舞鶴市民新聞記事

顕本山法光寺

 顕本山法光寺の歴史はまだ新しく明治の終わり頃から始まります。
法光寺開山の桑村儀俊上人は、西舞鶴丹波町の生まれで、その家は本行寺(法華宗真門流)さんの熱心な檀家で江戸時代から六代続く左官業を営んでいました。
 儀俊上人が出家したのは五十代のころであったと聞きます。信仰心篤い方で日蓮聖人の霊遺「身延山」「佐渡島」を何ヶ月もかけ単身行脚されています。
元から霊感が強い方で人々の人生の悩みや信仰について相談しているうちに信者が増え、東舞鶴では、浜、吉坂、西舞鶴には京田、綾部の石原に布教所が出来き、大正の初めには当地東舞鶴北浜町にて「信行会」という教会所を信徒の協力もと立ち上げました。土地は浜の熱心な信者さんの寄進、建物(現在の庫裏)は行永の農家の建物を移転しています。儀俊上人は日蓮聖人の教えと法華経を人々に熱心に布教されました。この頃の信者さんの子孫が今の法光寺の檀家の中心となり法光寺を護持されています。
 儀俊上人の次男弥一は十代の時より左官業を手伝うが体調が優れず、法華経を読み勤行をすると元気になるので、儀俊上人に許しを得て、十七歳で出家し単身、身延七面山に修行に出かけ、山に篭ること数年、その後東京・札幌・名古屋と師僧を求め各地で修行し、明治大正時代の名僧「本多日生上人」と東京で出会い弟子入りする。
 本多日生上人は顕本法華宗の管長を三十九歳と言う若さで就任され、その布教・行動力により数多くの軍人・政治家・名士を信徒にして積極的に社会に働きかけをされています。大正時代の舞鶴鎮守府司令長官佐藤鐵太郎中将も本多上人との交流も有り、その関係で法光寺の山号を佐藤鉄太郎中将に揮毫して戴いています。
 また、平成20年3月1日から全国ロードショーが始まった、藤田まこと主演の映画『明日への遺言』の第十三方面軍司令官、兼東海軍管区司令官・岡田資(たすく)中将も顕本法華宗の僧侶の街頭布教を聞き、それが縁となり本多上人の教えを学ばれた方です。
 名僧「本多日生上人」に弟子入りした弥一は日晟と改名し、舞鶴に帰り、「信行会」を顕本法華宗に改宗し、新舞鶴統一団信行会を設立し、名古屋に有った「法道寺」の本堂を解体し舞鶴に移転する計画をし、大正十二年春から半年で当地に本堂を再建しました。名古屋から貨物列車で運び、信徒総出で与保呂川にて材木を洗い組み立て再建したと聞きます。大正十四年本多日生上人御導師のもと開堂法要が厳修され正式な寺院として認められました。この時より日晟上人は法光寺第二世として六十有余年の間、檀信徒の教化に勤められました。
 本多日生上人の影響もあり海軍関係の方々も数多く信者としてお参りされたと聞きます。当時の様子を覚えておられるご婦人によると、「私が子供の頃には、勲章がいっぱいある立派な軍服の偉い方がお参りに来られ、本堂一杯の人の前でお話もされていました」と戦前の様子を語られていました。
 当寺に残っています新舞鶴駅長の感謝状によると、昭和初期のころ東舞鶴駅付近特に九条踏み切りでは死亡事故が多発していたところ、昭和5年の春彼岸に日晟上人と法光寺檀信徒による追善法要が営まれ、その後は悲惨な事故が無くなったと記載されています。
 また、浜の海岸での海難事故者に対しては船上よりお題目の紙を流し追善法要も行っていたと聞きます。戦後は引き上げの宿泊所としても本堂を使っています。
 昭和五十八年に第三世が晋山しましたが、創立当初からの熱心な信仰を引き継がれた檀信徒のご協力により、平成十四年には本堂屋根庫裏改築を行っています。
 また、境内地・本堂の清掃は昭和五十八年より続いています、「清掃奉仕」によって美化維持されています。有り難い事に年間十回のご奉仕をして頂いております。婦人会の組織も有り、春彼岸・お会式などの法要後には手作りの食事の供養があります。
 檀信徒の要望もあり、平成十二年には永代供養塔鷲峰廟(じゅほうびょう)(永代供養墓)を建立致しました。墓地承継者不在の方、又個人、夫婦等の単位で埋葬されたいと希望される方々のため、永代使用権の提供と永代にわたる供養をすることを目的として建立しました。申し込みも舞鶴の方々だけでなく、京都大阪と遠方の方も有ります。
 創立以来八十有余年の歴史ですが、偏に信仰心篤い檀信徒の方々のご尽力により護持されてきたことに感謝致しております。