芦屋市 会下の山遺跡の巻

花びらが散った後の、桜がとても冷たくされるように
誰でも心の片隅に 見せたくはないものがあるよね

          芦屋市 会下の山遺跡全景

皆さまこんにちは。いつもご覧いただいてありがとうございます。

今回は少し、趣向を変えて、相当地味~な内容ですが・・・芦屋市にある 会下の山遺跡のご案内です。

文も長いですので、興味のおありの方は、どうかご一読ください。

さて、数ある遺跡群の中でも、芦屋市や神戸市、西宮市に在住の方には、ここはとてもなじみの深い場所だと思います。

小学校や中学校から社会見学に行かれた方も多いかもしれませんね。

昭和31年(1956年)に芦屋市立山手小学校の生徒によって、まったく偶然に発見されました。奇跡のようですね。


ここは、有名な国宝の銅鐸が発見された神戸市東灘区の渦が森にある「桜が丘遺跡」と同様に、「高地性集落」です。


ちなみに。現在の東灘区、渦が森台は住宅地となっていますが、もともと「渦が森山」という山がありました。

ところが、昭和36年に住宅地開発のために山を削ってしまいました。いまから考えると、無謀なことがされていたのですね。

この山の土は魚崎浜に運ばれて現在は埋立地となっています。

名前の由来は六甲西側から吹く風と、住吉台からの風がここでぶつかり合って「渦を巻く」ということから名づけられたとか。


 昭和初期の渦が森山 山の下、中央が甲南病院。手前が阪神電車御影駅。



 現在の「渦が森」 写真、真ん中が甲南病院で、上の写真と見比べてください。
山がなくなっています。この東側に、私が小さいころに、幽霊屋敷と恐れていた「ゲルマンハイツ」がありました。

また、よくご存じの保久良神社とその上の金鳥山は

古代信仰の場として知られており、重要文化財の銅矛などの祭祀用具が発見されています。

信仰はこの地方特有の磐座信仰(巨石信仰)がうかがわれます。

つまり、信仰対象が巨大な岩をご神体としています。


芦屋市の会下の山遺跡は弥生時代中期~後期にかけての高地集落です。

一度見学してみたいと思っていましたが、ある日曜日の小春日和に訪れてみました。

行き方はいろいろありますが、阪急芦屋駅から高座の滝方面にいくと、道標がでています。

私は、阪急芦屋川北側商店街から上がってみました。



  
住宅街の坂道をどんどん登ると、山手中学校があります。ここの学生が遺跡を発見したのですね。
その裏山が会下の山遺跡です。 青空がとてもきれいでした。

 

ここが入口です。案内図も出ています。 イノシシ除けの網戸を抜けて入場しましょう。

 

入口から少し急な斜面を登ると、住居跡の村に到着です。

 
これは高床式倉庫(復元)です。ここの遺跡では唯一の復元された建物です。

ここはまさに遺跡跡があるだけで、たとえば吉野ケ里遺跡のように建物はほとんど復元されてはいません。

でも。何もない史跡は、やたらたくさん観光用に復元されているより、そのままの状態で、想像力をめぐらせたほうが、

楽しいかもしれません。 少なくとも私はそうです。

ひどい例はもともと天守閣など無かった戦国時代の城に、観光用に後からとってつけたような天守閣を立てたりして・・・

あれはひどいですね。天守閣は信長以降に建造された(安土城)もので、それ以前は山城がほとんどです。

 本丸、二の丸程度のみがあり、天守などもちろんありません。それを観光用にと、戦国時代初期の城にも勝手に天守閣を作っています。

すみません、話が脱線しました。
会下の山に戻ります。

これも竪穴式住居跡ですが、
遺構の竪穴の箇所はじっくり見てみましたが、どこにあったのか、私は見つけることはできませんでした。残念。

 

F地区の住居跡です。集落の一番高い位置にあり、リーダーの住まいか、祭祀用の場所と考えられています。

 

ここは遺跡の最上部にあたり、集会所があった場所です。

大変見晴らしがよく、大阪平野~生駒山まで一望できます。ここで食事もしたらしく、さぞおいしく食べられたことでしょう。

ここに立って、古代人に思いを巡らせれば、感慨深いものがありますね。

まさに兵どもが夢のあと ですか・・・

一方では、現在とは異なり、当時の大阪は上町大地(大阪城のあたり)を除いて生駒山のふもと近くまで

ほとんどが海、もしくは沼地帯でした。上町大地(うえまちだいち)だけが半島のように伸びていました

当時は下記写真のようでした。海の中に現在の大阪市が薄く絵ががれています。


弥生時代に淀川や大和川から運ばれてきた土砂が堆積して徐々に平野となり、現在の大阪平野は5世紀ごろに

誕生しています。


ですから会下の山からの景色も、当時は広大な海が広がっていたことでしょう。

ではこの遺跡全体は、何故このような高い場所に作られたのでしょうか。

弥生時代であれば、農業が中心ですからこのような山の中では生活は不便だと思いませんか。

それは次のように考えられます。

会下の山遺跡は弥生時代後期の遺跡です。

つまり、有名な邪馬台国の卑弥呼が登場する前の「倭国大乱」の時代にあたります。

各地で戦闘が行われ、常に敵状を視察する必要が生じます。 そこで、高台に見張り場所を据えたのですね。

物資は海の近くの集落(同盟国)との間で、山で捕獲したイノシシやシカなどの肉と平地で採れた米や魚などと

物々交換をしていました。 危険が迫ると山を駆け下りて伝達したり、のろしを上げていました。

しかし、このあたりは、海と山が接近しており、稲作もあまり収穫できなかったと思われます。


したがって、貝や魚関係や野菜などの食料を交換して調達していたと私は思います。

やはり、軍事的な役割が主であったと思っています。


最初に書いたように、この時代は自然の岩や山を信仰の対象としていました。

いまでも、巨石岩をご神体とする神社が数多くありますね。岩木山神社のように初詣でもおまいりしました。

このことから、西宮、芦屋、東灘地区はもとより、会下の山遺跡や西側の桜が丘遺跡の住人は出雲系民族と考えられます。

弥生時代の人は、それまでの縄文時代に住んでいた縄文人と、稲作文化をもって朝鮮から渡ってきた渡来人との混血を

した人類と思われます。つまり、これが現代の日本人の原型です。それから独自の文化が生まれました。

最初に稲作文明を持って渡来し、西日本を中心に支配したのが、出雲系民族です。

そののち、北九州地方から大和系民族が鉄器等の技術を携えて西日本に侵攻してきました。

(このあたりは文献が残っていないため、諸説があります)

出雲では「やじり」などの武器や、殺された痕のある人骨が大量に発見されて話題となりました。

結果、出雲系民族は大和系民族に敗れてしまい滅ぼされ、降伏しました。

しかし。完全に滅ぼすことはせず、形の上では和睦しました。 日本の支配は大和系民族に譲るかわりに、

日本一の神社「出雲大社」を造営し、大和民族の繁栄を祈る立場に変わります。

このことが出雲神話にある「国譲り神話」となりました。 藤原時代の日本書紀にも神話として描かれています。

大和側が大勝したのですが出雲が降伏して、、表面上は手を結んだことにしたわけです。 

 ここから出雲大社は縁結びの神様として信仰をあつめ、現在でも大勢の若い人々がお参りされています。

また、。出雲大社の大宮司 千家さんの家系の長さは天皇家(大和系民族の長)とほぼ同じです。

というか。天皇家は万世一系ではなく、すくなくとも2回は途切れています。

ころが、出雲の千家は、正真正銘 万世一系です。  ということは天皇家以上に格式があるのですね。


でも歴史学会でも確かな証拠はありません。ですから、あくまで考古学と歴史文献学による推論にすぎませんが、そのことがまた想像力を掻き立て、

面白いのかもしれません。

倭国の大乱のあと、邪馬台国はどこに生まれたのか? 江戸時代から北九州説と近畿説にわかれ、いまでも論争が続いているのは

皆さまよくご存じのことでしょう。この時代は日本は文字をもっていませんでした。したがって、中国の文献で、特に中国の魏の国の「魏志倭人伝」

という文献が唯一のよりどころなのですが、作者かまたは、その弟子が何回も日本に来ているにもかかわらず、日本(倭国の位置(邪馬台国))を表す行程がいい加減で

そのため、百家百聞の意見が生まれました。

最近の考古学と、歴史学との両面からの研究で、主に東大と京大の学者に分かれて、いろいろな論争が繰り返されてきましたが、その中でも、最新の研究では

一応近畿地方説のほうが最近の発見により有力候補地となっているようです。


奈良県桜井市の箸墓古墳が、卑弥呼の墓であり、三輪山の麓、奈良県明日香地方が

今のところ有力と考えられています。  私も同意見です。でも箸墓から中国の皇帝からもらったという金印でもでれば、決まるのですが、

まだ発見されていません。やはり、物証がなければ、どんなに有力説でも仮説にすぎませんからね。それが歴史です。数学のように

明確な回答はありません。 また時代によって、新発見によって歴史は変化します。

 奈良県桜井市 箸墓古墳 卑弥呼と墓と考えられています。

このあたりを書くと個人的に非常に興味があるので文章が長くなり、本題から外れますので、またの機会にしたいと思います。

何はともあれ一度(再度?)会下の山遺跡に行かれることをお勧めします。

行かれたら、必ず一番上の見晴らし台まで足を運んでください!

さえぎる樹木もなく素晴らしい見晴らしです。おススメ。

会下の山遺跡の麓には資料館があり、、ここで見つかった発掘品などが展示されています。

ただし営業は平日のみで、土日はお休みで見学できませんでした。残念・・・(^^;

 

最後に芦屋駅の商店街の一角で「芦屋プリン」の店があったので、買って帰りました。
  

「幻のプリン」というのがあり、1個 1,200円!もしてました。(笑)

私は、手が出るはずもなく、それでも奮発して1個 420円のを買って帰りました。(それでも高~っ!)

プリンというより、クリーミーで濃くて上品な味がしましたよ。 これで十分贅沢ですよね。


手前味噌で自社商品に「幻の~」とか「行列ができる~」とか銘々するのはあまり感心しませんが・・・(^^;)

でもさすが、芦屋ですね。一番売れていたのが、幻のプリンでした(笑) 1日限定生産でこの日は 1個だけ残っていました。

でも私は買いませんが(笑)

今回はここまでです。拙文にお付き合いいただきまして。本当にありがとうございました。