教師 | だまされ強さ | 手助け |
教師の自己変革 | 子どもの多様性を大切に | いま、学校が取り組むこと |
感覚 | 子どものプライド | 動物と人間 |
小遣いのルール | 見守る | 奇跡は小さな積み重ねから |
叱り方 | 机上の勉強 | 決断力と判断力 |
ダメはダメ | 全人格的力量 | 指導を楽しむ |
社会音痴 | 共同作業 | 尊敬する人 |
裏切りと信頼 | 読書の習慣 | 子どもの伸び |
家庭の教育 | 対話能力 | ルール(規律) |
学力の低い子は、別の面で人間として成長できるはずなのに、弱者として学力社会のいじめられっ子になってしまう。そのこらが不満や自己主張を、暴力という形に変えて、手向かえぬ弱者に向ける。一連の事件のこの図式を、教育の場はもう一度見つめる必要があろう。(不明)
はじめから「信用できないぞ」と構えられたのでは、少年達がせっかく立ち直ろうとしかけても、取りつく島がなきなるのではなかろうか。彼らにしてもはじめから「だます」つもりで言っていないことが多いのである。従ってわれわれ専門家はだまされない人間になるのではなく、だまされてもだまされてもへこたれない人間になることが必要になってくる。「だまされ強さ」を身につけてゆくことが、専門家の訓練の狙いの一つなのである。何度だまされても粘っているうちに、思いがけない逆転劇が生じたりするから、人生というものはオモシロイものである。(臨床心理士:河合隼雄さん)
子どもは自らのうちに活動の芽生えを持っており、教育はこうした内なる力に、外から何物かを与え、内にあるものを引き出し、、順調に伸びていくことを手助けしてやること。(野末貞子さん)
教育は“共育”であって一方的に教え込むものではない。詰め込み教育で受け身になっている今の子どもたちを主体的、能動的にする工夫が必要だ。授業は単なる言葉の交換の場ではなく、生身の人間(子どもと教師)が参加して作り上げる“共生”の場だ。教師が違った見方を共有し、それを互いに深め合うことが大切です。教師がみんな同じカオになったら、その時は子どもたちが必ずつらい目にあっているはずだ。(近藤原理さん)
競争は否定しないが、無用な競争はやめたい。一人ひとりの努力が大切なのだから、頑張りをほめてやればいいと思う。強制は教育になじまない。“指示待ち人間”が多いと言われる今の子どもたち。それは、学校での命令や号令が多いせいだからかもしれない。(遠藤勝さん)
教師が子どもと人間的なふれあいを深める時間を確保するためには、会議を減らすこと、学校が抱え込んでいる仕事を整理して家庭や地域社会に戻せるものは戻すこと、さらには学習内容の精選、教員を増やして受け持ち生徒数を減らすことが求められよう。学校が受験教育の方ばかりに向いた結果、子どもたちに精神的なゆとりがなくなり、ストレスの発散が他者の「排除」へ向かっているのかもしれない。(不明)
いじめられる方には全然、悪さがなく、いじめる方が100%悪いという感覚をだれもが持たなければ、いじめはなくならない。いじめられたと思ったものの思いが即、いじめの内容であるとの感覚も必要だ。(市川浅司さん)
子どもにもプライドがあり、羞恥心がある。教育熱心とかしつけに厳しいといった家の子どもが爆発するとき、その気がないのに親が子どもの顔をつぶし続けた可能性があると疑ってみるべきだ。先生もそうだ。親から見れば熱心な先生かもしれないが、子どもにとっては羞恥心やプライドを踏みにじむ名人かもしれない。だが、プライドを傷つけられても、子どもは自分の気持ちを語るだけの能力がない。こうして言葉になりにくい部分は切り捨てられ、通俗的な正論だけ取りざたされる。(精神科医:春日武彦さん)
声をかける。それがあの子たち(動物のこと)と付き合う時の心得だ。黙らず、呼びかけ、語りかけ、決して素通りしない。動物は本物を見分けるんやね。だれが一番、自分を好いてくれるかって。人間も同じ。子ども相手に駆け引きしても、うそついてもあかん。必ず見破られる。飼育の心得は教育にも通じます。
動物に「何か言うてみい」って話しても何も答えてくれへん。おなかが痛いとも、熱があるともいわん。見物客が投げた野球ボールを飲み込んでしまったカバの「出目男」も、何も訴えられないまま苦しんで死んだ。ボクは悔しくて泣きました。でも、人間は話すことも、心を通わすこともできる。人として生きていることがどんなに幸せか――。(亀井 一成)
モノがあふれる環境の中で、買わない意思を育てるのは難しいですが、お金のありがたみはきちんと伝えたい。(不明)
親が子を、どんなタイプだと、分析することは、一見冷静に分析しているように見えますが、実はそのタイプに、自分の子どもを当てはめて、理解したつもりになるという、親の欲望の表れである場合が多いのです。子どもが自分の予想とは違う性格に育ってしまうと、自分の手元から離れていくようで、とても不安で、心配だからでしょう。しかしそれは、本来の子どもの性格をゆがめてしまうことになるかもしれない、実に危険な理解法なのです。 (同志社大教授:真銅正宏)
記録を達成するまで、小さなことを積み貸さなければいけなかった。小さな積み重ねがあれば、いつの日か信じられないような力を出すことができる。そのことを心に秘めて頑張ってください。
(マリナーズ:イチロー)
叱られてよかったという叱り方ができるようにしよう。(不明)
机上の勉強が多少できるようになっても、それが人生の役に立つとは思えない。(不明)
決断力と判断力があれば、人間は何とかなる。(不明)
家庭においては、たくさん褒められて自信を持ち、ダメはダメと叱られて正しい常識を手に入れる。(不明)
教師は指導の力と人格の力を問われることになった。(不明)
指導は具体的、かつ、個性的で、自分にあったやり方とあわないやり方がある。あれこれと試みて、その意味では「オレ流」なのである。その「オレ流」を見出すまでには、いろんな指導法を学び、試し、工夫しながら発見していくことになる。(不明)
世間ではいろんな出来事がある。そういう時事問題を取り上げることは、社会に目を向け、社会に拓く指導として、子どもたちの社会認識を育てる大事な教育課題なのであ
る。子どもたちは刻々と変化する生きた社会に育っているわけで、世の中のことはなにも知らないという「社会音痴」にしてはならない。(不明)
一人一役では、共同して作業する能力は育たない。一緒に仕事をするから社会的能力が育つのである。(不明)
教育実践に迷ったり、つまずいたり、悩んだりしたとき、「その尊敬する人ならどうするだろうか」と考えるためであった。現場にいたとき、教育実践に惑いが生ずると、「このとき、先生ならどうするだろうか」と想像し、自分の教育実践を創造した。わたしの学校づくり実践の方針は、その想像から導かれたものである。(不明)
子どもを信じるというのは、子どもが自分の好むとおりに育つことを信じる、期待するということではない。裏切られ、裏切られても、なお信じ続ける。裏切りより一回だけ親の信頼が勝てば、子どもを立ち直らせることができるはずだ。(教育評論家:斎藤次郎)
低学年には本に興味をもつこと、中学年には本をたくさん読むこと、高学年には本を選ぶことを教えるとよい。(不明)
教師しだいでどうにでも変わりうる可能性を持っているのが子どもである。親も教師である。子どもは伸びる!変わる!教師・親次第で。と思い込もう。(星)
塾通いをしたり、おけいこ事に子どもを束縛することではなく、その最たるものは人としての世の中における道徳観念の植え付け、人間としての厳しいしつけにある。子どもは勝手に伸びていく。親は、それを助けるのが役割なのです。「子どもを認め、いかに生きるか」を親が日常の生活を通じて示すことでもあり、長い目で見れば、“自分で考えて物事に対処できる人間”に育てるベースになるのです。(教育評論家:高橋敷)
「教員の役割は、他人と共鳴し合える力、つまりコミュニケーション能力を育てる」「自分の考えを持ち、違う立場の人間を理解する力がある学生は伸びる」(不明)
めざすゴールがあるから、ルールは大切。ルールを破った時には、その意味を伝えます。目的と対話のあるクラスには、ルール(規律)は不可欠なのです。怒るということは、その伝え方の1つです。子どもの可能性をあきらめず、迫力を持って教師が共に歩もうとする姿でもあります。正し、その真意が伝わらず、子どもが傷つくだけに終わるなら、やり方を変えることが必要です。(不明)