4.久畑関所 但東町久畑
(2004/08/24)
桂小五郎 最大の危機
国道426号沿いにある関所跡の石碑。近くにはかつての京街道が残る
=但東町久畑
幕末の元治元(一八六四)年七月十八日夜、京の都で長州藩と諸藩の兵が衝突した。蛤(はまぐり)御門の変である。この戦いで長州藩は惨敗し、ある者は命を落とし、ある者は逃げ出した。
一週間ほどたった。現在の但東町久畑にある京街道の久畑関所で、船頭を名乗る男が厳しい取り調べを受けていた。
調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高田十郎左衛門。同藩は蛤御門の変の知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。
都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗った。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。
そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。出石出身の商人、広戸甚助だった。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放した。
しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だった。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになった。
後に木戸の子孫も関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生の最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。(浦田晃之介)
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