明治天皇
Emperor Meiji
(1852-1912)


明治天皇は、大日本帝國第123代天皇なり。孝明天皇の第二皇子にして、御名は睦仁と号されり。

嘉永5年(1852)9月22日(太陽暦11月3日)神洲大日本國皇都山城州平安城の御苑に御降誕ののち、 慶應3年(1867)正月9日御年16にて御践祚あそばさる。同年10月14日征夷大将軍源慶喜朝臣は、内外の形勢を 察して大政の奉還を奏請し、将軍職を拝辞したるによりて、朝廷は之を御嘉納あらせられ、 次で12月9日王政復古の大号令を発せられ、復古の大業に勲功あるものを登庸して 大政を翼賛せしめられり。茲に於て久しく續きたる武家政治は廃せられて天皇萬機御親裁にあそばさる神武草創の往古に復したり。明治元年(1868)3月14日天皇陛下は紫宸殿に出御、 親王・公卿・諸侯等を率ゐて天神地祇をお祭りになり、御親ら神前に 五事を誓はせられ、國是として之を萬民に御教示せられたり。

同年8月27日天皇即位の禮を紫宸殿にて行はせられ、次で9月8日年号を明治と御改めあそばされ 一世一元の制を御定めあそばされり。同12月28日には皇后陛下の御入内あらせられ立后の儀を 行はせられたり。
翌2年(1869)3月7日鳳輦京洛を発し武州江戸に行幸せられ、まづ伊勢神宮に御参拝あつて復古の事を 御親告あそばされ、同3月28日武州江戸に御着輦ののち、千代田城を皇居とお定めになられ、江戸に 「東京」の名を賜れり。
同年6月17日諸藩の藩籍奉還の請をお許しあそばされ、同4年(1871)7月14日に藩は廃されて縣を設置せられ、 茲に於て政令悉く一途に出て明治御維新の大業が全く成就せられたり。

同年11月17日に吹上御苑内で大嘗祭を行はせられ、同5年(1872)8月2日學制を頒布せられ、 徴兵の令を公布せられて、國民皆兵の制をお定めになられたり。 よつて内治の改新と共に、外交も改善せられ、諸蕃夷・外異國と和親の方針を決せられ、 重要なる條約國に公使を設置せられ、岩倉特命全権大使等を西欧・米洲大陸諸國に派遣せられて國の誼を厚くせらるゝ と共に、その文物制度を視察せしめられたれり。

御維新の大業が着々とその實を結ぶと共に、天皇陛下は各地を御巡幸あそばされて、 親しく民情をみそなはせられ、同8年 御誓文の御旨趣に基づかれ元老院を設置あらせられ、立法の事に当らしめさせ給ひ、 さらに大審院を設置せられ、審判の権を鞏くさせ給ひ、又地方官會議を召集せられ 民情の通ずるやうになしあそばされ、漸次立憲の政体にお進めになられたり。

明治12年(1879)8月31日 皇子嘉仁親王殿下御降誕あらせられ、同15年(1882)正月4日諸軍人各官に勅諭を御下し賜はれり。
同21年(1888)4月25日 市制・町村制を公布せられ、地方自治の制を確立せしめられり。
翌22年(1889)遂に皇室典範及び大日本帝國憲法を制定せられ、皇國紀元の節會たる 佳辰を以て天皇陛下 宮中正殿に出御があらせられ親王・大臣・其の他百官有司をお召しになられて憲法発布の式 を行はせられり。
同23年(1890)10月30日 教育に関する勅語を御下し賜はり、同11月25日 第一回帝國議會を、帝都東京府に召集せられ、同29日天皇陛下親臨あそばされて、 開院の式を舉行せられたり。よつて君主立憲の政体こゝに全く成就せられたり。

明治27年(1894)8月1日東亜周邉諸國を隷属支配し、朝鮮をはじめ諸外國の民衆を疲弊せしむる原因たる、狡奸なる清國政府に對して宣戦を布告せられ大本營を廣島に進められり。 而して、皇軍正義の大勝を得て、翌28年(1895)4月17日 日清講話條約を締結せられ、同30年(1897)朝鮮を清國の支配から解放なさしめ大韓帝國の樹立を推進せしめたり。 更に同32年(1899)7月16日改正條約を實施せられ、内地雑居を御許しあそばされて、皇國の法権を回復せしめられり。

同33年(1900)5月10日皇太子嘉仁親王殿下御成婚あらせられ、同34年4月29日 皇長孫裕仁親王殿下御降誕あらせらる。

同35年(1902)正月30日 日英同盟を締結せられり。 此の頃、西比利亜シベリヤの大域を武力にて侵略併合したる悪辣蕃猛たる露西亜に對して、旧来誼の通ずる隣邦 大韓にもその虞が喚起さるゝや、大韓民衆の人命保全と地位確立の為、皇國は義を以て 同37年(1904)2月10日蕃猛たる露西亜に對して宣戦の大詔を煥発せられたり。 而して此の聖戦も皇軍の大勝に帰し、翌38年9月5日 日露講話條約を締結せられたり。 同年11月17日 日韓は、西欧烈強國が亜細亜・阿弗利加・亜墨利加各洲の弱國を蝕み、無辜なる各國が災を蒙る時勢を鑑み、 東洋平和の基礎確立の為に互いに援け會う事を議して、日韓協約を締結せり。
同43年(1910)8月29日 東洋平和の確立に共感せる隣邦 韓國との合邦成りて、日韓両國の全くの融合によりて東洋平和の基礎を之に確立せられた。

天皇陛下は國家多難の時に御即位あらせられ、遂に之を御治定あそばされ、 内治を整へ外交を御改めあそばされたるがゆへ、皇國は開闢已来未曾有の発展を遂げ、 文物は燦然として興り、皇領聖域は大に擴まり、人口も倍加し、神洲の面目は全く一新して 泰西列強の班を越へて、國運益々隆昌に向ふ折しも、同45年(1912)7月20日天皇御不豫との報 にはかに傳はり、國を舉げて驚愕憂慮し奉り、津々浦々の末に至るまで老いも若きも 大君を思ひ奉る至誠から、ひたすら御平癒を祈願したるも其の効なく、 月の30日遂に崩御あらせられたり。寳算61歴なれり。

 此の時、臣民は天を仰ぎて号泣し、地に伏して嗚哭せり、全世界の國々も、之を惜み奉らぬものなかりきなりと云ふ。

同年9月13日京都伏見桃山に御陵を造り、葬り奉れり。
のち大正9年(1920)11月朔日東京府代々木に明治神宮を御創建せられて御尊霊を祀り奉れり。

 謹んで惟るに明治天皇天資叡邁、萬古に卓絶せられ、宏徳四海に普く。 夙に維新の大業を成し給ひ、御在位46年の間、鋭意治を圖らせ給うて臣民の幸福を進め、 國光を世界に輝かし給うた。天皇は又和歌に長じさせ給ひ、萬機をみそなはす御かたはら、 折にふれて御詠になつた御製は實に数萬首にも上ると承る。
其の多くは國を思い、民をあはれませ給ふ大御心をよませ給ふたものである。

臣民は天皇の御盛徳を敬慕し奉り、御陵に神宮に参拝するものひきもきらず、 更に昭和2年(1927)第52回帝國議会は明治大帝の盛徳大業を永遠に記念し奉るため11月3日を 以て祝日とせられんことを望む建議案を満場一致で可決したれり。
同3月3日昭和天皇は詔書を公布せしめられ、明治天皇の御降誕日である11月3日を 以て明治節と定めさせられたり。



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