インド仏跡旅行記<その1>~<その3>

「インド仏跡旅行記」<その1>
 
 平成10年2月27日午前8時20分、9日間の「インド仏跡旅行」を無事終え、帰国いたしました。皆様のご支援有り難く感謝申し上げます。檀信徒皆様の「写経」も無事、ラジギールの
霊鷲山(りょうじゅせん)のさらに上の山、多宝山の日本山妙法寺様に奉納することが出来ました。
 今回から数回にわたり、「インド仏跡旅行」を振り返り、思いついたまま「きぬがさだより」に書いてみます。
 2月19日午後8時25分(日本時間同日の午後11時55分)ボンベイの国際空港に降り立ちました。ムッとするような暑さ、どう表現して良いのか判らない「スパイス」の効いた空気(インドの匂い)・・・それがインドの第一歩の感想でした。五千年の歴史と9億人の人々が作り出す、
混沌と喧騒のインド、今回は、その概要をご紹介します。
 インドのデータ(1996年資料)
国の面積・・・日本の約9倍
人口・・・・・9億3574万人
主要語源・・・ヒンドゥー語・英語・その他17種類の公用語
宗教・・・・・ヒンドゥー教83%・イスラム教11%・シーク教・ジャイナ教・キリスト教・仏教
通貨・・・・・ルピー(1ルピーは日本円の約3.4円)
GNP・・・・・340ドル(日本は3万9640ドル・日本はインドの約116倍)
気候・・・・・インド最北端は日本の九州とほぼ同緯度、最南端は北緯8度
緯度からいえば熱帯から温帯にわたっているが、概して熱帯的である。(しかし、北のヒマラヤの近くでは、冬には氷点下何十度にもなることがある)
 インドの季節は、暑熱季(3月〜5月)・雨季(6月〜9月)・乾季(10月〜2月)の3季に分けられています。今回の旅行は乾季の終わり頃でした。9日間で、雨は一度だけ、数分降りましたが、後は、くもりの日が多かったです。乾季なので、土埃はすごかったです。バス(冷房は無し)の中では、マスクとメガネが必要でした。インドの自然環境・・灼熱の過酷なこと、湿潤の高度なこと、大気が清涼で乾燥していることなどが、住民に受動的・忍従的・思索的な性格を付与したと考える学者もいます。
住民・・・・・インド・アーリア系、ドラビタ系
 インドはアジアなのですが、私達日本人や中国人・韓国人のアジア民族とはかなり異なったルーツを持つているのです。ボンベイの空港でトイレに行ったときの事ですが、「小」をしようと思い扉を開け、「小」用の便器を見て笑い出しそうになりました。と言うのも、便器が大変高い位置にあるのです。身長173Bの私でも少し背伸びしないと届かないのです。私はその高い便器には挑戦せず、「大」の方へ行きました。実は、インド人は身体が大きい民族なのです。日本人のようなモンゴル系とは違う、ルーツなのです。この民族のルーツが、様々な宗教を生み出した一要因なのです。インドの歴史は古く、世界四大文明の一つインダス文明(紀元前3000〜2000)があり、彼らは高い銅器文明を持ち、都市を建設していた。彼らの原住民はドラビタ人(褐色・短身・低鼻)であり、彼らは母系的な部族を構成していたらしい。 他方、コーカサス地方にその原住地を持っていた、アーリア系(現在のヨーロッパ人と同じ白色人種・長身・高鼻)の一派は紀元前13世紀ごろに北インドに侵入してきた。彼らは先住民族の(ドラビタ人など肌色の濃い人々)を平定してその支配を固めるにつれて、ヴァルナと呼ばれる身分制度を作り上げました。「ヴァルナ」という言葉の意味は「色」を意味しました。つまり、肌の色による身分の上下区別です。当然、支配者であり、肌の色も白い自分達を上位に置き、先住民族を下に置いた。この様にして現在のインドが抱えている大きな問題の「カースト制度」の元が作られました。その後「四姓」と呼ばれる、「バラモン」(司祭)・「クシャトリア」(武士・王族)「ヴァイシャ」(平民)・「シュードラ」(奴隷)の4つの階級が成立し3000年続いて現在に至っています。今でもインドには、肌色が白い方が高貴血統が良いとする考えが残っています。・・・・<つづく>


「インド仏跡旅行記」<その2>
 

 ボンベイ到着はインド時間の午後8時25分(日本時間の午後11時55分)インドと日本との時差は3時間30分です。約9時間の飛行機で少し疲れましたがホテルに行くまでのインドの風景に見とれて疲れも忘れました。夜の9時すぎなのに道には人人人・・・。何かお祭りでも有るような感じの賑やかさ、また、その人混みの中に車は恐ろしいことに入っていくし、車のクラクションは鳴りっぱなし、日本ならクラクション殺人が数件起こりそうです。後で分かったのですが、インドでは車にバックミラーがあまり付いていません、車などを追い越す際には、クラクションを鳴らして知らせる必要があるのです。旅行中このクラクションの「パッパッパッー」は耳にのこりました 
 ホテルについて遅い食事となりました。日本人なのでホテル側が気を利かせたのか、インド料理ではなく「中華料理」とのこと。しかし私が感じるには、あれは「中華料理」ではなく中華の材料を使ったインドの味付けでしたこのインドの味が私を9日間悩ましてくれました。・・インドの味が合う人は「旨い旨い」と食べていましたが。
 インドのホテルは一般に高級なところから満室になるとのこと。海外の旅行客はほとんどクーラー付きの高級ホテルに泊まるからです。今回の旅行ではクーラー付きのホテルには初日と最後の日の2回泊まりました。ボンベイの初日のホテルは日本なら失礼だが二流か三流のホテルでした。・・・しかし後で思うにこのホテルは、その後泊まったホテルに比べると超一流・・?  翌日、インド国内線にてボンベイからお釈迦様がはじめて法を説かれた地ベナレスに移動しました。ボンベイからインドの首都デリー経由で約5時間の空の旅。もう少し早く着くはずなのですが、インドの空の交通事情は平気で2時間3時間遅れてきます。空の旅の途中、楽しみにしていたのは窓から見える、ヒマラヤ山脈。少し曇っていましたが、雲の上にそびえ立つ、真っ白なヒマラヤは、おとぎの世界のお城と言った感じでした。世界最高峰のエベレストはどこなのかよく分かりませんでしたが、雲の上に浮かぶ神秘的な純白な城を見ているだけで、心が澄んだ様な気持ちになり、チベット人がヒマラヤを聖なる山として崇める気持ちがよく分かりました。
 午後2時、飛行機はベナレスに到着。空港から10Hほど離れたところに、お釈迦様が初めて法を説いた地・・・「初転法輪(しょてんぼうりん)の地」サルナートを訪れました。        
 「初転法輪(しょてんぼうりん)」というのは「初めて法輪を転がす」と言うことなのですが、「輪」とは、古代インドで戦争のときに用いた武器の戦車の車輪の威力を表す言葉です。つまり、戦車の車輪が群がる賊軍をなぎ倒して邁進するように、お釈迦様の教えが邪悪な迷妄を征服するという意味で「転法輪」と言うのです。
 お釈迦様の悟りは「ブッダガヤ」の時に詳しく書きますが、出家され6年もの間、山にこもり難行苦行を実践されたが、その様な肉体を苦しめるだけの修行では深い真理は悟れないということに、お釈迦様は気がつかれ、ナイランジャー河で沐浴された後、村娘の捧げる乳粥を飲んで体力を回復し、菩提樹のもとで瞑想に入られ、ついに真理に目覚められ、仏陀となられた。その地が「ブッダガヤ」です。お釈迦様は、その悟り得た真理を全ての人々と分かち合って皆が幸せに過ごせる世界を建設したいと念願しつつ、長い道のりを歩き、当時多くの宗教者が集まっていたベナレスを目指しました。そして現在のサルナート(鹿野苑)に着いた後、かつて共に修行した5人の修行者に出合い、自分の悟った真理を初めて語りました。耳を傾けたのはこの5人と森に住む鹿達でした。
 現在はその地に日本・チベット・中国のお寺が建っています。その中心地には、6世紀に作られた巨大な
ダーク・ストゥーパ(仏塔)がそびえ建ち、その塔の周りを、チベット・中国・日本の信者達がお経を唱えながら巡拝していました。かつて多くの僧達が修行していた僧院の跡が、芝生の中に赤いレンガの土台を見せています。私達は、日本人画家野生司香雪の壁画で有名なムラカンダ・クティ寺院を訪れ、お釈迦様の仏像の前で、報恩感謝のお勤めをさせていただきました。 (次回はベナレスのガンジス河での沐浴より)


<インド仏跡旅行記> その3
 

 旅行三日目の早朝5時にべナレスのガンジス河の沐浴と日の出を見るため、ホテルを出発。日の出は6時頃なので、町の中はまだ暗かったし、ほとんど街灯は無いので、車のライトでしか、町の様子は伺えなかったですが、道端の方でそのライトに時折、「キラキラ」と光る動くかたまりが見受けられました。はじめは暗くてよくわからなかったのですが、車が近づくにつれてその光は「人間の眼」に車のライトが反射して光っていたのです。道端には沢山の「路上生活者」がいたのです。
 バスから降りると、いっせいに十数人の「路上生活者」の人々や「物売り(数珠やお土産物)」のインド人に取り囲まれます。気の弱い人ならバスに戻ってしまいたくなるでしょう。バスを降りてからガンジス河までの約5分は「物売り」やたくさんの「ものごい」の人々をかき分けながら歩きます。暗いですが、必ず足元もしっかり見ておかないと、大変なことになります。と言うのも、
インドでは「牛」(牛はインド人にとって聖なる動物)が所かまわず「糞」をしています。その量たるや・・・一度踏んでしまったら、足首まで埋まってしまいます。ガンジス河までの5分間に左右前後からの「ものごい」・「物売り」の攻撃と「足元」の緊張とで、大変疲れてしまいました。何人かは「足元」に気がつかず、ガンジス河で沐浴ならぬ「靴洗い」をしていました。
 いよいよガンジス河岸に到着。用意してあった「小舟」に乗り込みます。気温は20度くらいだったでしょうか、少し肌寒かったですが、熱心な信仰心を持つインドの人々は
「沐浴」し、祈り、身を清めていました。ガンジス河の水は「日本人の感覚で言えば・・・汚れていて茶褐色」しかし、インドの人々はガンジス河は「聖なる河・・・母なる女神ガンガー」として崇められています。汚いとか、不潔とか、そういう「物差し」では、はかりきれません。ガイドの話だと、今の冬のこの寒い時間帯に「沐浴」する人はインド人の中でも「熱心な信仰心を持った人」らしいです。「沐浴」ではガンジス河の聖水を口に含み、口をまずすすぎ、身体全身をガンジス河に沈め、身を清めていました。中には、そのまま対岸まで泳いで行く若者もいました。
 時間が6時を過ぎたころ、
ガンジス河の対岸から太陽が少しずつ昇ってきました、輝く深紅の太陽が一直線のガンジス河の対岸から河面を染めて昇ってきます。その太陽の光の中「沐浴」する人々、岸辺で祈りを捧げる「僧」の読経の声。永遠の「いのち」を感じる時間でした。「小舟」に乗っている私たちは、ただ太陽をみていました。神秘的で温かい太陽を。
 「小舟」はその後ガンジス河の流れに乗って、河岸の風景を見せてくれました。「沐浴」している所から、少し離れたところに「洗濯場」があり、洗濯業者が、洗濯物を石にたたきつけて洗っていました。また、もう少し行くと「火葬場」がありました。ここからは撮影禁止とのこと。岸辺には大量の薪が山積みしてあり、朝の6時でしたが「火葬」の煙がもくもくと上がっていました。
 インドではヒンズー教徒・仏教徒は墓を作りません。すべて聖なる河ガンジス河に流します。「火葬場」には灰が山積みされていましたが、その灰も流します。私たち「日本人」の「物差し」では理解できない世界ですが、これが彼らインド人にとってはごく普通の世界なのです。
 その「火葬場」に「小舟」は接岸。煙の上がっている所を横に見ながらバスの所まで、迷路のような道をガイドを先頭に歩きました。その路地には沢山の店が、まるで日本のお祭りの縁日のように店を並べていました。また路地には「ものごい」の人々がずらっと列をなして座り、行き交う人々に喜捨を求めています。幼い子供や手のない人、足のない人、死が訪れるまでここに座っているのだろか老人達も数多く座っていました。その「ものごい」の一人一人に、小銭や食べ物を供養していく人も沢山いました。また、この路地には「ものごい」の人々とは様子の違うおばさんが数人お寺の門の横に座っています。「ざる」に小銭を山盛にしています。「ものごい」の人達に小銭を喜捨する人のための両替屋のおばさんたちです。1ルピー(約3.6円)を90パイサ(1パイサは約0.036円)に両替してくれます。
 インドではお金のある人が無い人に喜捨するのは当たり前とされています。喧騒と祈りのガンジス河を後にしてバスはお釈迦様の悟りの地「ブッダガヤ」に向かいました。 

インド仏跡旅行記に戻る