布志那判官雅清
(富士名義綱)
Fujina Yoshitsuna
(  -1336)


諱は雅清。あるいは義綱と云ふ。字は三郎と称し、また判官と号す。 出雲國布志那郷の領主 佐々木二郎宗清の二男なり。初め佐々木氏を称し、のち氏を布志那(富士名)に改む。 隠岐にて後醍醐天皇に仕へ、その御帰還を供奉す。

北條相模入道宗鑑は、元弘2年(1332)3月 後醍醐天皇を隠岐へ遷し奉り、出雲、伯耆、石見、隠岐の諸士に、之が警固を命ず。 依りて、雅清もまた、隠岐島の行在所なる中門の衛士に役せらるなり。

翌年2月 傳ふるものありて「京師六波羅なる北條越後守仲時、 同左近将監時益等、佐々木隠岐判官清高と謀(よしみ)を通じ、 主上を失ひ奉らんとす」と云ふ。

義綱、惟(おも)へらく、「予、卑賤なりと雖も、祖宗以來聖恩に浴せり。 何為ぞ逆臣に屈従せんや」と。
乃ち行宮の雑色、成田小三郎をして、傳聞の事を奏せしむ。 主上、成田をして國分寺の僧徒を語(かた)らはしめ、 又、警固の士、名和悪四郎泰長に京師の動静と其の所懐とを問はしめ給ふ。
泰長は伯耆國名和荘の住人、又太郎長高の弟にして、忠誠の士なり。

而して其の奉答する所、義綱が言と符合す。是を以て、主上は、義綱、泰長をして、 策を戯ぜしめ給ふ。両士、以為へらく 「先、隠岐の前司を戮し、出雲、伯耆の間に潜幸し奉り、 近國の同志に勅諚を傳へ、率先して各々其の門族を誘導せん」と。
依りて元弘3年閏2月20日、泰長、出雲に航し、先づ鹽冶廷尉高貞を説く。

高貞、即ち決する事能はず、遂に之を逐ふ。泰長去りて伯耆に赴かんとす。 途にして出雲國造が郎党、「六波羅の命なり」と称して泰長を捕ふ。 泰長、活くべからざるを知りて自害す。

同21日、主上、一條頭中将行房を三位局に副へて隠岐の民家に潜ましめ給ひ、 義綱及び六條少将忠顕、成田雑色、仕丁金吾等を具して、短艇に御して、 千波の湊を発し給ふ。
同27日出雲國杵築浦に至る。時に上下皆飢ふ。 義綱、金吾と共に供御を求めんが為めに陸に上る。曾、出雲國造の郎黨等、 國司の勢に件ひ、主を捜索するに遭遇し、意に金吾と共に捕へらる。 忠顕等これを察し、避けて伯耆國の湊に至る。
忠顕、勅を奉じ、成田を遣わして、名和又太郎長高を徴す。長高一族を挙げて龍駕を迎へ、 船上山の頂に拠る。

主上、是に於いて初めて「討賊の詔」を発し給ふ。義綱、鹽冶高貞の館にありて、 大義名分を説いて屈せず、高貞遂に兵を出雲國安來に出して、帰順の意を表す。

同3月3日高貞、意を決して、兵一千餘を率ゐ、義綱を具して、行在に詣り、陳謝す。
主上即ち之を赦し、城外の伺候を命じ給ふ。

同5月7日、千種中将忠顕、京師より六波羅の歿落せるを奏す。
同23日、車駕船上山を発し、山陰を東へ行幸せさせ給ふ。
頭大夫行房、勘解由次官光守等、衣冠を著して供奉し、名和伯耆守長年、 御剣を執りて右に候し、金特大和守綿旗を捧げて左に候す。
村上彦太郎義高以下名和の一族。鳳輩を守護し奉る。 義綱は、鹽冶(佐々木)判官高貞を介け、兵一千餘り将ゐて、前駆に候し、 朝山彦太郎家就、兵500餘を以て、後陣たり。
同6月6日、京師に至る。その後、義綱は駐まりて京に在り。
建武3年丙子正月3日 討賊の任ありし時、二條大納言師基が西山の陣に在りて戦ひて傷き、而して起たず、 時に年41。

後、出雲國意宇郡湯町村判官山の半腹に、遺髪を痙めて石塔を建つ。今尚存せり。



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