<インド仏跡旅行記> その4
旅行三日目、早朝のガンジス河の沐浴風景見学をすませ、朝8時お釈迦様悟りの地「ブッダガヤ」に向けてバスは出発。ベナレスからブッダガヤまで距離にして約250H。ガイド曰く「もし途中で交通事故などが無ければ8時間。何か有れば10時間はかかる。」とのこと。覚悟をきめて出発。出発してから5分も経たない内に大渋滞に巻き込まれバスは全然動かない。どうやら橋の上で交通事故20分待ったが全く何も動かない。警察も来ない。気長なインド人もしびれが切れたらしく、突然ガイドがバスから降り、道端の棒を拾い、事故現場に駆けていく。見ると大声で棒を振り回し交通整理を始めていた。お蔭で何とか事故現場から通ることが出来たが、すでに1時間のロス。さあ急ごうと思うのだが、インドの道路事情は大変。国道と言っても至るところ穴だらけ。おまけに牛やラクダが、わが物顔で歩いている。全然スピードが出せない。これでは10時間かかると覚悟した。
私はバスによく酔うのですが、このインドのバスには一度も酔わなかったです。と言うのも「酔う暇が無かった」からです。道路が悪い・悪い・悪い・・身体が10時間ずっと動いているし、バスの天井からはほこりが絶えずパラパラ落ちてくる。暑いので窓を開ければ砂ぼこり。すごい10時間でした。道中何度かトイレ休憩が有ったが、トイレは無い。インドの自然の中にまぎれ、ホッとする。草むらから大トカゲが飛び出し一度びっくりしたことが有ったが。
昼食はガイド曰く「ドライブイン」にて。縁台が五つほどあり、「かまど」でおじさんが現地のパンを焼いている。10才位の少年が「チャーイ」(ミルク紅茶)を持ってくる。一度に8杯も運んでいるのだが、お盆など無い。片手で四杯、第二関節までコップの中に突っ込んで私たちに突き出す。紅茶の色とその少年の指の色は同じ色に見えたのは私だけでは無かったと思う。そんな「ドライブイン」で昼食をとった。「あと5時間頑張るぞ」と決意し難行苦行のバスに乗り込む。それでも何とか夕方5時すぎ「ブッダガヤ」に無事到着。
早速「マハーボディー寺院」(大菩提寺)にお参りする。夕闇に浮かび上がる高さ52mの「大塔」が美しかった。寺院の回廊には沢山のローソクの灯明が供えてあり、その光とお腹に響く僧の読経の声が、更に神秘的な世界を作り上げていた。私たち一行も大塔の黄金の仏像にお参りした。タイ・ビルマ・スリランカ・台湾・韓国・チベットそして日本人等の僧侶や信者達が参拝していた。チベットの僧達は「五体投地」と言って全身で礼拝する。まずひざまずき合掌し、次に身体を真っ直ぐに伸ばし地面にひれ伏す。それを何回も繰り返す。その礼拝方法で「大塔」一周500m位を回るのです。何時間または何日も。
大塔の西側に菩提樹(ぼだいじゅ)と金剛宝座(こんごうほうざ)があるお釈迦様はこの菩提樹下で悟りを開かれました。菩提樹はもともとはインド名を「アッサッタ樹」と言いましたが、お釈迦様がその樹の下で菩提(菩提とは「悟り」のこと)を開かれたので、のちに「菩提樹」と呼ばれるようになったのです。黄色い花びらと赤い花びらで埋め尽くされた「金剛宝座」2m四方の宝座です。菩提樹の幹には信者達が金箔を貼り付けていました。ここでも仏教徒の祈りの声が響いていました。
<インド仏跡旅行記> その5
インド第4日目、ブッダガヤを朝8時に出発。出発してから5分ぐらいで「尼連禅河」(ネーランジャー河)に着く。この河はお釈迦様が6年間の苦行を終え身体を清め、村娘「スジャータ」の供養する乳粥を飲み、気力を取り戻された所です。この話をもとにして、村娘「スジャータ」の名前はコーヒーのミルクの会社が、会社名として使っています。
今は乾季の為、河に水はあまり流れていませんが、かなり対岸までは遠い大きな河です。村娘「スジャータ」が住んでいた村は今も有りますが、ほとんどの家が土とわらで作られていました。
バスに揺られること3時間、乾燥した風景はどこまでも黄褐色一色。バスの行く手に険しくそびえる岩々が見えてきた。ラジギールに入った。ラジギール(王舎城)は、お釈迦様時代のマガタ国の首都で、お釈迦様が晩年長く滞在し、多くの説法をされた所です。「法華経」もここで説かれています。五つの山に囲まれた盆地で、盆地の東南の斜面に、「法華経」を説かれたことで有名な「霊鷲山(りょうじゅせん)」が天空にそびえたっています。私の今回のインド旅行の一番の目的はこの霊鷲山にお参りすることでした。
バスを降りて霊鷲山の頂上を目指し山道を上ります。霊鷲山はそれほど高くはないので、30分程で山頂に到着。途中、弟子たちが住んでいた石窟が2つほどありました。石窟の中はキラキラ光る金箔が随所に貼り付けられていました。お参りの信者が貼り付けるそうです。
霊鷲山の山頂は50坪ぐらいの広さです。靴を脱ぎ、お釈迦様が法華経を説かれた大きな一枚岩の説法台の所へお参りしました。頂上は台湾の仏教徒が「お勤め」の最中でした。尼さんが導師で50人位お勤めしていました。お経は何かなと見てみますと、やはり「法華経」でした。ただ、発音が中国人と私たちでは異なるので違うお経のように聞こえましが。
私たちは、お釈迦様が説法された場所に座り、日宗寺さん・妙法寺さん、そして私の3人で「妙法蓮華経如来寿量品第十六」と「お題目」を声高らかにお勤めしました。真っ青な天、そびえ立つ霊鷲山の岩山、響きわたるお題目身体が「すーと」天に昇様な感覚をおぼえました。何とも言えない感覚です 「ここで」・「ここに」・お釈迦様が座られ説法されたという感激が沸き上がりました。霊鷲山山頂はまさに、「お自我偈」の「於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処」(阿僧祇劫において常に霊鷲山および余のもろもろの住処にあり)のお言葉通り、お釈迦様がお近くに居られる感激の場所でした。 もう少し霊鷲山山頂に居たかったのですが、時間の関係で下山することになりました。
次に訪れたのは霊鷲山の続きの岩山(多宝山)にそびえ立つ「日本山妙法寺」と「世界平和塔」(純白のストゥーパ)です。霊鷲山から続きで登れるのですが、一旦下山して「日本山妙法寺」が作った「リフト」(日本のスキー場で使用していたリフトを使っていました)で登ることにしました。(3人の元気者は霊鷲山から直接多宝山まで歩いて登りましたが)リフトで約10分リフトの下は岩山、少し怖かったですが無事「日本山妙法寺」まで登れました。平和塔は舞鶴の菅坂峠に有るのと形は同じで、巨大で美しい塔でした。 日本山妙法寺のお上人は、舞鶴出身の「小此木上人」で私より一年上の東舞鶴高校の先輩です。高校卒業後、インドに渡られ、25年間このラジギールにて修行されています。小此木上人には何の連絡もせずに、突然の訪問でしたが、本当に親切にして戴き有り難かったです。本堂にお参りし舞鶴から持参した「写経」をここで奉納しました。本堂に響くお題目は感動的でした。 今回インドの寺院を参拝する機会が多くありましたが、この「日本山妙法寺」が一番清潔で美しく管理できていました。広い境内には、何人かの手伝いのインド人が、箒で清掃していましたし、驚いたことにトイレは水洗でした。この高い山頂に水洗トイレがあるとは感心しました。
小此木上人には、お茶やお菓子で接待して戴き、帰りには、山のふもとまで見送られ、私たちのバスが見えなくなるまで「うちわ太鼓」をたたき唱題して戴きました。本当に有り難かったです。
バスは次の宿泊先のパトナに向け悪路を走り続けました。
<インド仏跡旅行記> その6
ラジギールの霊鷲山から悪路を走り続けること4時間、夕方、ガンジス河に沿って発達した地方都市パトナに到着。人口400万人の都市でも町の中には信号機は無かった。少し時間が有ったので、ホテルの従業員の案内で町を散策インドの交通事情は日本のそれとはかなり異なり、うっかりしていると車にはねられます。人間、自転車などは大きな車が来ると速やかに道をあけなければ、大音響の「クラクション」の洗礼をうけます。しかし、道路には車道歩道の区別がないため、歩行者は道路の真ん中を平気で歩いています。また、道路には沢山の屋台が出ていますし、牛も沢山歩いています。1キロ位の散歩でしたが、かなりのスリルを感じました。
翌朝8時出発。今日の目的地はお釈迦様御入滅の聖地「クシナガラ」。バスで8時間の苦行です。今日は一日バスの中、窓からの景色を見ながら、のんびりと・・しかし、インドの道路はすごいですね。車のバウンドで荷物は前の方にどんどん転げていくは、天井からは鉄のさびがボロボロ、窓からは砂ぼこり、クラクションは鳴りっぱなし、後ろの座席の至徳寺さんはバウンドで頭を天井に強打する。なんとか夕方6時すぎ目的地クシナガラに到着。皆の顔が埃で汚れていました。
夕方で辺りは薄暗くなっていましたが、お釈迦様の遺骸を荼毘に付した跡に建てられたレンガ積みの大ストゥーパ、ラマバル塚にお参りしました。ここでも暗闇の中、各国の僧侶・信者がお勤めをしていました。街灯もなく暗闇の中、ロウソクの灯火に照らし出される僧侶信者達、そして読経の声、この場所にも神秘的なものを感じました。続いてお釈迦様御入滅の地を記念し、ビルマの仏教徒が建てた涅槃堂に続いてお参りする予定でしたが、夜も遅くなったので、次の早朝お参りすることにしました。
クシナガラは仏跡の中でもかなり「ローカル」(田舎)な場所でしたが、一応ホテルらしき所に宿泊できました。山小屋のような感じでしたがバス・トイレ・電話・テレビ付きでした、がすべて機能が停止していました。テレビ・電話は有りましたがどちらも、線がつながっていません。置いてあるだけ。トイレは水が流れません、シャワーはお湯が出るのは2分位で後は水。このような環境になるとかえって楽しい。次は何が起こるか楽しみです。インドの田舎、「蚊」がものすごく多い。蚊取り線香は部屋に有ったが効き目が弱い。蚊取り線香と一緒に「電気蚊取りマット」が有る。マットは有るが発熱器の機械が無い。ホテルのボーイに尋ねると、彼は無言でマットを持ち、ベットの枕もとに有る裸電球のスタンドの横に立ち、静かにマットを電球の上に置く。すると驚くことにマットからは湯気が(マットの殺虫成分と思うが)立ち上る。ボーイは「わかりましたか?」と言うような顔をして10ルピーを受け取り出ていった。すごい考えである。しかしマットは数分後には焦げ茶色に変色、慌てて取り除いた。やっぱり日本の蚊取り線香が一番でした。朝5時ボーイのモーニングコールの怒鳴り声とノックで起床。6時涅槃堂にお参りする。ここでお釈迦様の御入滅について少し書いてみました。
教えの旅を続けて80歳に達したお釈迦様は、この年の雨季に病を得て死期の近いことを知る。長年つき従った弟子阿難(アーナンダ)ひとり連れて最後の旅に出る。ある村で鍛冶屋のチュンダが供養した食事をとるが激しい苦痛に襲われる。病をおして、お釈迦様はクシナガラへと足を進めた。故郷の方向を目指されたのだ。しかし、クシナガラの郊外のサーラ樹の林に入ったお釈迦様は2本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に横たわり、再び起きようとはされなかった。嘆き悲しむ弟子たちに「自分なきあとも自らをよりどころとし、また、法(真理の教え)をよりどころとするように」とさとし、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行しなさい」という言葉を残しお釈迦様は涅槃に入られた。その時沙羅双樹時ならぬ華を咲かせこの偉大なる聖者の遺体を飾ったという。
この聖地にビルマの仏教徒たちが「涅槃堂」を建て、中にお釈迦様の涅槃像をおまつりしています。涅槃像は5m位の仏像で右脇を下にされた金色の尊像でした。早朝のため涅槃堂の中は薄暗かったが、金色の涅槃像は穏やかに微笑みかけて下さいました。ここでもお勤めさせていただき、沙羅双樹の林を少し散策しました。静かな静かな林の中のお堂でした。 次の目的地は遥か1500km西、デカン高原の都市アウランガバードです。
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