6年 国語 |
「学習したことを生かして」 |
「海の命」「今 わたしたちに伝えたいこと」「生きる」から、テーマ「生き方」について考えてきたことを、高橋尚子選手の生き方を知ることで、自分についての「生き方」「生きるとは」を交流する。 |
@この人は誰だか知ってますか?
みんなもよく知ってるマラソンの高橋尚子選手です。<33歳>
|
Aこれは高橋選手の記録です。
l1997年 1月26日・・・大阪国際マラソン(7位)
l1998年 3月 9日・・・名古屋国際マラソン(1位・日本新記録)
l1998年12月 6日・・・バンコクアジア大会(1位・アジア新記録)
l2000年 3月12日・・・名古屋国際マラソン(1位・大会新記録)
l2000年 9月24日・・・シドニーオリンピック(1位・オリンピック新記録)
l2001年 9月30日・・・ベルリン国際マラソン(1位・世界新記録)
l2002年 9月29日・・・ベルリン国際マラソン(1位)
l2003年11月16日・・・東京国際マラソン(2位)
高橋選手は、前会のシドニーオリンピックで優勝したトップランナーです。
次のアテネオリンピックに資格を得るため、2003年の東京国際マラソンに参加しました。
その大会で優勝すれば2004年のアテネオリンピックに日本代表の資格を得ることができます。
しかし2位でした。2位だったため、五輪選考レースに再度参加しなければなりませんでした。
高橋選手は、監督と相談し五輪選考レースには参加しないで、今までの実績で選ばれるのを待ちました。
五輪選考レースに参加することは可能だったそうです。
しかし、このレースに参加すると、本番ではよい成績を出せないと判断し、あえて五輪選考レースに参加しなかったそうです。
それだけフルマラソン(42.195q)という競技は、過酷なスポーツだそうです。
残念ながら、高橋尚子選手はアテネオリンピックの代表には選ばれませんでした。
|
B2004年8月アテネオリンピック開催の時、高橋選手は何を考えていたと思いますか?
|
C『これが最後のつもりでアメリカのシドニー五輪前にも走った思い出のコースを走った』ときどう思ったと思いますか?
これが最後のつもりで米コロラド州ウインターパークの思い出のコースを走った。標高2700メートルのスタート地点から3500メートルの山頂まで一気に駆け上がる超高地トレーニングは、00年のシドニー五輪前にも行い、見事金メダルにつなげた。思い出をかみしめながら約2時間かけて山頂にたどり着いた時、気持ちは再び「このままでは終われない」に変わっていた。 |
Dなぜ「もう1回頑張ろう」と考えたと思いますか?
『2003以来走っていないのに応援してくれる皆さんにもう1回楽しく元気に走る姿を見せたい』 |
Eそして次の年、どうして10年間も一緒に頑張った小出監督から独立したのでしょう?
『今まで自分のためにだけ走ってきた。甘えをから決別したかった。』自分の可能性を試したかったそうです。
|
Fそれからどうしましたか?
『チームができ、仲間全員で走り出せた。』独りぼっちになった自分を支えてくれた仲間のためにもという気持ち
藤井博之コーチも西田孔トレーナーも佐藤直子栄養士も、みんな自分の仕事を投げ捨てて高橋の元にはせ参じた。
『あの時にとまったままの時間をもう一度動かしたい』
|
2005年11月20日 東京国際女子マラソン 10日前 右ふくらはぎ負傷 2日前 故障発表 医師:「全治1ヶ月でマラソンは勧められない」
『ここまで頑張ってきたのにこんな事でやめるなんて冗談じゃない。走っている最中に痛みがひどくなったら棄権する』
藤井コーチ:「引退をかけるレースではないので、辞めた方がいい」
G高橋選手は、「走る」の一点張りだったのでしょう? H2日前、不安でどうしたと思いますか?
|
メンバーに手紙 Iどんなことを書いたのでしょう?
2年前は自分のために走ったが、今回はかけがえのない仲間のために走った。レース2日前、故障を公表した。本番への不安がピークに達したその夜、居ても立ってもいられず手紙を書いた。小出義雄代表と決別し、6月に立ち上げたチームQのメンバーにあてたものだった。どんな結果になっても、私はみんなに感謝している――。素直な気持ちをつづった。
|
メンバーからの手紙 「一緒にやれたことを誇りに思います。明日は楽しんで走ってください。」 J不安で大会当日3時に目が覚めた高橋選手は何を見つけたでしょう?
Kどんなことが書いてあったと思いますか?
レース当日の午前3時、ホテルの自室で目を覚ますと、ドアの下にメンバーからの激励の手紙が差し込まれていることに気づいた。西村孔トレーナー(32)のものには「一緒にやれたことを誇りに思います。明日は楽しんで走ってください」と書かれていた。「うれしくて涙が出た」。すべてを受け入れてくれた仲間への温かい気持ちが、高橋の背中を押した。そのあとぐっすり眠れたそうです。 |
大会当日 テーピング、痛み止め 痛みが出てきたら棄権することを条件 Lなぜこのような状態で参加することにしたと思いますか?
03年大会で敗れアテネ切符を逃したことで、高橋の時計は止まっていた。再び前に進むため には東京で勝つしかなかった。
『ダメなものをダメなままにしておきたくないんです。』
|
M「あの坂に負けたくない」というのはどういう意味だと思いますか?
一気に抜け出したのは長い上り坂手前の35・7キロ地点だ。2年前に失速した難所の 上り坂。
頂点からどん底へ、そして再起。そこにあったのは「夢への挑戦」だった。 |
きずな 『2年前は自分のために走ったが、 今回はかけがえのない仲間のために走った。』 走った後のインタビュー:『2年前は自分のために走ったが、今回はかけがえのない仲間のために走った。』
N高橋選手にとって「生きる・生きているということ」は何だったといっていると思いますか?
きずな:色々な人たちから支えられていたり、支えたりしていることに気付き、その人達とのきずなを大切にしようという気持ちになった。
|
復活 高橋尚子選手 暗闇にいた私が、夢を持つことで充実した1日1日を過ごすことができた。またここから時間が刻めそうです。 「みなさんのおかげで帰ってこられた。これが第一歩。3年後の大きな大会を視野に入れて頑張ります。」次の目標は北京五輪での金メダルしかない。東京で再び動きだした時計は、もう止まらない。
「走るって楽しいなあ」「私は走るのがやっぱり大好きだよなあ」などと改めて思えたのが、今日の頑張りにつながっていると思います。
|
O高橋選手の「生きているということ」は「きずな」でした。 みんなの「生きているということ」「生きるということ」を交流し合いましょう。 |