祝・ファン1周年記念


 近藤さんのファンになってから一年が経過しました。身内は誰も祝ってくれませんが、ここなら祝ってもらえるだろうと思って書いてみました。近藤さんのピアノとともに過ごした一年間は私にとっても激動の時間でしたので、ここでしみじみ振り返ってみようと思います。

(まえがき)
 私は某外資系企業で働く一民間人。夫は夢多き若者。司法試験合格をめざして就職浪人中。私が外で稼ぎ、夫は勉強の合間をぬって家事をする、というライフスタイルをお互いエンジョイしていたのですが、2001年の正月に夫は突然、「オレ、公務員になる!それでもええか!」
 夫は人が変わったように猛勉強をはじめ、ご飯も作ってくれなくなりました。私は夫の作ってくれる赤ワイン入りビーフシチューや牛すじと大根の煮物が好きなのですが、ここは黙って見守るしかありません。
 年齢的に受験できるのが最後だったということと、司法試験やってて公務員試験に落ちるなんてかっこ悪いという意識とで必死になっていた夫も、春になると息切れしたのか、勉強も手につかずふさぎこむようになりました。
 そしていよいよ一次試験も間近に迫った六月・・・。

(はじめてCDを買う・・・2001年6月)
 ある日、何気なくCD店に行った私は、夜になっても電気もつけずに部屋で涙を浮かべている夫にCDをプレゼントしようと思い立ちました。店内をうろうろしていると近藤さんの「ピアノハート」が目にとまりました。隣には横山幸雄氏のCD(純クラシック系)がおいてあり、どっちにしようか迷ったのですが、ジャケットのきれいさと、疲れた心にはやはり「癒し系」がいいだろうということで「ピアノハート」を購入することに。
 ところが夫はあんまり喜んでくれなかったのです。。。「なんや、全部持ってる曲ばっかり・・・」って。6歳から17歳までピアノを習っていた夫はピアノのCDを結構持っていたのでした。
 仕方がないので自分が聴くことに。そしてその瞬間から私は・・・・。

 まるで大地の上に横になったかのような安心感、柔らかな太陽の光に包まれたような穏やかな気持ち。森の中で胸いっぱいに吸い込んだ透明な空気のように、近藤さんのピアノの音は私のからだの中にどんどんしみこんでいきました。「なんだろう、この音は」という恐ろしいほど新鮮な驚きは「どんな人だろう、この人は」という想いに変わり、気がついたらその月、私は10枚も近藤さんのCDを買っていました!
 それからしばらくして、会社の同僚が落ち込んでいたのでいい薬があるからと「ピアノハ−ト」を貸してあげると、とても喜ばれたので私も喜んでいたところ、夫が、
「このあいだ、お前が買ってきたCD、どこやった?」
「会社の人に貸した」
「なんでそんな大事なもん、人に貸すねん」
 私が会社に行っているあいだ、夫はひそかにCDを聴いていたらしい。妻からのプレゼントも素直に喜べないほどまいっていたのだなあ。

(KFCに入会する・・・2001年7月)
「ごめん・・・好きなひとができた・・・」
 とうとう私は夫に打ち明けた。そしておもむろに写真をさしだした。「ショパンリサイタル」についていたミニ写真集。一枚めくってすぐの、赤い服を着て微笑む近藤さんの写真。私の一番のお気に入りである。
 夫は興味なさそうにふうんと言い、鼻をほじり始めた。
「今日、ファンクラブに電話してん」
 そう言うと夫は爆笑した。「クラシックの演奏家にファンクラブなんてあるんか!」
「そうやねん!!私もびっくりした」
 夫はものめずらしげに写真集を見ていた。「こんなんまで出しとんか」などと言いながら。
 夫は私に呆れながらも、翌日、忙しい私のためにファンクラブの入会金を銀行に振り込みに行ってくれた。かくして私は正式に「近藤さんのファン」になったのである。

(初コンサートのチケットを入手・・・2001年7月)
 その日、夫の公務員試験の二次試験(面接)の日であった。私はまるで息子につきそう保護者のように夫と一緒に試験会場(神戸・三宮)に向かった。「まあがんばってきいや」と声をかけて別れたあと、私はミスドで遅い朝食をとりながらチケットぴあの場所を雑誌で調べた。
 いざ、ぴあへ。しかし。コンサートの日があまりに迫っていたため、ぴあでの販売は昨日で終わってしまったとのこと!!これは大変!あわてふためいた私は公衆電話で主催のあべぷらんに電話した。が、なぜがずっと留守電。携帯電話を持っていない私はひたすら公衆電話で電話し続けた。そして昼すぎにやっと通じ、めでたくチケットを入手。
 面接試験を終えた夫との待ち合わせに少し遅れて到着。着慣れないスーツを着て汗を流しながら立っていた夫の顔は、暗かった。
「もう神戸に来ることもめったにないだろうから、うまいもんでも食って帰ろうか」
 夫の提案で私たちは中華街に向かった。暑い夏のお昼どき。どこの店もいっぱいだ。私たちは一時間ばかり並んで、やっと涼しい店内に入ることができた。
 こういうときでなくとも、とりあえずはビール、だろう。冷たいビールを一杯飲み干すと夫は面接試験についてべらべらと話し始めた。個人面接は比較的うまくいったものの、次の集団討論とやらで京大法学部卒、大手都銀に3年間勤めていた男に「君の意見はおかしい」と、こてんぱんにやっつけられたそうだ。
 京大法学部・・・。思わずつぶやいた瞬間、ブチリと大きな音がして店内が暗くなった。
 なんと停電である。なんで?向かいの店は電気ついてるやん。
「すみませえん。うちと隣の店だけ停電になってしまいました。今、関電に連絡したのでもう少しお待ちください!」
 私は顔色が曇らないように笑顔を作って言った。
「近藤さんのチケット、取れたで」
「近藤?」
「あ、あの、例のピアニストの・・・」
 停電で冷房も止まり、ビールがぬるくなっていく。
「なんで停電やねん、なんかオレの将来を暗示しているよなあ」
 結局注文した料理を一品も食べられないまま、私たちは店を追い出された。復旧の見込みがつかない、との理由で。
 仕方なく別の店に入ることに。食事中私はコンサートの席が2階の右側しかあいてなかったことを語った。本当に残念だ。せっかく近藤さんを初めて見られるというのにこんな席じゃあ豆粒だ・・・
「あのさ、そのコンサートの次の日なんやけど。今日の面接の結果出るの」
 気が重くてとてもコンサートどころではない、と夫は言う。そんな時こそ外に出かけるべきなのだ。きっと近藤さんが私たちに希望を与えてくれるに違いない。
 帰り道、私たちはでんでんタウンに向かった。豆粒大の近藤さんを見るための双眼鏡を買うために。

(初めてのコンサート!・・・7月23日/フェスティバルホール)
 暑い中、ひたすら走った。昼休みを返上して仕事を終え、なんとか間に合った。開演10分前だった。汗だくになり息を切らせている私に向かって夫が言った。
「おまえは阿呆や。今日CD買ったら近藤にサインしてもらえたのに。もう全部買ってしもたやろ」「まだ買ってないのあるもんねー」
 私はロビーで買った「月光」のCDを見せた。今日はこれにサインしてもらうのだ!!
 開演5分前。座席について汗をぬぐっていると、あわてて駆け込んできた男がひとり。
「まにあったー」
 彼は私の友達である。大学時代に同じゼミだった彼とは卒業してからもよくふたりで遊びに行ったり飲みにいったりしたものだったが、お互い結婚してからは疎遠になり、彼に子供が生まれてからは年賀状だけのつきあいになってしまった。そんな彼に私は久々にメールを打ってみた。もちろん内容は近藤さんの魅力についてである。私の熱いメールに興味を持ってくれたのか、彼は早速インターネットでコンサート情報を検索し、私に返信してくれた。そして、せっかくだから一緒に行こうということになったのである。彼は私の顔を見るなり開口一番、
「CD買ったらサインしてくれるらしいで!」
「じゃーん、当然、買ってきましたよーん」
 私は買ったばかりの「月光」を彼に見せた。
 そしていよいよ開演。客席が暗くなった。私は背筋をのばして目を見開いた。ひざの上にはぴかぴかの双眼鏡。準備は万端である!!

 近藤さんは音もなく現れ、そして言った。「ピアニストの近藤嘉宏です」
 ああ、このひとが。。間違いなく近藤さんなのだ。そして私は今同じ空間にいるのだ・・・でもやっぱり、遠い。2階席のいちばん右側。
 そこで双眼鏡の登場だ。幸い私たちの座席は一番前で横も後ろも誰もいないので多少ごそごそしても迷惑はかかりそうもない。私はかなりどきどきしながら双眼鏡をのぞいてみた。
「あれ、見えへん・・・あれ?」
 私は機械類にはめっぽう弱い。双眼鏡のピントがなかなか合わせられないのだった・・・。
「貸してみ!はよせな、話が終わってしまうやないか!」
 隣に座る夫もなぜか焦っていたが、すぐにピントを合わせてくれた。
「おおっ!」
 近藤さんが目の前に迫っていた。こんな見方をしてもいいのだろうか、と罪の意識にも似たような思いがした。
 しかし。。近藤さんはめがねをかけていて前髪が長かったので、双眼鏡で見ても顔はよくわからなかった。正直「写真の方がいい」と思ってしまった・・
 近藤さんはよくしゃべり、よく笑っていた。クラシックの演奏家が人前で話すということに驚き、そしてこの明るく楽しげな雰囲気の中であのピアノの音が聞けるのだ、ということがなんだかとてもうれしかった。
 そう、この楽しげな雰囲気。実際どうなのかは別として、近藤さんは話しながら楽しそうだった。
「あのへんにおる客、もう何年も前からおっかけやってて、半分顔見知りみたいな奴らばっかりやで、きっと」
「そうそう。宝塚みたいな熱狂的なファンがあのへんの席買い占めてるに違いない」
 夫と友達が言った。私は双眼鏡の向きを変えた。1階左側に。近藤さんは1階左側席の人たちにだけ笑顔を向けていて、2階席など眼中にない様子だ。面白くない・・・。
 さて、どんな奴らが座っているのだ。あんな席を手に入れられるなんてきっと特別なコネがあるに違いないのだ。だって次の10月のコンサートも私は2階席。3ヶ月も前に予約してるのになぜに2階しかあいてないのよっ!
 中年のおばさんが多いように思った。近藤さんとともに全国津々浦々・・・そうなるとやっぱり特別に笑顔を向けないといけないだろう、近藤さんも大変だなあ、若い女の子ばっかりだったら嬉しいだろうけどおばちゃんも相手せなあかんねんもんなあ。などと勝手に思いをめぐらせていたら、近藤さんは話を終え、舞台袖に去っていった。あんまりお話聞いてなかったです。ごめんね、近藤さん。

 さていよいよ演奏である。舞台上のピアノが淡い光に照らし出されている。今まで何度か足を運んだオーケストラや吹奏楽のコンサートとは全然違う雰囲気。広い舞台にぽつんと置かれたピアノ・・すごくさみしい。
 近藤さんが再び現れた。さみしそうにたたずむピアノに向かって歩き始めた。今、どんな気持ちなんだろう。やっぱり緊張してるのかな、こんな大きなホールで弾けて嬉しさいっぱいなのかな、いつもひとりで仕事してさみしくないのかな、などと非常に感傷的な気分にひたっていたのもつかの間、ついさっきまで私をとりまいていた都会の喧騒、ねっとりと肌にまとわりついていた夏の湿った空気が別世界のことのように感じられた。
 きれいな音。それしか言いようがないし言いたくもない気持ちだった。言葉にすればするほど安っぽくなってしまうような気がして。一曲終わるごとに私は深く息を吸った。息をするのも忘れていたような気がする。せっかく買った双眼鏡ももう私には必要なかった。そんなものを覗きこんでいる間があったら拍手を少しでも長く送っていたかったから。それくらいしか私のできることはないから・・・。
「はよ行って、はよ帰ってこいよ」
 夢から現実にいきなり引き戻された。ピアノの音は止み、夫の声がした。コンサートはあっという間に終わってしまった。。早くサイン会に並ばないと。私は男たちを置き去りにしロビーに走った。すでに長い列ができていた。この列の先に近藤さんがいる・・・
 すると・・・人垣の隙間からちらりと見えた。き、きれい・・・双眼鏡で見たのとは全然違った!写真以上にきれいだった・・・。サインしてもらったあと、私は急いで外で待つ男たちのもとに走り、サインを見せびらかし、近藤さんが期待どおりのオトコマエであったことや、やっぱり唇がすてきだったことを報告したが、彼らはこれからどこに飲みにいくかということで頭がいっぱいのようだった。

(コンサートのあと・・・2001年7月23日)
 私たちは「ミュンヘン」で飲むことに。飲みながら友達に感想を聞いた。「うーん、かなり粗い感じやったな」と彼は言った。私は彼の意見を否定はしなかった。確かにそんなとこもあったような・・・アンコールの幻想即興曲。最後の曲だし、夏だし、ってな感じだったのかな、近藤さん、めちゃくちゃ熱かった。ちょ、、もうちょっと落ち着いてもいいんじゃあ、なんて素人の意見だが正直そう思った。でもそういうとこがたまに見受けられるのも魅力のひとつなんだけど。なんだか人間くさくていいんじゃないかって。
「オレはそうは思わんかったけどな。やっぱりすごいと思ったで」
 夫が近藤さんをほめた。私が何度注意しても「近藤」と呼び捨てにするあの夫が・・・
「しかし、ぼんぼんやな、やっぱり」これは男たち共通の感想であった。どうなんだろ。私は案外普通の人って感じするんだけど。普通の団地で育って両親共働きで一生懸命音大に行かせて、って感じで。
「団地でピアノが弾けるか」「結局ああいう仕事ができるというのは(音大やドイツ留学に行くことができたうえでの結果という意味でも)やっぱりお金持ちにしかできんことやで」などと彼らは反論してきた。
「でも私、高校時代に吹奏楽部にいたから卒業してから音楽の方面に進んだ友達や先輩結構知ってるけど、みんな苦労してそうやったで。留学先で食器を買うお金がなくてマクドの容器洗って使ってた、とか」
 彼らはそれでも近藤さんはぼんぼんなのだ、と言った。顔を見ればわかるのだそうだ。
「しかし、熱烈なファンばっかりやな」
 夫が手に持っていたコンサートのパンフレットを見ながら言った。あべぷらんさんのコンサートはいつもこの方式である。前回のコンサートについて、観客の感想文がたくさん載せられていて結構楽しめる。みんなかなり熱心なファンぶりを発揮されている。
「ここまできたらファンというより信者やなあ。おまえもここまではまりこんだら慰謝料請求してやるからなっ」
 もうとっくに支払義務は発生している・・・
 帰宅途中、ふたりで手をつないで歩いた。「お前の今一番の悩みはなんや?」と夫はちょっとふざけた様子で言った。「どうしたら前の席で近藤さんを見られるか、やな!」と答えると「のんきやな、おまえは」
 そうだ、明日、面接の発表だった!ちょっとは心配してくれよと嘆いているのかもしれない。私は瞬時に猛省した。
「忘れてたわけじゃない・・・」
「ええんや、お前はいつものとおりのほほん、のほほんとしてたら。2人しかおらへん家で2人とも落ちこんどったらどうにもならんやろ」
 翌日来た通知には次の面接会場の地図が載っていた。それからまだいくつかの面接や試験があったが最終的に夫は無事内定を勝ち取ったのであった。30人採用のところ900人が応募してきたという難関を突破したのです!
 わーい、ばんざい!アタシ、公務員の妻、これで一生安泰!?
 次は河内長野のラブリーホールでのコンサート。しかしその日の数日前に起こったニューヨークのテロ事件。これは忘れられない出来事だった。私はアメリカの航空会社に勤めているのだ。夫の将来を案じる必要はなくなったが今度は自分の将来を案じる必要に迫られたのだった・・・

(2度目のコンサート・・・2001年9月16日)
 河内長野ラブリーホールでのコンサートだった。ちょっと不便なとこなので今回は誰も誘わずひとりで行くことに。席はまた後ろの方だがサイン会で間近に近寄れることがわかったのでそれほど落胆はしなかった。双眼鏡は家に置いていこう。(今は山でライチョウやサルを見るのに活用している。私が登山道で立ち止まって双眼鏡を覗いていると「こんなとこに近藤はおらんぞ」と、夫は相変わらず憎まれ口をたたく)。
 コンサートの5日前、9月11日。私はたまたま休みだったので夫婦で外出していて夜帰宅。すると姑から電話が。
「あっこさん!えらいことになってるで!こんな時にどこに行ってたん?」
「ふたりでらーめん食べに行ってました。大阪で一番おいしいらーめん屋て関西ウオ−カーにのってたから」
「とにかくテレビ見てみ。じゃあ!」
 姑はあわただしく電話を切った。夫はすでにテレビをつけており、大興奮の様子。「こ、これは・・・」
 巨大なビルに旅客機が激突、もうもうと煙をあげていた。やがてビルは崩れ大勢の人が逃げまどっていた。完全なパニック状態。そしてアメリカ全土の空港は全て閉鎖というアナウンスが聞こえてきた。
 しばらくして、やっぱりかかってきた。会社から電話。
「ごらんのとおりです。出勤してもらっても仕事がないのでこちらの指示があるまで自宅待機しといてください」
 上司からの電話である。私の勤めている会社はアメリカに本社がある外資系の航空会社。アメリカからの便がないとなると仕事の量は激減する。最近はアメリカ経済も不調で、なかなか厳しい状況。そのうえこんな事件が・・・。
 3日後出勤命令が出て出勤した。仕事は少ないが電話が殺到して自分の仕事どころではない。なんとか終電に間に合う時間まで仕事を仕上げると先輩が近寄ってきて言った。
「16日、出勤してほしいんやけど」
 16日って・・・近藤さんのコンサート。
「ちょっとその日は・・・前々から大事な用事があって・・・」
 断られると思っていなかったらしく先輩は露骨に顔を歪めていた。
 そして16日。少し早めに到着した私はひとりで座席に座っていた。
 やっぱり誰か連れてくればよかった。誰かと話でもしていれば気がまぎれたのに。だめだ、どうしても会社のことが気になる・・・その日は状況がやっと元の状態に戻りつつあり、今まで止めていた仕事を片付けようということで、休日出勤を命じられた人がたくさんいたのだった。こんな日にここにいてもいいのだろうか。。私は席を立ち、ロビーに下りた。みんな楽しそうだ。当たり前。近藤さんのコンサートだもんね。楽しそうなみんなを見ていると少しは落ち着いたがそれでもやっぱり・・思い浮かぶのは、「リ」で始まるカタカナ4文字。
 困る。夫はとりあえず内定は得たが、あと半年、私が養っていかなければならないのだ。近藤さんは私に夢と希望を与えてくれるが、生活の面倒をみてくれるわけではない。今日はやっぱり会社に行くべきだった・・・
 など、ぐちぐちと考えているうち開演になった。

 近藤さんは初秋の風のごとくふわりと現れた。そして前回と同じく、やさしい声でホールを満たした。
 世間はテロ事件の話題一色なのに、近藤さんはひとこともその話題は口にしない。それがものすごくありがたかった。
 演奏が始まるとすっかり全てを忘れていた私。やっぱり私にとって近藤さんのピアノは魔法なのだった。この日は1500円という低価格だったからか小さい子供づれの家族がたくさんきていた。私の近くにも子供がうようよいて、最初は「げげー、最悪」と思ったけどみんな静かに聴いてた。
 曲目は前回のフェスティバルホールと同じだったけど「月光」を最後にもってきていたので、雰囲気がだいぶ違ったように感じた。やっぱり終わりが華やかな曲の方が盛り上がっていいと思う。
 その後、心配していた「リ」の件もなんとか免れ、それどころかますます忙しくなるばかりである。なんで??やっぱりあの日コンサートに行ってよかったと、自分のまっとうな判断力に自分で感心している今日この頃である。
 日本の平和がいつまでも続きますように。自由で平和な世の中で音楽を楽しめますように。そして一刻も早く全世界が平和になりますように。

(2001年10月20日・・・大阪フェスティバルホール)
 3度目のコンサートである。またもや2階席。今回は相変わらず夫と、新たに私の母をつれてきた。私は基本的にひとりで外出する方が好きなのだが、近藤さんの演奏はひとりで聴くにはもったいないのでできるだけ誰かを誘うようにしている。
 今回のメニューはバーバーのピアノソナタ、ベートーベンの悲愴、リストのハンガリー狂詩曲やメフィストワルツなどで、個人的にはこの日のプログラムが一番印象に残っている。特にバーバーのピアノソナタ!!甘くて耳にすうっと心地よいショパンの曲などとは趣の異なった、ちょっと型の崩れた、なんとなくハチャメチャな感じのする曲だったと記憶していますが、近藤さんはきりりと端正に弾ききった。ただただ、かっこいいの一言であった。もう、どうしてそんなにいつもかっこいいの???
「ああ、すごいね、上手やねえ」
 母が隣で連発する。プロなんだから上手なのは当たり前、もっと他に感想ないの?と思っていると、
「この人、事務所辞めて外国へ行ったらいいのに」
などと言う。演奏前の近藤さんのトーク。これが母には受け入れがたかったようだ。クラシックの演奏家たるもの、人前で気安く話したりするものではない、格が下がる。こんなことをやらせるなんて事務所が悪い。などと今度は事務所の批判を始めた。演奏前のトーク・・・確かに私も初めはたまげたが、今では演奏と同じくらい楽しみにしている。いろんな意見があるだろうけど、できればずっと続けてね、近藤さん。
 サイン会はものすごい行列だった。フェスでの最後のコンサートということもあり、近藤さんはアンコールを5曲も弾いてくださった。近藤さんにとってもファンにとっても何か特別な想いの残るコンサートになっていたと思う。私もはりきって列に並んだ。
 が・・・眠い、眠すぎる、倒れそう。私はこの日夜勤あけで睡眠も食事もほとんどとっていなかったのだった。演奏中は眠くなどなるはずもなかったが、ここへきて睡魔に襲われた・・・やっとの思いで近藤さんにたどりつき、「1996」のCDを差し出した。ジャケットにはサインをしてもらうような余白がなかったからだった。
「うーん」
 近藤さんはうなっていた。CDにサインすることをあまりよくないことと思っているらしい。そしてケースからジャケットを取り出してぱらぱらめくりながらサインする場所を探してくれた。
「ここは?字とかぶっちゃうけどいいですか?」
 近藤さんが私にかけてくれたはじめての言葉であった。これは一大事である!!私は早速母と夫に逐一報告した。母はただ呆れていたが、夫は「そうか、そうか、よかったなあ」と言ってくれた。私はますますうれしくなり、
「ほらここ、これな、近藤さんが作ったしわ!」
 サインする場所を探してジャケットをめくっていたとき、近藤さんはかなりあわてていたので、少しだけ紙が折れ曲がってしまったのだった。私はその折れ曲がった箇所を指でなでながら、近藤さんのきれいな笑顔を思い返し、ひとり酔いしれていた。「ああ今日は声も聞けたわ、今度は私から話しかけてみようか、ああでもなんて言っていいのかわからないわ・・・」
「独身ですか?って聞いてみたら?」
 夫の一言で私は奈落の底に転げ落ちた。

 近藤さんが独身かどうかなど考えたこともなかった。そんなこと考えるまでもなく、当然独身だと思い込んでいた自分に気づいた。しかしよく考えてみればどこからも「独身である」という情報は聞いていない。「結婚している」とも聞いたことはないが、だからといって独身であるという確証はないではないか・・・。私は自分の勝手きままな願望を、強固な思い込みに変えてしまっていたのだ。これには我ながら驚いた。
 ある晴れた日の昼下がり。公園のブランコに腰掛けている近藤さん。ひざの上には小さな女の子。そう、その子は女の子でなくてはならない。近藤さんにそっくりなつぶらな瞳で、髪の毛はさらさらで、まさに玉のようなかわいい女の子である。やわらかな光の中で、近藤さんはゆっくりとブランコをこぎ始める。そしてあたりは幸せそうな笑い声に包まれる・・・「アハハハハ」。
 寝不足の頭でもそんな光景が容易に想像できてしまった。
「ほんまやね、どっちやろ、今度聞いてみ」
 母は興味津々な様子であった。
「そんなん知らん、知りたくもない・・・」
 私は深くうなだれた。
 と、最後は余計なことを考えてしまったコンサートであった。

(2001年12月20日・・・尼崎アルカイックホール)
 当日の早朝、私はひとりでバスを待っていた。今月も夜勤、朝日が目にしみる・・・。
「おつかれさまです」
 同じく夜勤のメンバーであるA氏もバス停にやってきた。が、ふたりとも疲れがたまって言葉少なであった。
「今日(今夜)も出勤ですか?」A氏が私に聞いた。
「今日は私の好きなピアニストのコンサートがあるので休みをとりました」
「近藤嘉宏の?」
「えっ!!なんで知ってるんですか?」
「だって昼勤のとき、机に写真飾ってたじゃないですか」
 そうである。私は近藤さんの写真を見ながら仕事をしていた時期があったのだ。みんなから「これ誰?」と聞かれたが、残念なことに誰も近藤さんのことを知らなかった・・。ところがAさんは知っていたのだ!近藤さんのことを。
「彼はJクラシック界のホープですから。当然知ってますよ」
 Aさんはかつて音楽界で働いていた人で、一時はCDも出していたことがある。今は仕事の合間に暇を見つけてライブをしているらしい。いや、ライブの合間に仕事をしているといった方が正確かも・・・なんて思っているのは私だけではないだろうが・・・ここだけの話。
 そんなAさんのライブのビデオを持っている人がいたので、貸してほしいと頼んでみたことがあるのだが、断られた。理由は「女性は見ないほうがいい」ということであった。
 Aさんによると、
「日本人のピアノの音は硬くてとがってて澄んだ音。ヨーロッパ人は歴史の重さを感じさせる重厚な音、アメリカ人は自分がかっこよく見えればなんでもあり」なのだそうだ。
「たとえばリストのような技巧的に難しいとされる曲は日本人には向いているんですよ。日本人は手先が器用だから。彼(近藤さん)のリストもなかなかいいでしょう?」
 私は感激で言葉も発せず、何度も何度もうなずいた。こんな身近に私の理解者がいた!
 そして今夜は近藤さんのリストが聴けるのだ!超絶技巧練習曲第10番と4番「マゼッパ」である。Aさんによると、アルカイックホールはそんなに大きなホールではないけれど音の響きがすごくいいのであそこで演奏したがる演奏家は多いのだそう。これはますます楽しみだ。しかも、しかも・・・!前から4列目の席でっ!!この日のコンサート、ファンクラブ会員は一般発売日に先駆けて予約ができたのだ。休みをとって朝から電話をかけまくった甲斐があった。もっとこういうことやってほしいなあ。みなさんの言うとおり、せっかくファンクラブに入ってもあまり特典がないような気がする。
 
 会社を休んで尼崎へ。休みをとったおかげで朝から夕方まで眠れた。
 しかし体調はいまいちだ。一ヶ月ほど前から胃が痛い。おかげであまり食欲がなく、やせていく一方。この日も少々胃が痛んだが、優しい音色は最高の薬になるだろうと信じつつ・・会場に向かった。
 前から4列目。。。近い、近すぎる!!やっぱり二階席とは全然違う!!近藤さん、手に届きそうなほど近い。私はじっと近藤さんを見つめた。
 あ・・今、目があった。・・・あ!また目があった。
 勘違いも甚だしく、私は隣に座っている現実(夫)のことはすっかり忘れ去っていた。Aさんの言うとおり、ホールの音響はすばらしかった。近藤さんの奏でる透明な音が十分に生かされていたと思う。近くで見るマゼッパはものすごい迫力でただただ圧倒されるばかりであった。近藤さんは甘い夢の世界に導いてくれるばかりではなく、時には圧倒的な力をもって私たちを現実から引き離してくれる。優しく微笑みつつ、強引なまでの力強さで。
 どこまででもひきずられていきたい。私は常にそう願いつつ近藤さんのコンサートに足を運んでいるのだ。ますます現実離れである。隣にはいつも現実が座り込んでいるが。夫はいつも私のわがままを聞いてくれる優しい人。コンサートでも、ヒマラヤの高山でもついてきてくれる。(ヒマラヤの山中を10日間ばかり歩くツアーにふたりで参加したことがある。夫は高山病に苦しんで大変だった。夫は苦しみながらも標高5500メートルまで私についてきてくれたのだ)
 コンサート終了後は心地よい疲労感が残った。興奮と感動で。胃の痛みも忘れるほどであった。
 あとで知ったことだが、近藤さんは数日後大風邪をひいて寝込まれたそう。私も年末十二指腸潰瘍と診断され、寝込んでいた。同じ時期に同じように寝込むなんて・・・。
 またもや勘違いも甚だしく、しあわせな気分にひたるわたくしであった。

(2002年初め)

 元旦はこたつでネコとふたりきり。夫は実家に帰ってしまった。私は2日から仕事のため、自分の実家にも帰らずにケーキを食べながらウイーンフィルを見ていた。「さあ今年もがんばって働こう!」しばらくは潰瘍の薬を服用しなければならないが会社を休むほどでもない。年末寝込んだおかげでだいぶ体力も回復してきた。
 が、一週間ほどでその決意も砕けた。おなかのあたりに赤いぽつぽつが・・・たいしたことないだろうとそのまま出勤したが、仕事中意識が朦朧としてきた。これはかなりの高熱だ。早く病院に行かなければ、と思うのだが夜勤の一番つらいところ・・・朝まで電車がないから帰れない。私はひたすら夜明けを待った。
 そして「風疹」と診断された。十二指腸潰瘍と風疹なんて。医者からも薬剤師からも同情された私は帰宅後会社に電話をかけた。完治したという証明書を病院からもらうまで会社に来るな、と言われた。ああ今年はついてないなあ。
 苦しかった。三日三晩高熱が続き、解熱剤を飲み続けた。心身ともにへろへろだったが薬はきちんと飲んだ。
 早く治さなければ!早く!私は焦っていた。近藤さんの京都でのコンサートが間近に迫っていたからだ。前から2列目。こんな特等席を空席にするなんてファンとして許されざる行為である。
 しかし神は味方してはくれなかった・・・熱は下がったものの体の発疹は消える気配もない。コンサートの3日前、ついに私は知り合いにチケットを譲った。
 1月13日、私はベッドの上で眠る努力をし続けた。でもできない。ああ、今、時計は14時(開演時間)を指している。近藤さんがステージに現れた頃だろうか、ああ、今14時30分、近藤さんは今ごろショパンを弾いているのだろう・・・、ああ・・・それの繰り返しであった。潰瘍だけなら這ってでも京都に行っていただろうが風疹だからなあ。伝染病を患った身で会場に行くわけにはいかなかった。府民ホールアルティにて風疹患者続出!!なんてことになったら大変だ。
 つらい年明けであった。でも来年4月、同じ場所でまたコンサートが開かれる!私にとって悲願のアルティである!!ありがとう、めぐみさん!!

(2002年2月14日・・・なら100年会館)
 今日はバレンタインデーである。こんな日にわざわざ関西に来てくださるなんて・・これはファンとして当然チョコレートを持参すべきだろう、とはしゃいでいたところ、
「そんなん持っていっても迷惑なだけやからやめとけ」
 夫は冷静に言った。そしてさらに、
「よう考えてみ。見ず知らずの人間からもらった食いもん、お前は食うか?」
 そうだよなあ。絶対食べないよなあ。帰るとき荷物にもなるだろうし、私があげなくても他の人からたくさんもらうだろうし・・・ということでチョコレートを持参するのはやめた。とは言ってもバレンタインデーなのだ!こんな特別な日に近藤さんに会えるなんてそうそうあるわけでもない。何かしなくては!気ばかり焦る。
 そうだ!手紙を書こう!!先月アメリカに行った時に買ってきたカード、あれに書こう!プードルがピアノを弾いている絵が描いてあるとってもかわいいメッセージカード。
 まずは下書きだ。私はワープロを押入れから引っ張り出し、キーを叩き始めた。世界中の山が崩れ、世界中の海が干上がってしまうほどの勢いで書きあげた。書くことはいくらでもある。近藤さんに伝えたいことはサイン会のあの短い時間にはとても伝えきれない。それをこの際文章にして伝えるのだ!!
 私はまっしろなカードに鉛筆でうすく線をひいた。字がゆがまないようにするためだ。さあ!いよいよ自分の想いの丈を文字にするときが来た。私は姿勢を正し、万年筆を握りしめた。
 しかし・・・そのまま凍りついてしまった。このカードに近藤さんの指が触れ、そして私の書いた文字を近藤さんの目が見つめるのだ。不特定多数の目に触れるホームページの書き込みやコンサートのアンケートとは違い、今からここに書くことは近藤さんの目にしか触れない・・・
 急に怖気づいてしまった。結局私は手ぶらで奈良に出向いた。近藤さんはいつもと変わらず素敵だったし演奏も素晴らしかった。しかしサイン会はあわただしかった。「早く帰りたいんだ、僕は」みたいな空気を全身から漂わせながら近藤さんはサインをしていた。こんなに夜遅く奈良からどうやってどこへ帰るというのだろう。やっぱり近藤さんは謎の人だ。。。
 大好きな近藤さんの「月光ソナタ」がいつまでも心に響いた。そして帰り道、月がとてもきれいだったのを覚えている。つめたい冬の夜空にぽっかり。こんな月夜に近藤さんは今からどこへ行くのだろう。私は愛しいダーリンと電車に乗って帰る。家に着いたら紅茶をいれてあげ、一緒にチョコレートケーキを食べよう。

(2002年3月9日・・・西宮市民会館アミティホール)
 あたたかい春の日差しの中、私はまたもや夫を伴い、ホールを目指して歩いていた。みんな足取り軽やか、来ている服も春の色。着物を着ている人も見かけた。着物でピアノコンサートなんて粋だな。
 今回私は前から3列目、中央より少し左寄りの席だ。ぎりぎりの時間に到着したのですぐに客席が暗くなった。そして、近藤様が出てきた。
 客席大興奮。すごい拍手。きゃーかっこいー!!黄色い声が聞こえてきそうな勢いだ。今日の客はすごいぞ・・・私はこの異様な熱気にちょっとひいてしまった。
 みんな落ち着こうぜ・・・。近藤さんが弾き終わって鍵盤から手を離した瞬間、みんな我先にと拍手をする。待ってよ、近藤さんの足を見てよ、まだペダル踏んでるでしょ??それに、聞こえないの?まだ音が響いてるでしょ。最後の一音の響きを大切に大切に響かせてくれている近藤さんの、曲に対する、私たちに対する誠意をもっと感じようよ・・・
 第一部が終了すると私は急いでロビーに走った。9月のチケットを発売しているらしい。でももう前の方はあいてないだろうな。
 だが!あいていた。最前列が。やや右寄りなのがちょっと気がかりだったので売場の人に聞いてみた。大丈夫、顔はばっちり見えますよ、ということだったので即購入。でもほんとはもう少し後ろの方が音はいいですよ、とのアドバイスもいただいたがやっぱり私は近くで聴きたい。2階席で双眼鏡をのぞきこんでいた私が、ついに手に入れた一番前の席!あの時あんなに夢見ていた席をゲットしたのだ!思い続けていれば夢はかなうのだ。そんな感慨を胸に座席に戻った。すると夫が、
「おい、なんやねん、今日の客。こいつらは音楽を聴きにきてるのか、近藤の顔を見にきてるのかどっちやねん」
「あんたもそう思う?ひどいよな、まだ音聞こえてるのに拍手するんやもん」
「余韻も曲の一部分。曲の終わらんうちに拍手をするのは失礼やと思うなあ」
 私も全く同感であった。
「オレはな、音楽を聴きにきたんや。お前みたいに近藤の顔を見にきたんと違うんや」
「私だって顔だけ見にきたんと違うわ」
「じゃあなんでこんな前の席買うたんや。音を聴くならもっと後ろの方がええんとちゃうか???」
 さっきチケット買ったときも売場の人にそう言われたなあ。
「9月は・・なんと一番前やで!!!」
 それでも私は嬉しくて夫にチケットを見せた。
「誰と行くねん」「もちろんあなたと!」
「知らんな。オレはその頃立派な社会人やからな。もう今までのオレとは違うんや。忙しくて忙しくてコンサートなんか行ってる暇ないわ」
 などといつまでも憎まれ口を叩く夫であった。
 第2部も相変わらず熱かった。後ろの席のおばさまは「マゼッパ」の演奏中何度も「すごいすごい」と叫んでいたし。ちょっと違うんだよなあ。同じ曲でもホールや座席やお客さんで全然雰囲気の変わったコンサートになるのだということを学習した。

(2002年4月6日
今日は私の妹の結婚披露宴の日だ。妹といってもダンナの妹なのだが、男兄弟しかしない私にとっては唯一のかわいい妹である。
「自分の居場所がほしいとずっと思っていた」
妹は披露宴の席で最後にそう言った。
 高校生の頃に両親が離婚し、兄は大学進学で家を出、弟は母親の家に行くことになったので、離婚の混乱の中で父親を励まし、実質的に家を支えてきたのは妹であった。
 そんな妹が突然ひとりの好青年を連れて我が家にやってきたので、貧乏な私たちは4人で近くの公園へ行き、焼肉をした。彼は立派なカメラを持参していたが、兄夫婦である私たちの写真はそこそこに、妹の写真ばかり撮っていたものである。 かなりのスピード結婚でこちらは少し驚いたが、彼があまりにも好青年だったため、誰にも不安がられず、反対もされることなく結婚話はとんとん拍子に進んだ。
 今日はそんなふたりの晴れ舞台。人一倍苦労をしてきた妹が迎えるしあわせな日だ。
本当は両親そろって祝ってほしかっただろう。でも諸事情により、両親、親族ほとんどを呼ばない披露宴になってしまった。
 私と夫と弟の3人だけが親族。代表としてできること。最終的には手紙を朗読しようということになった。新郎の両親から新郎へ、新婦の両親から新婦への手紙。 近藤さんのピアノは新郎あての手紙を読む際に使わせていただいた。井上陽水の『少年時代』。私は近藤さんの弾くポップスがすごく好き。ファンになったのもポップスも弾けるから、というのが大きな理由だし。もちろんクラシックも素敵だけれど、クラシックしか弾かない人だったらここまで惹きこまれていなかったと思う。ポップス曲を弾くときは、どんなふうに曲作りをするんでしょうね・・・。クラシックのように曲の構造とか形式とか作曲者の心情とか、その当時の時代背景とか考えたりするんでしょうか。 
 違うと思うんだけどなあ・・というか、違ったら嬉しい、という個人的な願望です。この曲が流行っていたころ、近藤さんがどんなことをし、どんな気持ちでいたんだろうとか考えながら聴くと楽しい。また自分も「ああ、あの時は楽しかったな」とか「失恋中だったなあ」とか思いながら、そして最終的には「ちっぽけなわりにはあたしって結構がんばって生きてるじゃん」なんて気になってる。
「共働き家庭で面倒もよく見てあげられず反省しています。でも両親を尊敬していると言ってくれたことはとても嬉しかった。あなたがしっかりと自立し立派な仕事に就いたこと、すばらしい女性にめぐり合えたこと、心から誇りに思っています」
 手紙は「少年時代」の記憶と共に新郎の心に強く、いつまでも残ったことでしょう。あとで新郎から言われました。「ピアノ曲がよかった」って。「手紙がよかった」とは照れくさくて言えなかったかな。私にとって一番の近藤さんだけど、今回だけはひきたて役にまわってもらった一日でした。

(2002年5月12日・・・シンフォニーホール)
 今日はライオンズクラブの主催する「チャリティーコンサート」。母なる地球を守る、とのことで、ライオンズクラブでは様々な環境問題に取り組んでいるらしい。大自然のもとで遊ぶのが好きな私だが、気をつけていることといえばゴミの分別くらいのものか・・・。ペットボトルはふたをはずしボトルは中を水洗いしラベルをはがして捨てている。それと山へ登った時はたとえ目の前にゴミ箱があったとしても捨てない。全部持って帰る。日帰りなら苦にはならないが縦走で何日も山にこもるとなるとゴミの軽量化は切実な問題。とにかく持っていかないようにする。あっという間に部屋はゴミだらけ。レトルトカレーの箱、カップラーメンを覆っている薄いビニール、ビスケットの箱、チョコレートの包装紙、割り箸の紙袋、トイレットペーパーの芯・・・。
 そこでひとこと述べたい。この日のコンサートは、あらかじめチケットを購入してさらに当日、座席券と交換ということだった。こんな無駄なことがあるだろうか。チケットを購入した時点で座席券とすればいいではないか。チケットだけでも大量の紙とインキを消費しているのにそのうえ座席券とは。「母なる地球を守る」というエコ精神に、どう考えても反しているのではないか。
 まあいい。今回だけは目をつぶろう。近藤さんのピアノが聴けるのだから。
 5月12日と言えば母の日。私はもちろん母を誘い、心の準備は万端であった。 しかし・・・行けるかどうかわからなくなった。体調がおもわしくない。とにかく体がだるくておそろしいほど眠い。今までに感じたことのない倦怠感。ある日とうとう会社を休んで寝込んだ。昼過ぎになってようやくはっきりしてきた意識の中で突然ひらめいた。「もしかして!!!」
 翌日病院へ行った。妊娠2ヶ月。どうしよう・・・。結婚5年目にして初めて授かった命だが、私にとっては予定外のことだった。
 やっと夫が就職して心身ともに自由になった。もっと遊びたい。ふたりでいろんなところに出かけたい。仕事だって大事。貯金もしなくては。全てがこれから、というとき。夫は慣れない仕事でおまけに超多忙な部署に配属されたため毎日午前様。帰りの遅いのは私だって同じだ。こんな状況でどうやって子育てしろというのだ・・・。 会社には同世代の女性がたくさん勤務しているが、子供を産んだ人はいない。それどころか結婚している人もほとんどいない。
 出勤し、上司に事情を説明し、産休と育休を使う事を伝えた。その日から私はあらゆる力仕事を免除された。会社側は妊産婦に対する就業規則を再検討してくれ、冊子にして全員に配布してくれたし、私が産休育休中の間だけの契約社員を雇う手配もしてくれた。
 上司だけではなく同じ現場で仕事をしている人たちも妊娠を喜んでくれ、涙を流してくれる人までいた。もちろん親も親戚も大喜びで電話やファックスが毎日のように届いた。
 周囲が盛り上がるほど私の心は曇った。こうしなくちゃならない、そんなことしてちゃいけない、あれはだめ、これもだめ・・・。山のような忠告。会社での気疲れも大変だった。私が半人前になってしまったことによる、他の人へのしわ寄せ。そして新たな不安。産休育休中にもみんなはどんどんキャリアを積んでいくのだ。私が復帰した頃、同期はみんな私よりもワンランクもツーランクも上の立場にいるのかもしれない。子供を抱えた身でみんながいる場所まで追いつけるだろうか。 ばかばかしい悩みだ。他人からも言われたし自分でもそう思った。「生まれてしまえばそんなことで悩んでいたことなんかすぐに忘れてしまうって」
  ・・・そうかなあ、そんなもんなのだろうか・・・
「子供が生まれることは何よりも最高に素晴らしいこと」
  ・・・子供が好きじゃなくて、ほしいと思ったことがない私でもそう思える?? どうしても手放しで喜べなかった。
 子供がいる毎日。落ち着かない日々。夜中に3時間ごとに起きてミルクを与える自分。言葉も通じない、ただうるさく泣き続けるだけの生き物とふたりきり、だんなの帰りを待つだけの日々がもうすぐやってくる。
 仕事も半端、遊びも半端。今年の夏は山に登ることも出来ない。近藤さんのコンサートもとりあえず5月6月は行けないだろう。妊娠初期に人ごみの中に出かけるなんてできない。つまらない。どうして子供なんかできちゃったんだろう。
 そんなことを考え続けているとますます自信がなくなってきた。愛情をもって子供を育てる自信。来年の今ごろ、きっと私はストレスのかたまりみたいになっていろんな人に八つ当たりしている。もしかしたら幼児虐待なんかしているかもしれない。
 通勤電車の中だけが安心できる場所になった。家には親からの電話やファックスが、会社では肩身が狭い。気晴らしに旅行もできない、お酒も飲めない。今日は疲れたから、とコンビニ弁当やインスタントラーメンですますわけにもいかない。コンビニ弁当にどれだけたくさんの食品添加物が入っているか・・・養護学校で教師をしている姑から何度も聞かされた。

「成長が遅いですね。予定日ちょっと遅れるかもしれません。でも心配ないですよ」
 3度目の検診で言われた。超音波写真を見せてもらったが、顔かたちどころか心音すら発見できない。うっすらとしたかたまりが見えるだけ。前回の検診とちっとも変わっていない。何をしてるんだろう、この子は。私はあなたのためにこんなにも我慢しているのに。
 きっと母親に似てトロい性格に違いない。きっと頭も悪くて要領も悪くて勉強もできなくて私を悩ませ続けるに違いない。子供に翻弄されるつまらない人生・・・。 唯一安心できる場所だった通勤電車の中ではずっと近藤さんのCDを聴いていた。
 これから先の人生がつまらないのではない、こんなことを考える自分自身が、子供の誕生を心から喜べない私という人間がつまらない存在なのだ・・・。きれいなピアノの音が私の心の汚さをぐんぐん浮き立たせていくようだった。つまらない自分。近藤さんはあの透明なガラスのような音で私の心を容赦なくぐさぐさ突き刺してきた。あまりに痛くて、とうとう私はCDを聴けなくなってしまった。そして4度目の検診。
「もうだめですね、とっても残念だけど」
 私の中に宿った命は全く成長していない。
「これほど遅いということはありえません。今度どうするか決めましょう」
 もともと心音が確認できていなかったので生死についてははっきりわからないが、これほどまでに成長しないということはすでに死んでしまっているのだろう、とのこと。若い女医さんが淡々とそのことを私に告げ、私も淡々と聞いていた。それから夫に「流産だって」とメールを打ち、美容院に行って髪を切り、明るい色に染めてもらった。電車を降りると雨が降ってきたので傘をさして歩いた。住んでいるマンションが見えてくると急にのどがひりひりしてきたので目の奥に力を入れて歩いた。
 玄関を開けた。もう薄暗くなってしまった部屋。テーブルの上には気の早い友達からのプレゼントの箱。それには黄色いクマのぬいぐるみが入っている。
 箱を倒してみると音がした。からんからんからん。赤ちゃん用のおもちゃってみんなこんな音がするように作ってある。遠い昔にきっと自分も聞いていただろう音。そんな昔のことは記憶に残っているはずがないのに、その音はとても懐かしく思えた。もう一度倒してみた。からんからんからん・・・。
 目の奥から次々とかたいかたまりが転がり落ちた。涙だった。それは真珠の涙でもガラス玉のような涙でもない、安っぽいプラスチックかなにかでできたような涙だなと思った。こんなに泣いたことは今まであっただろうか。体の中から声まで出て、息苦しくて気が遠くなるほどに。
 どうしてこんなに泣けるのだろう。妊娠してから今まで自分がいつも考えていたことを心の中で何度も繰り返してみた。
・・・予定外の妊娠だった、愛情をもてるかどうか自信がない、どうして出来ちゃったんだろう。

 泣く必要も理由も思い当たらない。また普段どおりの生活に戻れる。仕事だってできるし旅行だって行ける・・・。
 自分の願っていたとおりの結果になった。お腹の赤ん坊は思ったよりもずっと頭がよかった。親の気持を察したか、もしくはこんな親のもとに生まれてきても仕方ない、と見切りをつけたのだろう。
・・・ごめんなさい。私があなたを殺しました。

 その2日後、シンフォニーホールでのコンサートがあった。「信じられない」と批判されるかもしれないが、私はコンサートに出かけたのだ。もちろん座席交換券待ちの列に並んだ。一時間以上立ちっぱなしだった。そこまでしても聴きたかった。どうしても聴きたかった。近藤さんの演奏を。お腹の中にいる我が子と思い出を作りたかったから。生きているかどうかわからないけれど生きていると信じて。私がこの子に聞かせてきた音と言えば、通勤電車のがたごとという音と会社でけたたましく鳴り続ける電話の音くらいだった。一度くらいきれいな音を聞かせたい。この世の美しいもの、私が美しいと信じているものを教えてあげたかった。
 柔らかな光がステージを照らしている。まもなく始まる。
  今日はおばあちゃんも一緒だよ。もうすぐ始まるよ。
 光の中で近藤さんはショパンを弾き続けた。ノクターン、ワルツ、エチュード、バラード・・・今日の演奏はオールショパンである。私たち親子の最初で最後の楽しい一日。
 しばらくCDも聴いていなかったので、久しぶりに聴くピアノの音だった。いつもなら夢見ごこちで聴く近藤さんの音。でもこの日は本当に身にこたえた。美しい音色は私にいろんなことを思い出させた。
 今日は母の日。今となりに座っている私の母。やっと孫ができる、と小躍りして私を抱きしめてくれた母の姿を何度も思い出した。あんなに楽しみにしていたのにこんなことになってしまってごめんなさい。光の中の近藤さんが何度も涙でくもって見えなくなった。
 エチュード第3番ホ長調作品10−3、「別れの曲」 あとで知った話だが、近藤さんはこの曲を『別れ』の曲だと思って弾いていないそうだ。悲しい曲ではなく、むしろ『結ばれる』方に近い感じの曲だと。
 違う。私にとってこの曲はやっぱり悲しく響く。近藤さんの弾く『別れの曲』。あまりにもせつなくて美しくて、いつ聴いても何度聴いても悲しくてたまらなくなる。
「別れの曲」なんて弾いてほしくなかった。
 それでもピアノは響き続け、私の頬には涙が幾筋もつたっていった。
 休憩後、後半の演奏はスケルツォ第2番とピアノソナタ第3番。前半は終始めそめそしていた私だったが、後半の2曲、特にピアノソナタの演奏中は、1楽章、2楽章と曲が進むにつれ、手を握りしめ身を乗り出すような勢いで聴いていた。ただ無心に。耳や頭や心で聴くのではない、体全体で聴いているような感じだった。4楽章の力強さ、近藤さんの一糸乱れぬ、端正で迫力ある演奏に体が震えるほど感動した。

 演奏が全て終わり、抽選会に入った。生ゴミ処理機が5人に当たるという。この企画はライオンズクラブのエコロジー活動の一環のようだ。
「大丈夫?」
 母が心配そうに私に聞く。
 疲れた、本当に疲れた。別れの曲で泣き、最後のピアノソナタでは全身全霊を傾けた。
「ちょっと疲れたな。それにしても生ゴミ処理機とはなあ。てっきり近藤さんと握手でもさせてもらえるのかと思ったわ」
「いやあ、私はゴミ処理機がええわ」
 母は生ゴミ処理機を本気で欲しがり、近藤さんがくじを引くたび目を見開いていたが、結局当たらなかった。
 帰り道、空を見上げた。5月の空は青くて、風はあたたかくて優しくて、木々は青々として風になびいていた。
 気持ちいいなあ、この陽気。そんなふうに思えたのは近藤さんの演奏から力をもらったからだろう。すごく楽しかった。すごくいいコンサートだった。すごくいい一日だった。きっとお腹の子もそう思ってくれたと思う。

 その2日後、検診に行った。「次で決断しましょう」。前の検診時に言われた言葉を思い出し、私の心は真っ暗だった。
 「あれっ、大きくなってますよ!」
 信じられなかった。何週間も成長の止まっていた赤ちゃんが少し大きくなったのだ。もうだめだと言われたのは4日前。たった4日の間に何があったのだろう。私の中に宿っている小さな命は「生きよう」と頑張りはじめた。
 「これから育っていくのかもしれない。望みは捨てないで頑張りましょう」 先生はそう言って、薬を出してくれた。
「会社は休んだ方がいいですか?」「出来るならそうしたほうがいいですよ」「診断書を書いてください」
 キャリアアップがなんだ。こうなったらとことん休んでやる。私はその日から家で三食昼寝つきの生活に入った。一日中近藤さんのCDを聴きながら。きっとこの子はショパンを口ずさみながら生まれてくるに違いない。そう言うと夫は苦笑いしつつ、私のお腹をなでながらつぶやいた。
「頼むから音大に行くなんて言うなよ、ドイツに留学なんて言ってくれるなよ。うちにはそんな余裕はないぞ」
「なあなあ、名前、嘉宏にしようか」「女かもしれへんやろ」「じゃあ、嘉か宏かどっちか一文字もらおう」「あかん」「なんで?」「音大に行かれたら困るやろ」「頑張って働いて稼ぐから!」「とにかくあかん」「なんでえな。今度サイン会の時に了解得てくるわ、一文字もらっていいですか、って」「とにかくあかんと言ったらあかんのや!」
 でもそんなしあわせな日々は一週間ほどで終わりを告げた。

 一週間後、手術台の上にあがった。手も足もベルトで固定され、麻酔を打たれて気が遠くなった。
 自分のうめき声で目がさめた。いつのまにか病室に戻されていた。両隣には陣痛をこらえる妊婦さんたちが横たわっていた。入れ替わり立ち代り看護婦たちが彼女たちの様子を見に来る。私のところには誰も来てくれない。
 どうして私だけがこんな目にあうのだろう。真面目に生きてきたのに。自分なりに一生懸命勉強してきたし、親を泣かせたこともないし、そこらへんの女より仕事も一生懸命やってきたのに。みんな何の苦もなく子供を産んで幸せそうに暮らしているのにどうして私だけできなかったんだろう。普通ならこんな時に感じる感情ではないのかもしれないが、その時の私の心は敗北感でいっぱいだった。
『ねえねえ、僕んとこの子、ひときわかわいいでしょう!』
 病室の隣に新生児室があるらしい。若い男が看護婦を呼び止めて何度も何度も叫んでいる。くやしくて、また泣けてきた。
 早く帰りたい。夫にメールした。『今、どこにいるん?』
『部屋の外』すぐに返事がきた。まだ完全に麻酔の覚めない体で外に出ると椅子に座っていた夫が立ち上がってにこっと笑った。隣には不安そうな顔で両手を合わせている男の人が座っていた。きっと妊婦さんのだんなだろう。「ごめんなさい」やっぱり謝ってしまう。「おまえのせいじゃないやろ」って何度も夫は言ってくれていたのに。
「なあんも心配しなくていい、なあんも悪くない、どんなことがあってもずっと僕がついているからナ」夫が手術の前にくれたメール。
 ・・やっぱりごめんなさい。病院の廊下でぼろぼろ泣いてしまった。「おまえのせいじゃないやろ」と夫は困惑しながらまた言ってくれた。この人がいてくれてよかった。つらいのは自分だけじゃないんだ、そう思えた。悲しみが半分になるんだ、この人と一緒なら・・。
 近藤さんのピアノにすがりついた一週間だった。その音色はわずかな期待をつなぎとめる勇気をくれた。夢と希望を与えてくれるその音に私はいつまでも恋していたい。そして2002年5月12日、わずかな間だったけど一生懸命生きようとした小さな命とともに聴いたあの日の演奏を、私は生涯忘れないだろう。

(2002年6月22日・・神戸新聞松方ホール)
 今回は会社の人と3人で行くことにした。待ち合わせの大阪駅に着くと彼女たちは既に来ていて、私を見るなり声をそろえた。「おおっ!目が違う!」
 当たり前である。近藤さんにお会いできる日なのだから目の輝きが違ってくるのは当然だろう。しかし彼女たちが言うのは私のアイメイクが違うということだった。私のメイクも違うが彼女たちもいつもと違う。きれいな服を着ておしゃれしている。今日はピアノを聴きに神戸に行くのだ。会社(大阪の南端、泉州沖に浮かぶ孤島、そして日ごとに沈みゆく・・)に行くのとはわけがちがう。
 神戸駅に到着。海の香りに導かれながらホールへ向かう。松方ホールは神戸新聞のビル内にあり、きれいで明るくてロビーの窓からは海が見渡せる、なかなかおしゃれなところである。
 今回は終演後にティーパーティーがあるという。近藤さんとお茶?小心者の私はすっかり萎縮してしまい、チケットをとうとう買わなかった。それにこのパーティーは100名限定ということで、思い浮かんだのが「定員枠にあぶれて悲しむお嬢様方の顔」だった。100人なんてすぐにいっぱいになるだろう、私が行けば誰かが行けなくなる。近藤さんだって既婚の女より独身女性に来てもらった方が嬉しかろう・・・というわけで私は涙をのんで身をひいた。これがなにわの心意気である。
 そして開演。明るくなった舞台に近藤さんが現れた。まっかなシャツで。思いがけない出来事に私はすっかり動揺してしまった。なぜにゆえにそんなあかいふくをきているの?
 でもかっこいい!!私はしばらくぽおおおっとしたあと、隣の二人に声をかけた。「かっこいいでしょー?」
 彼女たちは私の問いに答えることもなく、話をそらした。
「Yさんに似てる!」 なるほど!!Yさんというのは会社の先輩だ。そう言えば似てる。かなり似ている。確か歳も近藤さんと同じだ。
「ほんまや、似てるなあ」私が同意すると彼女たちもそうやろそうやろ、と喜んだ。
 Yさんは典型的な「癒し系」である。整ったきれいな顔で目許は涼しげなのに、雰囲気はぽわわぁんとして、笑う時は「えへへ」と照れたように笑う。必要なことしか話さない静かな人で、一緒にランチ(毎日愛妻弁当持参)してもひとことふたことしか話さない。でもたまに放つ言葉がすごく面白かったりする。結構辛辣だがユーモアがあるのでちっとも怖くない。そんな人である。
 毎日顔を合わせているのに私はYさんのことを近藤さんに似ているとは思ったことがない。どうしてだろう。実は私は今までYさんのことをひそかに『昔の彼氏に似ているな』と思いながら見ていたのだ。
 Yさん=近藤さん、Yさん=昔の彼氏、ということは近藤さん=昔の彼氏という式も成り立つのではないか・・・
 真っ赤な服着てピアノを弾く近藤さんを見ながら、私は遠い昔の日々の記憶へと引きずり込まれていくのであった・・・

 ひどい男だった・・・
 彼はたびたび自分の夢を私に語った。「25までには結婚したい。子供は女の子ふたり。バイオリンを習わせて、ピアノは僕が教える。クリスマスには家族で音楽会をしよう」
 絵に描いたような平和で豊かな暮らし。私は家族で音楽をたしなむような家庭には育ってはいない。そんな私には彼の描いた夢はとてつもなく美しく思えた。彼はその後も何度もこの夢を語ってくれた。音楽会のメンバーには当然私も含まれているらしかった。彼ははっきりとそのことを言葉にし、私の両親にも会ってそう言ってくれた。でも彼は私から去っていった。私にも自分の親にも行先を告げずに、ある日突然姿を消したのだった。親がやっと行方をつきとめたとき、彼は女の人と暮らしていた。
 まだ二十歳を少し過ぎたばかりの私には、こういう場合の対処の仕方がわからなかった。ただ相手を責め立てるだけしかできなかった。彼は私のそんなところが嫌いだと言った。私も彼が嫌いだった。不満をぶつけてもただ黙ってやり過ごそうとする。その時に向き合おうとせず、時間が経ってから手紙をよこして愚痴る。話し合おうとして会っても、全然違う話題を持ち出してごまかす。そしてなんとなく仲直りしている。彼とつきあっていた2年と少しの間、それの繰り返しだった。
 そんな男と近藤さんが似ている?赤い服着てショパンを奏でる近藤さんを改めて見た。しかしどんなに見つめていても私が立てた勝手な「近藤さん=彼」という式は成り立たない。もう昔のことだから彼がどんな顔をしていたのか、細かいところまでは覚えていないというのが正直なところだが、今まで近藤さんを見ていても彼のことを思い出しはしなかったのだから、やっぱり似ていないのだろう。
 ただ、共通点はある。年齢が一緒なのと、ピアノが上手だったことだ。5歳の誕生日に親にねだってピアノを買ってもらい、それから大学受験までずっとピアノを習っていた彼のピアノの腕は大したものだった、と思う。大学に受かって地方から大阪に出てきていた彼は、黒淵のめがねをかけていて本ばかり読んでいて、「おとなしくて真面目な先輩」としてしか私の目には映らなかったけれど、つきあい始めてからは「本ばかり読んでいる地味な人」ではなく、意外と多趣味で彼独自の世界を持っている人だということがわかった。
 「好奇心は旺盛で今までいろんなことやってみたけど、実はあんまり長続きしたことない」と彼は照れくさそうに言っていたけれど、「大学出たらピアノはもう一度習おうと思ってる」と言っていた。ピアノという楽器は彼の心の中では特別な位置を占めていたらしい。
 私より早く大学を卒業した彼は郷里に帰ってしまったので私たちは遠距離恋愛になってしまったけれど、私はなぜだか寂しいとは思わなかった。今思えばそれほど深く彼に執着していなかったのだと思う。『少し距離があった方がいい』、当時の私はそんな考えだった。愛だの恋だのと大騒ぎするなんてみっともないと思っていたのだった。それに恋愛以外にも楽しいことがたくさんあった。大学生活やバイト、趣味で入っていた吹奏楽団の活動、友達との旅行やコンパ・・・彼と会わない間も退屈することはなかった。

 実家に帰ってからの彼は、正直に言って・・・魅力が半減した。大阪にいる頃は多趣味でいろんなことを話してくれたのに、「休日は退屈」だと言って電話をかけてくるし、毎日手紙をよこしては「今度はいつ会える」と迫られた。「家族で音楽会」の夢を語る回数も増えていった。まだ若かった私にはとても結婚なんて考えられなかった。しかも今の生活を全て捨てて、単身で異郷の、しかも田舎の暮らしに飛び込む勇気はなかった。
 休日の彼は本当に退屈そうで、私はいたたまれなくなって聞いた。「ピアノを習うんじゃなかったっけ?」
 しばらくして手紙がきた。「ピアノを習うことにした」と。これで一安心、休日に彼が退屈することもなくなるだろう。ところが次の手紙。「僕はもう基礎を習う必要がないらしいから、先生が自分の好きな曲を弾きなさいって言うんだけど。今度の練習までに楽譜を用意しないとなんないだけど、何がいいと思う?」
 自分の弾く曲くらい自分で決めればいい。「さあ、私はピアノ曲のことは知らんから」。
 一ヵ月後、彼に会いにいった時、彼は意気揚揚と私の前でピアノを弾いた。メンデルスゾーンの「結婚行進曲」。彼が自分で選んだ曲だった。
「なんでも弾いてあげる」。彼の笑顔に私は戸惑うばかりだった。
「じゃあ、エリーゼのために」
 もちろん彼は完璧に弾いてくれた。「次は?」「・・・乙女の祈り」「次は?」「トルコマーチ」私の持ちネタはここまで。彼はふたたび「結婚行進曲」の練習に入った。
 別れるまで何回も何回も聞かされ続けた。彼の弾くこの曲を。
 近藤さんも誰かひとりのために弾いたことがあるのかなあ。誰かひとりのために選んだ曲は何だったのだろう。やっぱりショパンだったのだろうか。今日弾いている中に入っているだろうか・・・などと思いながら私は客席から近藤さんを見上げていた。
 ずっとこのままこの人のピアノを聴き続けていたい。近藤さんがなんの不安も抱くことなく、音楽が好き、ピアノが楽しい、と思いながら弾き続けてくれるとなおよい。彼に対しても同じ思いを抱くことができたらよかったのに。私はピアノを弾いている彼の顔を見たことがあっただろうか、彼の弾く曲に真剣に耳を傾けたことがあっただろうか。
 私の記憶の中での彼はいつも私に背中を向けていた。遠距離恋愛で、会える時間が限られているのに彼はいつも朝早くから起きてピアノを弾いていた。私が見つめていたのはピアノを弾く彼の、背骨。服ぐらい着ればいいのに。起きたままの姿で彼はピアノを弾くのだ。次々と響くピアノの音を、私は毛布にくるまりながら夢うつつで聴いていた。
 別れる直前、彼は作曲にのめりこんでいた。「技巧的に難しい曲だけが名曲じゃない。簡単な曲でも情感豊かできれいな曲がいっぱいある。そんな曲を作りたい」彼は私のために曲を作ってくれた。2曲も。ブルグミュラー程度の技術があれば弾けるという。そしてその曲を私にも弾けるようになってほしいとのことだった。 その一ヵ月後、私たちは実質的破綻を迎えた。だから彼が私のために作ってくれたという曲を、私は聴くことができなかった。

 私のために曲を作ってくれたんじゃなかったっけ?彼は別の女の人と暮らしていて、その数ヵ月後にその人と結婚してしまった。
 今になって思う。いろんなピアノ曲を、ピアノの素晴らしさを近藤さんに教えてもらえるようになった今だから思う。彼が作曲したその曲を聴いてみたかった。今だったら「なんでも弾いてあげる」と言ってくれた彼に山ほどリクエストできただろうに・・・
 惜しいことしたな。
 そんなことを考えながら聴いた、ちょっとせつない気分のコンサートだった。今彼はどうしているのだろう。今でもピアノを弾いているのだろうか。愛する人のために。そしてクリスマスには音楽会などしているのだろうか。
 結論。「近藤さん=彼」という式は当てはまらない。近藤さんは近藤さんだ。
 あんな男には似ても似つかない。似ててたまるものか。
 結論2.私はピアノを弾ける男に弱いらしい、どうも。

 
クレオ大阪にて  2002.9.15

 2002年9月15日、夢がかなった。憧れのあのひとがピアノを弾く姿を一番前の席で見つめた。今日のメニューはショパン、ベートーベン、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ、リスト。
 14時になった。客席が暗くなった。いよいよ始まる・・・。
 近藤さんが歩いてくる。今日は一番前の席だから聞こえる。あしおと、椅子に腰掛ける音、服がこすれる音。そのすべてが私の夢である。
  初めはショパンの曲が続いた。耳慣れた「別れの曲」。この曲を聴くとやっぱり悲しくなってしまう。なぜだろう。それは近藤さんが弾くから・・・。すごく透明で静かな静かな旋律。あまりにも美しくてせつなくてさみしくて、どう表現すればいいのかわからない・・・。心の琴線に触れる、とはこういうことをいうのかな。
 次はベートーベンの「熱情」。実はあまり好きではなかった曲。でも今日は特別。私と近藤さんのあいだには、さえぎるものは何もない。そこにはただかすかな秋の気配を含んだ空気が横たわっているだけ。私はずうっと近藤さんの顔を見上げていた。 ピアノに立ち向かう近藤さんの、こわいほど真剣で、思わずたじろいでしまうほどに強いまなざし。鍵盤を、自分の指の動きを、ただひとつの曲を、世界を・・・見つめ続けるひとりの男の強い意志。
 ・・・ああ、好きだなあ。こういうの。
 「ブラボー!!」客席から声があがった。割れんばかりの拍手に包まれ、近藤さんは立ち上がった。熱情・・・演奏はその名にふさわしいものだった。
 そして第2部。今度はしっとりと甘い世界へ。「ヴォカリーズ」、「水の戯れ」、そして「月の光」。
 私は目を閉じた。すぐ近くに感じる近藤さんの気配。これはやっぱり夢ではなかろうか・・・やわらかなピアノの音色がまるで水のようにからだの中をするすると流れていく。
 やがて無色透明無音の殻の中に閉じ込められたような気分になった。近藤さんが丁寧に丁寧に作ってくれた殻の中。まもなくすべてが透きとおり、溶けてなくなった。。。自分の存在までもが。 最後はリスト。私は近藤さんの弾くリストがこのうえなく好きだ。愛している。リストを弾いている近藤さんには絶対服従。圧倒的な力で近藤さんは私を現実世界から連れ去ってくれる。それはもう有無を言わせぬ、ものすごい力で。私はどこまででもひきづられていく・・・快感。
 アンコールは2曲で終わった。もっともっと聴いていたかった・・・ コンサート後のサイン会。たとえ営業用の笑顔でも、一瞬、近藤さんは私だけを見つめてくれるのだ。たとえば、その瞬間世界が滅びたら、私たちはともに滅び、それがふたりにとっての最後・・・すなわち「永遠」になるのだ。「今日は一番前の席で見てたんです」 そう言うと近藤さんは、視線を上げて私を見た。「あっ、そうなんですかあ」 営業用でもいい。近藤さんの笑顔はいつだってどんなときだって最高。すごくすごくきれい。
「夢を見てるようでした」 私は思ったままを伝えた。だってほんとに夢みたいだったんですもん。「そうですか?ありがとうございます」 ああこれも夢?夢ならどうかさめないで。
 あなたは私の愛の夢。永遠に・・・

ブカレストフィルと共演 / 2002.11.19(加古川市民会館)&11.22(神戸新聞松方ホール)

加古川!(開演前レポート)
 今回は残念ながら雨模様。電車を降りて改札へ向かっていると前方に近藤さん発見!!!緑のシャツに黒いリュックを背負って歩いてる。しかしその隣には・・・寄り添う若い女の姿あり。うーむ、やっぱり・・・
 めぐみさんだった。その行動力、さすがである。私はこっそりトボトボと二人の後ろを歩いていた。改札口で近藤さんを見送っためぐみさんに声をかけた。「今、近藤さんがいたのに!話しかければよかったのに」と言われたけど、いえいえ、私にはそんな勇気はございません・・・。めぐみさんに別れを告げ、改札を通り抜けて行ったときの笑顔、素敵でしたよぉ。いつでもさわやかで礼儀正しい近藤さんでした。
 めぐみさんと一緒に乗り越し清算をしているともうひとり。名古屋から来られた楓さん。今回は名古屋からはおひとりなのだそう。三人でタクシーに乗って会場へ。Mintさん、さくらさんともお会いできて嬉しい!!
 公開レッスンなるものが始まった。私はピアノ弾けません。近藤さんのお顔が見られればそれでいいの。Mintさんは楽譜とペンを取り出し、模範的レッスン生。「こんな難しい曲、困るわあ」と言いつつとても嬉しそう。
「僕は教えるの好きなんですよ」と近藤さんがピアノの前で笑う。「いやあん、あたしにも教えてえ」さくらさんと私。めぐみさんは背筋を伸ばし、冷静に近藤さんを見つめている。ファンのあり方も様々である。
 一曲目は「スカルボ」。生徒さんは背の高いきれいな女の人だった。顔だけでなく弾き方もきれい。論理的思考をもって、楽譜を読み、知的な演奏をされる人。二曲目はラフマニノフ。先ほどの人とは違う人が弾かれたのだけど、きれいな音で情感豊かに力強く弾く人でした。近藤さんも「きれいな音ですね」とほめてらっしゃったけど、そのとおり。専門的なことはよくわかりませんのでレッスンの内容についてはこれ以上は書きようにも書けません。他の方のレポートをお読みください。レッスン中、何度か近藤さんがお手本演奏をされましたが、ちょっと鍵盤に触れただけなのにすっごいきれいな音が出てびっくり。同じ楽器なのに弾く人によってこんなにも違う音が出るなんて。。
 レッスンのあとはトークショー。最後は質問時間もあり、「なんでも答える」と近藤さんはおっしゃっていましたが、出た質問は音楽のことに関することばかり。とても「嫌いな食べ物はなんですか」などと聞ける雰囲気ではなかった・・・「ピアノ以外に好きなことは」「休日は何をしてるのか」「小さい頃は何になりたかったのか(やっぱりピアニストだったのかな)」ひとり心の中で叫ぶにとどめた。
 レッスンが終わり、開演までの約4時間、めぐみさん、Mintさん、桜さん、楓さんとホール内のレストランで食事&トーク。近藤さん情報満載で、私にとってはこちらの方が有益でした。途中で近藤さんも同じレストランに入ってくるし。でもこちらに背中を向けて座ってらっしゃったので残念。何を食べてたのかわからなかった。(なぜか近藤さんの食の好みに興味津々な私)。
 あっという間に時間は流れ、開場。5人でロビーで話していると、うちのダンナが現れた・・・。
 現れてほしくなかった、みなさまの前に。ダンナはみなさまの前でもなんのためらいも躊躇もなく、「近藤」と呼び捨てにし、「あんな奴をおっかけてるなんて子供やな」と言ってのけた。信じられない・・・。
 そしていよいよ開演!


加古川&神戸(ブカレストフィル)
 まずは加古川。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。超メジャーなあの曲である。オケとピアノのスリリングなかけ合いが面白く、日頃見られない『頑張って弾く』近藤さんを見たような思い。私の座っていた席は左側。近藤さんの背中しか見えない位置だった。背中から見たのは初めてだったのですごく新鮮でした。いつもあんななのかな。それともやっぱりオケとの『対決』だからか・・・背中にはものすごい力入ってた。だから聴いてる方も自然に力が入ってしまった。
 実はこの曲、去年にも一度聴いた。オケは同じく東欧のチェコの交響楽団で(名前は忘れた)ピアニストはフジ子ヘミングであった。彼女の演奏もまた迫力があった。それは近藤さんとは異質の味わい。どちらがよい、とかそういう問題ではなく、全く異質なのだから比べようもない。
 ヨーロッパの硬くて冷たい石畳の上を裸足でぺたぺた歩くような感じ。『私は、これで、生きて、きたのよ』と言わんばかりに、まるでピアノにしがみつくようにして弾く。彼女のピアノに対する情熱・・・というよりそれは『執念』。苦境を乗り越え30歳で留学、そのうえ彼女は耳が不自由だそうで、全く聴こえなくなった時期もあったらしい。今は片方だけ40%ほど回復しているらしいとのこと。
 石畳の上を歩く彼女の足の裏は血みどろ。そんなフジ子の足の裏が見たくて観客は目をこらしている。確かに彼女の演奏はそんな暗い表情をちらりちらりと見せてはいた。けれどそれが彼女独特の味であり、魅力なのだろう。それはひとつの個性として確立されていて揺るがないもの、美術館のガラスケースの中に閉じ込められた、古い高価な壷を見ているような感じだった。
 近藤さんはガラスの中に閉じこもってはいない。近藤さんも、ガラスの中に閉じ込められた美術品のような様相を見せることもある。でも突然むっくりと起き上がってガラスを突き破ってくることがあり、私はそれに驚き、呆然としてしまう。近藤さんの『ラ・カンパネラ』を聴くとそう思う。神戸でのアンコールはこの曲だったがやっぱり同じ思いを抱いてしまった。ガラスを突き破ってどこまでも暴走。道路にいきなり飛び出していった子供を追いかけるような心境になる(すっごい失礼な表現かも!怒らないでね)。曲の終盤は残響なのか今現在鍵盤を叩いて出ている音なのか、ごちゃまぜになって混乱してドキドキしてしまう。デビュー当時のCDを聴いて「どうしてこんなに力んで弾くんだろ」と思ってたんですが『若さゆえ』と勝手に解釈していた私。最近発売になった新譜にもこの曲が入っていると知って、私はものすごく期待した。年齢を重ねていろんな経験を積んで少しは柔らかくなっているだろう、と。でもあんまり変わっていなかった。でも失望はしなかったなあ。これが近藤さんの『個性』なのだな、と嬉しく思ったりしました。
 ひとつ余計なことを言うと・・・『ラ・カンパネラ』についてはフジ子の演奏の方が好みです、私は。彼女もアンコールにこの曲を弾いてました。
 でもね、私は動かない高価な壷よりも近藤さんの方が好き。壷は美しいのかもしれないけれど、じっと見てるだけしかできないですもん。近藤さんの演奏は共感させる力があり、音楽を共有できる楽しみを与えてくれます。だからドキドキしたりうっとりしたり結構忙しい。
 でもそれは演奏中だけのもの。舞台を降りた近藤さんはやっぱりガラスの中へと帰ってしまわれるのです・・・。サイン会のとき見えますもの。。『お手を触れないで下さい』って札が。怖くてとても握手なんてしてもらえなかったです。
 しかし今回私の方からガラスを破ってしまった!!近藤さんと握手!!!
 きゃぁぁぁ、細い!なんて小さな手!!
 夫以外の男性の手を握ったのは久しぶり(当たり前か)。夫にお会いになった方はわかると思いますが、私は毎日あの手を握っているのです。取って食われそうなほど大きくて毛むくじゃらな手。
 近藤さんの手は細くてしなやかで、なんか実体のないふわふわしたものを掴んだような感じでした。温度もなくて・・・でもちょっと湿ってたかな。
「近藤さんの手の汗がついたわ・・・」感無量で夫に告げると「サインの列に並んでた大勢の女たちの汗じゃ。近藤の汗なんか一滴もついとらん」。

 その三日後、神戸。モーツァルトのピアノ協奏曲第23番。加古川は弦楽器のふくよかな丸い音を楽しめる曲ばかりだったけれど、神戸は華やかな曲想で、吹奏楽出身の私にはこっちの方が好み。やっぱり打楽器や管楽器の華麗な音は素敵。ピアノ協奏曲もよかったです。加古川はいかにもオケとピアノの『対決』だったけれど神戸は双方が歩み寄って調和して柔らかな世界を作り上げていて・・・とっても癒されました。
 ブカレストはルーマニアの都市ですが、私はルーマニアには行ったことはありません。でも3年前に列車でブダペスト、プラハ、ウイーン、ザルツブルグを巡ったことがあります。東欧レイルパスで。東の方も面白いですよ。ぜひ機会があれば行ってみてください。特にプラハはおすすめ。音楽一色です。ウイーンなどは街も新しく、演奏会はホールで聴く、って感じでしたけど、プラハはそこら中に音楽が溢れてて、街角や教会や美術館の一室でミニコンサートを無数にやっているしカフェも作曲家の名前がついてたりして。日本ではクラシックは古くて堅いものというイメージが強いけれど、向こうではほんとに生活の一部分、音楽が空気みたいに存在してました。戦災にあっていないおかげで町並みは古く、なんともいえない哀愁がただよっています。そんな中をぶらぶら歩いてふらりと音楽を聴いて過ごす。日常、かなり時間に追われて生活しているので本当に夢見たいな時間を過ごすことができました。ミニコンサートでは日本人の姿は見かけなかったけれど、気軽にああいう場にも行ってみたら楽しいと思います。
 ブカレストもそんな感じのところなんでしょうか?今度機会があればぜひ行ってみようと思いました。また列車で。時刻表調べるの大変だけど・・・車窓から見るのどかな風景もよかったし、なんと言っても駅舎が素敵なんですよ!!映画のヒロインになったような気分を味わえます(勘違い)。
 なんだかとりとめない文章だけどこれで完了。近藤さん、ツアーお疲れ様でした。新たな魅力を見せつけてくださって、私はあなたにますます夢中!!  


♪初遠征♪
ハッピークリスマス IN 広島(2002.12.22 / 広島国際会議場フェニックスホール)

第一部
  シューマン:アラベスクOp18
  ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番嬰ハ短調Op27−2「月光」
  ドビュッシー:月の光---ベルガマスク組曲より
  ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女---前奏曲第1巻より
  リスト:愛の夢第3番
  リスト:ラ・カンパネラ---バガニーニ大練習曲より
 第2部(全てショパン) 
  ノクターン第8番変ニ短調Op27−2
  ノクターン嬰ハ短調遺作
  エチュードホ短調Op10−3「別れの曲」
  エチュード変ト長調Op10−5「黒鍵」
  エチュードハ短調Op10−12[革命」
  エチュードイ短調Op25−11[木枯らし」 
  幻想即興曲Op66
  英雄ポロネーズOp53
 アンコール/ショパン:ノクターン第2番、ワルツ7番 バッハ:主よ人の望みよ喜びよ

「SOLD OUT」
 入口に大きく掲げられた紙。12月22日、広島国際会議場フェニックスホールは人々々・・・。もみくちゃになりながらやっとのことで座席に着いた。
 大きなホールである。もうすぐクリスマス。ホールいっぱいに満たされた観客のひとりひとりの想いが近藤さんにとって最高のクリスマスプレゼントになるだろう。「今日は本当にたくさんのお客様に来ていただいて」で始まった近藤さんのトーク。私たちのプレゼントを近藤さんは最高の笑顔で受け取ってくださった。そして、一年の終わりにふさわしく、喜びも悲しみも全て優しく包みこんで安堵に変えてくれるような演奏で私たちを酔わせてくれるに違いない、そう確信できるほどの穏やかな笑みを浮かべつつ・・・
 シューマンの『アラベスク』で始まった。
 今日の近藤さんは穏やかすぎるくらいに穏やかだ。一音一音かみしめるように、心にとどめておこうとするかのように静かにゆっくりと曲は流れる。そして時間もゆっくりと流れてゆく。どうしてこんなにゆっくり弾かれるのだろう。何か大きな心境の変化があったのではないか・・・。そんなことを考えるとなぜだか少し不安な気持ちになるのは私だけだろうか。
 そして次はお待ちかね、私の大好きな『月光』である。今年はオールショパンプログラムなどで楽しませてもらったけれど、来年はオールベートーヴェンプログラムを組んでいただけたらな、と思う。ベートーヴェンの、理路整然確固としているようでどことなく感じるもろさや、情熱に満ちた気迫の中にひっそりとひそむ弱さ、暗い陰を感じる曲想が私はすごく好き。それを弾く近藤さんはめちゃくちゃかっこいい!大好き。
 例えば私にとってリストは目もくらむような明るい太陽の下で聴いてるような感じがするし、ショパンはそよ風の中で聴いているかのような感じだ。でもベートーヴェンはどうやっても暗い影がまとわりついているような気がする。その陰をじっくり味わってみたいと思う。私は性格が暗いのか・・・??
 一楽章が始まった途端、脳波が切り替わったことを実感した。機械で測定してもらいたいくらい。ああ、これが聴きたくて私は広島までやってきたのだ。私にとってこの曲はもはやベートーヴェンの『月光』ではなく、近藤嘉宏の『月光』なのだ。まさに月夜の月光のような主旋律の脇で、ひそかに流れる低音。いつにもましてゆったりとした近藤さんの演奏がこの曲の物悲しさをいっそう引き立てる・・・。
 ああもうこのまま地面に倒れ、何もかも忘れて眠ってしまいたい・・。
 そう思っていると後ろから本当に寝息が聞こえてきた。いやーー!やめて、ほんとに寝ないで。寝てもいいけど静かに寝て。二楽章が始まるとその人はお連れの人に起こされて寝息も止まった。眠くなる気持ちはわかる。私も眠れない夜などにはCDを聴いたりしますもの。でもコンサートで寝たらもったいないよぉ!
 次はドビュッシーの『月の光』『亜麻色の髪の乙女』。ドビュッシーはラヴェルと並んで印象派の作曲家だそうだ。絵画で言えばモネやルノワール。比較的高音の、ひとつの主題の繰り返しで曲が進んでいくそうだ。
 私も近藤さんのトークに耳を傾ける余裕が出てきた。最初の頃は顔を見ているだけで声を聞いてるだけで意識が遠のいたものだが。
『月の光』はベートーヴェンと違って影の部分もなくひたすら静かで、無風の湖面に映る月のよう。今日は充実したプログラムだ。後援会の会報にも書いたけれど、私にとって近藤さんは『月』のような存在。そんな近藤さんに『月』の曲を立て続けに弾いていただけるとはなんという幸せだろう!!
 次はリストの『愛の夢』『ラ・カンパネラ』。
『愛の夢』はさらりと軽く、頬にキス程度。うん、あたしはそれで満足。
『ラ・カンパネラ』は以前にフジコヘミングのこれと比較したことがあったけど基本的に印象は変わっていない。「私はフジコの方が好き。近藤さんのは鳴り響きすぎて、今出ている音なのか残響なのかわからなくて混乱してドキドキする。音がどこまでも暴走しているように思えて、まるで道路に飛び出していった子供を追いかけるような心境になる」と。随分失礼なことを書いたものだが、思想は自由なので。ただ近藤さんトークによると「この曲は高い鐘の音がカンカンカンと鳴り続ける感じ」だそうだ。そう考えると納得がいく。私はそんなに好きな曲ではないけれど、近藤さんの個性を味わうためにこの曲を聴くのだと思えば楽しい。
 休憩後、第2部。今度はショパンだ。今日も入っている、『別れの曲』。
 今年もいろんなことがあった・・・個人的には史上最悪の一年だった。踏まれて踏まれて起き上がる暇もなかった。そしていろんな別れもあった。近藤さんがこの曲を弾くたびにそんな別れのシーンを思い出し涙したものだった。そして今日は・・・先月末、突然の事故で亡くなった祖父のこと。あんなに元気だったのに。
 別れの曲がプログラムに入っているというのに私はハンカチを用意するのを忘れてしまった。仕方がないので次の『黒鍵』『革命』が終わったところでカバンを開けてようやく涙を拭うことができたのだった。どうか来年はよい年になりますように。
『幻想即興曲』『英雄ポロネーズ』で最後は締めくくられた。この2曲はまさに今年の近藤さんを象徴する曲だろう。来年もCDをたくさん出してほしいな。というのも既にほとんどCDを買い尽くしてしまい、サイン会に並ぶことができなくなってしまうから。
 アンコールは3曲。ノクターン第2番とワルツと最後はバッハ。曲名わかりませんが、クリスマスの時期によく聴く曲です。感激。うーん、気分はまさにクリスマス!

 サイン会の列でさくらさんと合流。今回はCDだけでなく楽譜やポスターも販売していた。私たちはポスター(500円)を買い、長蛇の列へ。ポスターは今年出たCDに使われた写真のもので、それに今日のコンサートの日時やチケット発売日などが明記されたもの。今年の秋冬、広島の街中を彩ったであろうポスターであった。それにサインをしていただき、それを見ながら私とさくらさんは「広島まで来たなあ」としみじみした。私は関西初脱出、さくらさんも初の西側進出であった。
 そしてホールをあとにしたけれど、道がわからなくなり、ふたたび会場へ後戻り。人の去った会場は日暮れの中、寒風が吹きすさぶ中でさみしそうにたたずんでいた。ああもう今年のコンサートは終わってしまったのだ。
「近藤さん、今日は帰るんやろうなあ」「うん、ゆっくり泊まっていきそうにないな」「これからすぐに空港行ってぴゅーっと帰っちゃうんやろうなあ」「うん、あっさり帰っていきそうやな。『じゃあ、僕はこれで!』ってあっさりとなあ」「そして去り際はさわやかなんやろうなあ」「うん、いつでもどこでもさわやかやからなあ」
 今日は3ヶ月ぶりのソロコンサート。待って待って待ち続けた日々。それがたった2時間あまりで終わってしまったのだ。そして近藤さんはすぐに次の目標へと飛び立っていかれるのだ・・・。心地よい余韻の中でなんだか取り残されてしまったような寂しさ。
 でも余韻にひたりながら年を越し、そして新しい年を迎える。なんという幸せ! 来年もコンサートいっぱいしてくださるといいな。
 さあ、今年もあとわずか。もう少し頑張ろう。帰りの新幹線の中では眠ってしまった。月は・・・出てたかなぁ?覚えてないな。