
鹽冶判官高貞
En'ya Takasada
( -1341)
諱は高貞。出雲國守護鹽冶貞清の嫡男。出雲國守護。南北朝時代の武将なり。
鹽冶氏は源頼朝公の御家人佐々木五郎義清の孫頼泰に出づ。隠岐守護職を相続した「隠岐氏」に対して、
世々出雲守護職を相続し、高貞はその三代目にあたる。出雲國神門郡鹽冶郷(現 島根県出雲市上塩冶町)
の大廻城を本拠とした。
高貞は正中3年(1326)出雲守護職に任ぜられる。隠岐に流され後醍醐天皇が島を脱出、
富士名判官義綱の説得の末、後醍醐天皇の隠岐島からの脱出以降、名和長年のいる船上山から建武の新政、
その後の足利尊氏の政治にも関わりました。高貞の生涯は「太平記」のほか、
竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」において浅野内匠頭を塩冶高貞として描かれていますが、
史実としての塩冶高貞については研究が進んでいます。墓は神門寺にあり。

源頼朝公の御家人佐々木五郎義清五世の孫。正中3年(1326年)出雲守護職となる。
隠岐に流され後醍醐天皇が島を脱出、京への上洛時に守護し功績を挙げた。
その功績により、天皇のお供であった顔世御前を妻にすることになった。
南北朝の内乱時、幕府執事「高師直」と対立。高師直の陰謀により足利尊氏から追われる身となる。
幕府に追われ身となった「高貞」は妻(顔世御前)と共に出雲に向って京都を脱出する。
夫婦は別路をとり、顔世御前は山陽路を家臣20名と息子2人と共に、
帰路につくが播州陰山の里(兵庫県姫路市豊富町)で追われ自害した。
高貞は出雲で妻の悲報を耳にして割腹して果てた。息子は後に羽衣石初代城主
(鳥取県東郷町)「南條貞宗公」となった。

歌舞伎に描かれた鹽冶判官は史実ではない。
■顔世御前
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