山名俊豊
Yamana Toshitoyo
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諱は俊豊。官は弾正少弼。第7代但馬守護山名政豊の嫡男。備後守護職。

応仁の乱で細川方に属した山名是豊が備後守護であったため、備後の南半分は 山名惣領家の支配から離れていたが、是豊の没落により、再び山名惣領家の 支配するところとなる。これによって山名政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じ、 太田垣宗収を備後守護代に任じた。

文明15年(1483)西備前の金川城主松田元成は、赤松氏を討たんと欲して 厳島参詣と称し備後に下り、山名俊豊と赤松氏征伐の密約を交した。
元成は備前に帰るや軍備を整え、赤松氏の備前守護所(守護代は浦上則國)のありし 福岡城註1)を急襲するも城兵の反撃に遭い松田氏一族は敗退した。 山名俊豊はかねてよりの密約の通り、備後守護代太田垣宗収をはじめ、 三吉氏、杉原氏、木梨氏、山内氏、多賀山氏、和智氏、江田氏、涌喜氏、 敷名氏ら備後の有力國衆(備後衆)三千の兵を率いて備前に討入註2)った。

このとき俊豊は、父政豊に使者を送り、但馬表から播州への討入りを要請している。 要請にこたえて、山名政豊は同年8月播磨へ向けて進軍し、播但國境の円山峠 註3)生野に布陣した。同12月25日播但國境付近の真弓峠まで北進した 赤松政則の兵千五百を、山名政豊は垣屋豊遠をして夜襲し、赤松方は三百餘兵が 討取られ、総くずれとなり敗退した。

備前では守護代浦上則國は福岡城に籠城するも、赤松政則の真弓峠の敗退を知るや、 翌文明16年(1484)正月下旬には戦意を失い、城を捨てて一旦播磨へ退去した。 こうして備前、播磨の両国は山名氏の支配に下り、美作も半ば山名氏の領国 註4)と化した。

しかれども文明17年(1485)には赤松方の反撃が始まり、2月には備前福岡城で山名方 の武将田総豊里が討死註5)し、閏3月5日の福岡城周辺の土師河原註6)、 砥石城註7)の合戦では、赤松方の武将浦上則國が討死するなど 双方に被害を出しつつ一進一退の攻防を繰り返し註8)ていたが、 赤松政則と浦上則宗の軍が合わさるや赤松方が優勢に転じた。

翌文明18年(1486)正月播州英賀註9)の合戦、4月28日の書写山坂本の合戦で 山名、赤松両軍は干戈を交えるといえど、赤松方が勝利を得る。
この乱戦のさなかの長享元(1487)8月上旬、9代将軍足利義尚公は、近江六角高頼討伐の命を 下し各國の守護に参陣を求めたため、やむなく山名俊豊と備後國人勢は、 政豊の名代として近江に向かわんため、同9月には備前、播磨の戦線より離れた。

長享2年(1488)4月8日更に坂本城下で猛戦の末、山名方は合戦に利無きことを悟るや、 同7月18日主将山名政豊は播州坂本城を退去し、同7月20日には備前福岡城を守っていた 山名俊豊の率いる備後國人衆も、但馬に向けて退去し出石の桜尾(備後衆山)に布陣註10)した。

延徳3年(1491)8月23日10代将軍足利義材公による近江六角高頼征伐の命を受けて俊豊は再び従軍する。 文明15年(1483)以来はからずも備後へ戻らず但馬へ来ることになった備後守護の俊豊と備後衆は、 連戦状態にも関わらず不当な処遇にしだいに山名政豊への不信をつのらせ、 政豊を隠居させ俊豊を山名惣領にせんとの思いが奮発した。しかるに政豊は嫡子俊豊より致豊を溺愛して、 俊豊を廃嫡せんとしたため、明應2年(1493)7月8日義憤に耐え兼ねた山名俊豊は、鹽冶氏、村上氏等、 備後國人衆と政豊の居所である九日市城に討入った。 山名政豊と争ふも敗れて、同7月13日俊豊は逃れたものの、腹心の鹽冶周防守、同息彦次郎、 村上左京亮らと討死註12)した。

この後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返されたが、情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、 ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していった。政豊は明應5年(1496)には俊豊を廃嫡すると 目論見通り致豊に家督を譲ったが、致豊の専制に嫌気のさした但馬國人たちに、致豊は遂に永正9年(1512)離反され、 守護職は致豊の弟誠豊に移された。


註1) 現 岡山県邑久郡長船町福岡
註2)『備前文明乱記』による。
註3) 現在の生野付近
註4)『實隆公記』による。
註5)『蔗軒日録(田総文書 所収)』による。
註6) 現 岡山県邑久郡長船町土師
註7) 現 岡山県邑久郡邑久町豊原
註8)『備前文明乱記』による。
註9) 現 兵庫県姫路市
註10)『但馬旧事随録』による。
註11)『蔭凉軒日録』による。
註12)『蔭凉軒日録(明應2年(1493)7月22日條)』によると「今月(明應2年(1493)7月)八日於但馬國合戦有之、 山名一家(政豊方)之衆三人討死、其外面衆十四五輩討死、是者少弼殿方事也。其後又十三日大合戦有之、 (山名俊豊)霜臺見剪腹、鹽冶周防守、同息彦次郎、村上左京亮、其外面衆悉討死定一之由注進有之云々」とあり。 「俊豊が自害した」とあるのは誤報である。
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