕事ができない苦しさ、肩身の狭さ。身内からの圧力。休みの日は病院通い&ご飯作ってダンナの帰りを待つだけ。自分の世界が急速に縮こまり、音を立てて崩壊してしまうかのような気分になった。
 結局、子供の方は3ヶ月ほどでダメになってしまって、「仕事をしていたから、妊娠を喜べなかったからバチがあたったのだ」と悲しい思いもしたけれど、体力も回復し会社にも復帰して久しぶりに生理が来たときは、やっと元通りの生活が戻ってきた、とほっとした。やっぱり私には「人の親」になる素養などなかったのだ。
 妊娠生活はもう二度とごめんだ。保健センターに手続に行くと保健婦さんに「出産も子育ても厳しいよ」と言われたが、実際そのとおりだと思った。
 まず病院の問題。産婦人科が異様に少ない。やっと見つけたその産婦人科は電車でひと駅のところにあった。予約はいつもいっぱいで、やっと予約をとりつけて出向いても、毎度毎度芋の子を洗ったような大混雑。診察室には常に10人の妊婦が待機していた。内診台の上3人・内診に備えて更衣コーナーで脱いで待ってるのが5人・更衣待ちが1人・内診終わって問診待ちが1人。この10人全員同じ部屋。カーテンで間仕切りしてるだけの。話も全部まる聞こえ!
 分娩室を確保するのも競争(5ヶ月先まではすでに予約満杯で締め切られていた)、毎度の検診代もバカにならないうえに、出産費用は50万近くかかる。。
 産んだあとも大変だ。子供が急に病気になっても診てくれる病院はわずか。なんでも小児科はモトが取れないからといって閉める病院が多いのだそうだ。
 そして学校現場の荒廃。教師の質の低下。先ほどのHさんのお子さんが通う学校では授業中に生徒が立ち歩いても注意なんかしないそうだ。
「今の子供は自由ですからねー」の一言で片付ける。子供のくせにみんな携帯電話を持っていて、テスト中には全員でメールをやりとりしカンニング。
 ところで今や『円周率』は3.14ではなく3だそうだ。最近の子供たちは面倒な計算をすることから解放され、活字が削られた絵本のような教科書を見て過ごす。当然のことながら「学力低下」が進んでいく。
 勉強が全てではない、「個性」を大切にした教育をすべきだ?君は歌がうまい、絵がうまい、優しい、しっかり者だ・・・等々?
 芸術分野に秀でていたり性格がいいのは「個性」かもしれないが、勉強ができないのは「個性」ではない。まだまだ未来のある小学生の段階から「君は勉強ができないけど、それでもいいじゃないか」と言うのはどうだろう。デキナイ子はデキナクてもよい。それでいいのか???
 そうして「デキル子」と「デキナイ子」の格差はどんどん広げられ、「デキナクてもよい」と言われ続けた子供は、のほほんと日常を送り、やがて社会から脱落させられていく。街は「考えることをやめた」無気力無関心無感動な若者であふれかえる。でも若者たちだって本当は学びたいし働きたいし充実した人生を歩みたいと思っているに違いないだろう。でも方法がわからないから、なすすべもなく漂っていることしかできない。
 そうならないために親たちは高額な学費を払って塾へ通わせる。または家で勉強をみてやる。親の負担がここでも重くなる。
 小中学校での勉強の目的は「生きていくための最低限の知識の習得」はもちろんのこと、精神修行という非常に重要な役割も持っていると思う。
 私は小学生時代に毎日居残り勉強をさせられ、「こんな難しい公式、覚えたって何の役にも立ちはしないよ」と疑問を持ちつつ、毎晩山のような宿題に追われ、涙を流しながら鉛筆を握っていた。←かなりデキの悪いお子ちゃまだった。算数で0点取った経験あり。←ゆえに毎日居残り授業。でもこんな私を見捨てなかった先生に感謝しています。ありがとう・・・。
 円周率が3だろうが3.14だろうが今後の生活には何ら支障は出ないし、台形の面積の求め方なんか知らなくても全然困らない。でも「面倒なことでも一生懸命やる、できないことは努力して克服する、どんなにつらくたって考えることを辞めない」ということを日頃の勉強から学ぶ。親の努力も必要だろうが、まず第一に教育の専門機関である学校や政府が真面目にサポートするのがスジってモンだろう。
「個性」という美辞麗句を使い、「デキナイ子」をひそかに切り捨てるなんてもってのほか。

 親の質の低下も甚だしい。教師が生徒に「携帯を持ってくるな」と注意しても「料金を払っているのは私だ、オマエが文句言うな!」と、親が学校に乗り込んでくるらしい・・・・・・。
 世間にはモノと情報が氾濫しすぎていて自分にとって子供にとって何が必要なのかがわかりにくくなっている。親は自然と過保護になり、子供も自己の危機管理が甘くなる。どういうことをすれば危険かといったことがわからない。遊具で指を切断するなんて事件が相次いでいるけれど、そのうちの何件かははっきり言ってその子自身の危機管理の甘さが原因だと思う。
 何をしたら危ないのか、どこまでなら許されるのか。それがわからないから簡単に人を殺してしまう。そういう子供は人をいたわることはもちろん、自分を大切にすることすらできない。自分が生きていることのありがたみがわからないのに人の命など尊べるはずがない。本当にかわいそうだ。凶悪犯罪の急増もいわば自然のなりゆきかもしれない。かなり不安だ。自分の子供が加害者にならないという保証はどこにもないから。
 そして虐待事件。自分はそういう親には絶対ならない、と言えるのか。
 決して辞めてはならない、逃げ道のない「子育て」という仕事。しかも社会から隔絶された狭い家の中で。暴力をふるうしかはけ口が見つけられない苦しみを考えるとき、「虐待母」を責めることは私にはできない。
 最近の母親たちは日常の家事育児ばかりではなく、学校や塾の送り迎え、そのうえ子供が友達の家に遊びに行くのにも送り迎えまでするそうだ。
 ・・・・・・私にはそんな時間はない。

「こんな状況で産んだら大変よ、まず第一に子供がかわいそう。こんな世の中で生きていかなきゃならないなんて」
と、Hさんは言う。
 だから「それでも欲しい」と思う人がどんどん産んでくれればいい。そういう人を励まし、援助するためなら喜んで税金を払おう。

 編集部はまえがきで次のように書いている。
 最初の一週間に届いた109通のうち、「子育ては損」という意見は45%を占めたが、その内容が興味深い。「損だ」と答えた中で、「条件や環境が改善されたら、もっと子供が欲しい」「子供を産んでよかった」と書いた人がいずれも7割、「産まない方がよかった」という人はゼロだった。多くの人が、子供のいる喜びや充実感をつづっていて、そこだけ読むと、その人が「損」と感じているとはとても思えないほどだ。まして「得をするなら育てる」と主張する人など一人もいなかった。(P17)

 損じゃない、と言う人の意見その2
 子育てを損だと考える人が、こんなに多いとは信じられない思いです。
 社会のあり方も検討する必要があるでしょうが、それ以前に、皆さんは「自分の人生が何か」がわかっているのでしょうか。あまりに自分中心で、本当の幸せをはき違えているのではないでしょうか。もう一度みんなで、人生について考え直さなければ、何もよくならないのでは?幸せとは、お金や学歴や社会的地位ではなく、心の問題、と思います。いかに、ゆとりある気持ちで人生を送ることができるか、その中の最大の楽しみが「子育て」であっていいと思いますが・・・・・・。
 この頃の親たちは甘ったれていると思います。きちんとした躾もしないで、何かがあると、社会のせいにする。自覚のない甘ったれた親たちが育てるから、最近の子供たちの事件につながっていくところもあるのだと思います。子育ては損だ、などという気持ちが社会を悪くしているのではないでしょうか?(P24)


 ひぇーーーーっ、しかしごもっとも!

 損だ、と言う人の意見その2
 子育てに重荷を感じる。
 就業時間が制約される。会社では肩身が狭い。家事が多すぎて、家でも自分の時間がなく、休養もできない。食事も風呂もゆっくりできない。
 日本の子育て環境は劣悪だ。子持ちで働いていても、肩身も狭いし、体もつらい。だからといって、専業主婦になったら貧乏だ。私立に入れたいと思う。となると、すごくお金がかかる。
 昔、学校はいかなくてはいけないところだった。悪いことをすれば、親や、近所のこわいおじさんや、学校の先生に殴られた。
 最近の子供は、教育評論家の人たちの言い分を聞いて知恵をつけ、反社会的なことも正当化する。そのくせ、本は読まない。こんななかで、子育てをするのは本当にバカだと思う。
 なんとなく、子供ひとりくらい産まなければ、自分の両親が孫がいなくてかわいそうかな、と思って子供を産んだけれど、もう子供は結構です。(P25)

 
・・・・・・やはりこっちの意見の方がしっくりくるかも。
 子供を持つためにはやっぱり相当なガマン&相当な努力をしなくちゃなんないのかな、という感じです(沈)。明るい展望はどうしても持てません。
 子供を産んで育てている人はすごいと思う。



江國香織
「ホリーガーデン」新潮文庫¥476
「きらきらひかる」新潮文庫¥400
「落下する夕方」角川文庫¥533
「冷静と情熱のあいだ」角川文庫¥457

評価・・・不能


 私は彼女の書くハナシが嫌いだ。ストーリーはもちろんのこと、言葉の使い方、構成の仕方、全てにおいて生理的に受けつけないほどの嫌悪感を覚える。

 しかし彼女は超人気作家であり、いまや文学界において確固たる地位を築きあげ、とうとう直木賞までとってしまった。こんな作家に受賞させるとは直木賞の質・そして行く末もあやしい。

 しかし彼女は人気の作家である。何も知らなかった私は彼女の人気ぶりに目をつけ、本を購入した。大きな期待を持ちつつ。

「ホリーガーデン」
 女の友情物語。果歩と静枝は高校まで同じ女子高に通った仲で、30歳を目前にしてもその友情に変わりはない。
 果歩は昔の失恋からいまだ立ち直れていなく、静枝は同じ職場の男と不倫をしている。
 そこへ果歩を慕う中野という男が出てくる。
 この小説は「3人の相互いたわりあい」の物語である。非常にとりとめのない話が延々300ページにもおよび、オチもなく終わる。
 最後に作者はあとがきでこう述べている。

 なぜだか昔から余分なものが好きです。(中略)これはたくさんの余分な時間を共有してきた二人の物語です。二人と二人をめぐる人々の、日々の余分の物語。

 ほんとうに余分な話ばかりだった。その退屈さはある意味見事である。作家のくせに面白い話を一切書かず、オカネを払って本を買った読者をドキドキさせることもなく。本当に退屈極まりない話だった。最後まで読むのが苦しかった。
 お金とヒマが有り余ってる人にはおすすめの一品。


「ホリーガーデン」で打ちのめされた私であったが、それでも彼女は超人気作家である。あまりの忙しさに駄作を書くこともあるだろう。最初にこれを手にしたのが不運だったのだ、と思いなおし、次の作品を購入。

「きらきらひかる」
 
睦月(むつき、と読む)と笑子のちょっと変わった結婚生活を綴ったもの。笑子はアル中で、睦月は医者、そして彼には紺(こん)という男の恋人がいる。すなわち睦月はホモである。
 アル中とホモのセックスレスな結婚生活に、実態のよくわからない若者の紺が時々顔をだす。
 12章から成っていて、章ごとに睦月と笑子の立場から交互に語られている。あまりこういう形式のものを読んだことがないので結構新鮮だった。私が読んだ4冊の中ではこの「きらきらひかる」が一番マシ。それぞれが抱えた「せつなさ」がそれなりに表現されている。
 だが、こういう形式で語られると「想像する楽しみ」が著しく減ってしまう。一人称で語られる小説だったら、「この男はなにを考えてこういう言動をするのだろう」とか「こんなこと言われたらきっと相手はこうなるだろう」という予測しつつ話の中に入り込んでいけるけれど。二人の想いを事細かに説明してくれるこの形式は頭を使わずに読める。格好の娯楽小説。
 生活に出てくる小物類も「いかにも若い女の子喜びそう」なもので占められている。シャンパンマドラーとかバタ−のたっぷりついたフランスパンとかオイルサーディンとかコアントロー味のシュークリームとかピーチフィズとかアイリッシュウイスキーとかカリフォルニアオレンジジュースとかラム入り紅茶とかティーコゼーとか白いフリージアとか。
 ええい!イライラするんだよっ!!そんなものはひとつたりともウチの家にはない!悪かったな!!
 きわめつけは「のりたまのような星空」と来た!!!!!この本だったかどうか忘れたけれど似たようなものに「ピンクグレープフルーツのような月」「あんずのような月」という表現もあった。こういう乙女チック路線についていくのには私はもう歳を取りすぎ、いろいろな物を見すぎ、経験しすぎた。

 親から「早く子供をつくれ」とせっつかれた笑子はひとりで「人工授精」の相談に医者に行く。医者はそのことを睦月に報告するのだが、
「笑子さんの相談っていうのはつまり、言いにくいんだけどその、睦月の精子と紺の精子をさ、あらかじめ試験管でまぜて授精することは可能かって。そうすればみんなの子供になるからって」(P194)
 気持ちはわかるが・・・・・・ちょっと生々しすぎて気持ち悪い・・・・・・ウッ。

 あとに載ってる解説では今江祥智という人が彼女についてのエピソードを実にほほえましく書いていた。
「いつか、こんな話を聞いた。江國さんが都内某所でバイトをしていた頃、書類をファクシミリで送るように言われ、持って行ったまま戻ってこない。行ってみるとファクシミリの前で立往生していて、『いくらボタンを押してもこの書類、ここに残ってるんです・・・・・・』と、首をかしげていた由。相手は同じコピーを山ほど送りつけられていたのである。(P206)
 常識では考えにくいバカな女の存在、こんなバカさが微笑ましく語られることも実に不愉快。

「落下する夕方」
 これは映画になったらしい。それならちょっとは面白いだろう、と私は懲りもせず購入。彼女は映画界からも注目されるほどの大作家なのだ。なぜにこれほど賞賛をあびているのか、その根拠をどうしても知りたい。
 梨果と健吾は8年間同棲している仲。その健吾が家を出て行き、代わりにやってきたのが健吾の新しい恋人の華子。自分の彼氏を奪った女とどうして一緒に暮らせよう???ありえない設定だが、これは小説。我慢して読んでみよう。
 ふたりは実に円満に暮らしていく。ありえない・・・華子という女は実に不可解。突然旅に出たり、わけもなく暗い顔をしたりする。何か薄暗い過去でもあるのかと思いきや、話も終盤に差しかかっているのにやっぱりわけがわからない。この女を江國はどう料理するのか・・・そう思いながらどんどんページをめくる。
 突然華子は自殺してしまった。江國は華子を料理せずに処理してしまったのだ。ひどすぎやしないか!?読者に対する裏切りだ!処理に困って殺したとしか考えられない。
 これはひどかった。
 これをどういうふうに映画にしたのか、見てみたいものだ。

「冷静と情熱のあいだ」
 本も映画も大ヒットした作品。ひとつの物語を男女それぞれの視点から二人の作家で書き上げたことも有名。二人の作家とは江國香織と辻仁成。辻は私が男性作家で最も尊敬する人だ。
 かわいそうな辻・・・・・・こんな女と一緒に仕事をさせられて。ホントはイヤだったんでしょ、正直におっしゃい!と言いたくなる。
 この作品は私が読んだ江國の作品の中でも最も駄作、駄作中の駄作、究極の駄作だった。これを読んで私は決意した。「もう江國の作品には手を出さない」と。
 順正(じゅんせい)・あおいの恋の物語。舞台はイタリアである。本文272ページ。順正のことが出てくるのは100ページ目だ。本文の約半分は現在の恋人「マーブ」について書かれている。マーブの「ふくらはぎ」がどうのこうのとやたらマーブの外見に細かい。
 うるさい!登場人物の外見を想像するのは読者の楽しみに取っておけ!おかげでマーブについては何の感情も抱けずに読んでしまった。
 昔の恋人、そして今でも忘れられない人、順正についての記述が前半に一切ない。100ページ目から突然出てきてそしてまたなんとなく終わってしまう。本当に「なんとなく」が好きな作家である。まぁ、自分でコレを売りにしているのだから仕方あるまい。路線を変更しろ、という権利は誰にもないだろう、思想信条の自由は憲法で保証されている基本的な人権なのだから。
 一方、辻の書いた「冷静と情熱のあいだ」では順正もあおいのことも、順正の今の恋人のことも仕事のこともマーブのことも丁寧に愛情こめて書かれている。江國はイタリアでの(オシャレな小物類で満たされた)オシャレな生活やマーブのふくらはぎのことで話が終わってしまうが。
 江國はこれを書くにあたって、イタリアまで取材に出かけたそうである。
 しかしこの「冷静と情熱のあいだ」は、せっかくイタリアまで行ったのだったらもう少しマシなことを頭に入れてきやがれ、と思う一品である。