興國4年(南朝)6月1日『名和高重願文』
Nawa Takashige's Letter#1 (1343)
敬白
立願事
右、心中所願令成就者、雲州
鰐淵寺根本藥師堂爲造營料
銭貨一千貫、所令奉加之也。仰願
諸尊、并一切經以下聖教及佛具・曼荼羅供彿具
醫王善逝、垂哀愍納受、令成就
(名和)高重所願給 仍所令立願如件
興國四年六月一日
左衛門少尉源高重(花押)
【解説】
興國4年(1343)は南朝年号で、鰐淵寺の頼源らは厚く南朝を奉じた。
『送進 鰐淵寺文書等目録事』内の一通には、
「伯耆美作判官・(名和)高重願書」が含まれており、「興國四年六月一日
可令奉加藥師堂一千貫文由事」とあるため、この書状のことであろう。
文中に「立願が成就せば、根本藥師堂の造營料を奉加せむ」とある。
頼源の送進状には「伯耆守(名和)長年催促状」も含まれてをり、また、高重と
同日、杵築大工助・景春も同様に「可令造營南院常行堂由事」とする願文を
奉つてゐる。(『鰐淵寺文書』74)
【考察】
平成27年(2015)に出版された『鰐淵寺文書』鰐淵寺文書研究会編、
法蔵館では、この書状を「高岡宗重」のものとするが、世代齟齬し
これは「高岡宗重」のものではない。花押をみると名和長年のもの
とよく似ており、これは名和長年の弟・名和高重のものであること
が分かる。傍証としては、
@鰐淵寺の頼源の送進状の中に本状と、「伯耆守(名和)長年催促状」
が含まれていること。(当時は南朝方として、名和長年が「伯耆守」、
その弟・名和高重が伯耆美作の守護代であった)
A高岡家なら「師宗」が当主の時代(「高岡宗重」は師宗の孫)のため
高岡家の書状とするならば「師宗」が願文の主でなければならない。
※仮に「師宗」の世代に「高岡宗重」という別の人物・師宗の兄(?)
がいたとし、その人物の歿後「(弟の?)師宗」が当主を継いだとする
ならば、その父は高岡宗義、母は念智禅定尼となるが、念智は正平10年
(1355)の仏像修復の願文で、祖父・佐々木泰清、父・宗泰の嘉暦元年の
三重塔再建立願のことに触れ、その時の当主・「師宗」の母と紹介
されるが、もし「宗重」という子がいて、歿していたならば、願文の
趣意にそのこと(わが子の極楽往生)を触れない訳がない。(しかし何も
書かれていない) ゆえに、「師宗」の世代に「高岡宗重」という別の
人物がいたとは考えられず、さらに「師宗」の子の「重宗」を飛びこし
て、「重宗」の子の「高岡宗重」が願文を書いたとは考えられない。
花押の類似および世代等々の点からみてもこの書状は「名和高重」の
ものとしか考えられない。
名和高重。名和長年の弟。八郎左衛門尉、村上(伯耆)判官、又号美作判官。
従四位下、大蔵大輔、検非違使、刑部大輔。正平九年(1354)三月九日卒、
法名行妙。
■表紙へ