<インド仏跡旅行記> その7
 

 インド旅行第6日目、お釈迦様の涅槃の地クシナガラを後にして、遥か西1500kmのデカン高原にある古い都市「オーランガバード」に向かった。と言ってもすぐに飛行機に乗れる訳ではない。まず、飛行場のあるベナレスに向かう。13時10分のフライトに間に合わなければならないため、約300kmの道のりを6時間でバスはひた走る。ガイドや運転手は時間に間に合わすために、窓から身を乗り出して、道に止まっている車、人、牛を怒鳴りちらし道を空けさす。インドの悪路を時速60km以上で走ることは自殺行為に近い何度かバスの横を木にこすったり、リヤカーに接触したりしたが、それでもバスは走り続けた。この間私たちは無言。バスのシートの手摺を握り締め、無事を祈るばかりであったバスの運転手の腕が良いのか、他の車の性能が悪いのか分からないが、6時間の間一度も追い越されず、追い越しを続けた。例によってクラクションは鳴らしっぱなし。12時過ぎバスは無事ベナレスの飛行場に到着。思わず皆バスの運転手に拍手拍手。日本でこの様な運転をすれば、即、免許取り消しでしょう。荷物をトランクから出してまたびっくり、スーツケースの把手が取れて無い。バスの振動で他のケースとぶつかり合って、取れたのだ。この6時間のバスの旅は強烈な思い出として脳裏に残っています。やっと飛行機に乗るが、ここからも長い。直接オーランガバード行の飛行機は無い。まずベナレス、次にパトナ、次にニーデリーを経由して西インドのボンベイに到着。飛行機を乗り換え目的地オーランガバードにやっと到着。約7時間のフライトでした。
 オーランガバードはデカン高原にある古い市場町、人口は60万人。石窟寺院で有名な「アジャンタ」「エローラ」への観光基地として知られている。ここはイスラム教徒が多い町で、北インドの感じとはかなり異なる。男性の服装は白い洋服が多く女性は余り見かけなかった。夜も遅かったのでこの日はオーランガバードのホテルで一泊する。
 翌朝、世界文化遺跡の石窟寺院群のある「エローラ」を見学。デカン高原の街道沿いの岩山に仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院が34窟穿(うが)たれています。僧達が雨期に雨を避けて修業ができるように掘られたのが始まりだといわれています。
 はじめに第1〜12窟の仏教寺院(7世紀頃までに完成)を見学。岩山の正面から掘り進んだろうか、中に入ると広々とした空間(奥行きは30mぐらい、天井までの高さは10mぐらい)が有り、天井はアーチ状に掘られてある。石窟寺院の奥には巨大なストゥーパ(仏塔)が有りその前にお釈迦様(3〜4mの高さ)が椅子にすわつた状態でおまつりしてあった。話し声が天井に反響する。その昔修行僧達は、この空間で読経し神秘的な修業をしたのたろう。 壁面には沢山の彫刻が有り、時間をかけて作り上げたものだ。唯々感心する。寺院の横には修行僧達の宿舎が有 ったが、正面から見ると整然と柱が並び石のベットも有り、三層になっている。
現在のアパートの様な感じさえ
した。しかし、この寺院はすべて岩山を鑿(のみ)一本で人間が掘って作った物なのです。寺院の中の仏像・仏塔・燭台・机・ベットすべて岩を鑿で彫ったもので、取り外すことが出来ません。  次に9世紀頃に造られたヒンドゥー教の寺院を見学。その中でも最大な寺院
「カイラーサナータ寺院」(第16窟)を訪れた。その寺院は遠くから見ると小山の様な感じであったが、近づくにつれて、これは本当に寺院なのだろうか、それとも自分の眼の錯覚なのだろうか、心は半信半疑になった。あまりにも凄すぎるのだ。人間がこんな物を造れるのだろうか。この寺院は756年に工事に着工して、完成までに150年かかったという怪物である。何代もの石職人が150年間金づちと鑿で掘り出した物です。石窟寺院と言ってもこのカイラーサナータ寺院は、岩山の裾から寺院全体を丸ごと掘り出したもので、奥行き81m、幅47m 高さ33mのまったく継ぎ目のない一つの巨大な彫刻なのです。人間の力には限りのないことを教えてくれる世界的な遺跡です。この寺院の内部は回廊もあり、三層になっている。実物大の象の彫刻も一対ある。カイラーサナータ寺院は全体が象車の形をしている。本殿裏の象の彫刻は、本殿があまりにも重いので、持ち上げている象の首にしわができているという芸の細かさを見ることが出来ました。壁はすべて彫刻が施され言葉では表現できないほどすばらしい物でした。仏教石窟寺院の内部のお釈迦様の石仏像もそうでしたが、ヒンドゥー教の神々の石像は、ひざや足が「黒光り」しています。お参りに来た人々が足やひざを撫でて祈ったからです。何世紀も何世紀もかけて人々に撫でられたのでしょう。現在も沢山の人々が参拝に来ていました。半日ではとても全部見学することは出来ませんでしたが、すばらしい時間でした。
 次に向かったところは100H離れた山の中「アジャンター」です。この場所は山間の峡谷の中腹にあります。エローラと同じ石窟寺院群でが、ここは壁画が有名です。詳しくは次号にて。 


          
<インド仏跡旅行記>その8
 

 インド旅行第7日目午前中に石窟寺院群の「エローラ」を見学した後、今度は100km離れたデカン高原の山の中「アジヤンター」の仏教窟院を見学した。この「アジヤンター」はデカン高原の台地をえぐって蛇行するワーグラー河の渓谷の高さ70mの断崖中腹に長さ1.5kmにわたり29の仏教窟院が並んでいます。
 この「アジヤンター」を有名にしたもの・・・それは
素晴らしい壁画です。インドの絵画は古代から発達して素晴らしい物なのですが、高温多湿の風土のせいで現存する物は皆無に近い、しかし、唯一の例外がここ「アジヤンター」に有ります。しかも完成度の高い物ばかりで、これら壁画は中国、韓国、日本の古代仏教絵画の源流ともいえます。
 「アジヤンター」の仏教窟院が開かれたのは、紀元前1世紀頃の前期窟(渓谷の中心辺りの5つの簡素な石窟寺院)と、紀元5世紀頃の後期窟(大乗仏教時代)です。インド文明が黄金期に輝く5世紀頃、中央インドを支配していたヴァーカータカ帝国の信仰の篤い家臣たちが、財と威信をかけてこの石窟寺院をより荘厳により豪華に、最新の技術で造営したのです。しかし、まもなく「アジヤンター」は放棄されてしまいました。職人達や僧侶まで姿を消したのです。それはヴァーカータカ帝国の崩壊による戦乱のためと言われています。やがて寺院群はジャングルに呑み込まれ、それから千年以上の間、人々から忘れさられました。
 そして時は1819年、マドラス駐屯のイギリス騎兵隊士官が虎狩りにこの渓谷に来て、逃げ込んだ虎を追いかけてジャングルに埋れていたこの石窟寺院を発見しました。
 私達一行のバスはこの渓谷の入口まで、そこからは徒歩で断崖の中腹まで登っていきました。インド人4人が担ぐ「かご」があり(料金は400ルピー約1200円)おもしろ半分に2人がそのかごをチャーター。2月と言ってもここはデカン高原、気温は30℃を超えています。私は半そでのシャツ1枚でも汗だく。汗をかきたくない人には「かご」がいいとガイド。その「かご」は日本の江戸時代の川渡しの時のかごのような感じ。椅子に2本担ぎ棒が付いているだけの簡単な物。乗った2人は体重が重い。しかし毎日担いでいるインド人は凄い。ギシギシ音を立てながら、担いで山道をかなりの早さで登っていく。追いつくのが大変。しかし、もっと大変だったのは、乗っている2人、担いでいるインド人は皆身長180cm以上の大男、それにいすに座っている自分の目線は、2m50cm以上有るのではないでしょうか。その高さまま、渓谷の山道を担がれるのです。渓谷の高さは70m以上。もし滑ったりしたら大変です。ゴツゴツした岩場も担いで渡ります。乗っていた2人はじめは、「ワーワー」騒いでいたが渓谷が目の下に来たときには無言。私達見ている者も少し恐怖を覚えました。何とか無事寺院の入口まで20分ほど時間がかかりましたが、到着。かごの2人が一番汗をかいていましたが。
 さて、「アジヤンター」の寺院ですが石窟です。渓谷の断崖に入口をつけて中を掘り、空間を造っています。大きさはまちまちでしたが一番大きなものでは、法光寺の本堂の約6倍くらいの空間が有ったと思います。もちろんすべて手で掘ったものです。壁画は保存も良く、綺麗な色彩を見ることが出来ました。お釈迦様のお話や、菩薩様、それに古代インドの風俗が、豊かな色彩で繊細な筆至で、壁面だけでなく柱や天井など、広大な空間のすみずみまで描かれていました。
 「アジヤンター」で一番有名な壁画
「蓮華手菩薩」(蓮華の華を手に持って微笑んでおられる菩薩様)はわが国の法隆寺金堂壁画の菩薩像のオリジナルとして知られています。蓮華手菩薩の写真は法光寺の庫裏に飾ってあります。堂内は写真可なのですが、フラッシュは壁画が傷むため厳禁です。フラッシュなしで撮影しているので良く写っていませんでしたが。
 ここで疑問。二千年前どのようにして石窟の奥の壁画が描けたのか?・・・それは太陽光線を利用していたとのこと。太陽の光を銅板などの反射するものに当て、石窟の奥の壁面を照らしていたそうです。今でも、石窟の奥の壁画を写真で写そうとすると、大きなアルミ板を持った現地の人が外からその壁面を照らしてくれます。もちろん有料です。トラブルが起こるのでカメラを構える前に照らすのを頼むか断るかはっきりさせないとまずいです。私達はすべて「ノー」でした。
 2時間ほど石窟寺院を見学。修学旅行なのかインドの学生達が沢山見学していましたし西欧人も多かったです。一番人気の高い第一窟寺院は入場制限していました。一度に沢山の人間が入ると、換気設備が無いため身体に良くないからでしょう。私達が入場したときは、かなり空気が汚れていて、むせ返るような匂いもしましたが、インド7日目の鼻はなんとか耐えてくれました。下山するため寺院の出口に来ると、さっきのかごの8人が待っていました。往復で400ルピーとのこと。前払いしていたので、きちんと待っていてくれました。乗ってきた2人はまた20分間かごに揺られて汗をかきながら下山しました。                 (次号はボンベイでの話です)


 

<インド仏跡旅行記>その9
 
 早いものでこの3月でインド旅行から1年が経ちました。インド旅行記も9回目となり残すところ僅かですが、もう少しお付き合い下さい。前回はエローラ・アジャンターの仏教遺跡の話でしたが、これからはインドでの面白い体験を書いてみます。
 インド旅行7日目の夜デカン高原の町オーランガバードの飛行場からボンベイに向けて8時出発の予定。私達一行は飛行場に7時頃到着ボンベイまで飛行機で45分位で到着するので、向うに着いてからホテルで食事することになっていました。ところが、飛行場に着いて異常な緊張感に気がつきました。入口には本物のライフル銃を構えた兵隊が10人位並んで待合室に入って行く人々を監視していましたし、飛行場到るところに兵士の姿。私は本物の銃を見たことが無かったのでやや緊張。
 ガイドの話だと、今インドは国会議員の選挙期間中とのこと、選挙応援でお偉さんがこの地に来ていて、私達の乗る飛行機に乗って帰るから警備が厳しいとのこと。インドは爆弾テロが多く、前首相も爆弾テロで殺されています。爆弾は「乾電池」で起爆させますので、インドの飛行機の手荷物には絶対「乾電池」は持ち込めません、と言うことはカメラやビデオの電池も飛行機に乗るたびに、外すか、スーツケースに入れて預けるのです。乾電池には大変うるさかったです。飛行機からの写真はこのため一枚も無しでした。ところで、今回の飛行機はボンベイ行きなので、「お偉さん」もボンベイに帰ることと私達は当然思っていました。(日本ではこんな当り前のことは考えないのですが)・・・ところが、ガイドいわくデカン高原の名前は忘れましたがある都市とのこと。全然方向が違います。例えば、東京発大阪行きの飛行機で、北海道札幌に行けというようなもの。実はインドではこの様なことはよくあるとのこと。国会議員の交通が優先され飛行機などは、よくこんな使われ方をするらしいです。これをきいて私達「そんなバカな・・・」、お偉さんを下ろせばあとはボンベイまで行くとのこと。やはりインドは凄い国だ。 この飛行機、時間になってもなかなか搭乗案内が無い。荷物の検査で時間がかかっているのだ。待合室でボーとしていると、館内放送で聴いたような名前が聞こえる。「シンケイクワムラ・ケンドウシバタ・・・」(前後は何を言っているのかは不明でしたが)私と得月寺さんを呼んでいるらしい。ガイドに聞くとスーツケースの検査をするので鍵を持って来いと言っているとのこと、二人して行くと、兵士が開けろと言うジェスチャー、こんなところで開けるとは思っていなかったので、中は全然整理していなかったが、バカッと開く、一週間の衣料(下着類数多し)があふれでてくる、兵士なにか面倒くさそうに指で、衣料を持ち上げ「オッケー」。私は「サンキュー」、しかしケースは中身が多いのですぐに閉まらず、周りの人に見られているので、余計あせって大変でした。得月寺さんも同じ様な状況でしたが。そうこうしている内にやっとフライト。まず、ボンベイとは180度反対の都市へ飛行。お偉さんを降ろして、再びフライト、通常45分で着くボンベイに4時間かかりました。 予定だと9時頃に遅い食事でしたが、ホテルに入って食卓についてのは夜中の1時すぎでした。はじめは腹も立ったが、これも「インド」での思い出と考えたら楽しくなり、一同結構盛り上がっていました。
 「ボンベイ」(インド人はムンバイと発音します)はインド最大の1200万人の人口を抱える都市で、インド亜大陸の西海岸の北に位置します。インドでの貿易の50%をこの都市で行われています。イギリスの植民地時代も窓口として活躍していました。街のあちらこちらにイギリス風の建物が有りました。翌日はボンベイの観光です。今まではいつもガイドさん頼りに観光していましたので、一度ガイドさん無しでボンベイの街に行ってみようと言うことになりました。          (ボンベイの無謀な観光は次号にて)

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