9-2.One coin toy



 誰もが、思い知った。
この気の重い旅を、優しい笑顔と、細やかな気配りで支えてくれていたのが、誰だったのかということを。
どれほど、その優しさに勇気づけられて、励まされていたのか、ということを。
けれども、レティシアの瞳に、以前のような微笑みは戻らなかった。
レティシアは、目を伏せて、必要なこと以外、誰とも何も、話すことはなかった。



 アンジェラの体調を考えると、野宿という選択肢はなかった。
まだ、日は高かったが、リックたちは山道を逸れて、近くの街ラッセルに入った。
馬上のアンジェラは、蒼い顔をしていた。
ラッセルの中心部の、割合大きなタヴァンに部屋を取ると、すぐにフィリップが、アンジェラを馬から降ろし、抱きかかえて部屋へ上がった。
「すぐ、お医者様を呼んで来ます」
レティシアは、急いでタヴァンの者に、医者の住所を聞き、連れて来た。
診察した医者は、アンジェラに絶対安静を言い渡した。
心臓に、いつ何があってもおかしくないと、言われた。
アンジェラが、このまま旅を続けられるか問うと、言語道断だと言われた。
医者の帰った後、どうしてもウッドフィールドに向かうと取り乱すアンジェラを、フィリップとレティシアで、なだめるものの、中々落ち着かなかった。
アンジェラを世話するレティシアは、アルカンスィエルにいる頃から、フィリップを想うアンジェラの気持に気付いていた。
だから、フィリップに席をはずしてもらって、一度本心を吐き出した方が、アンジェラが落ち着けるような気がして、さりげなくそうしてもらった。



 「レティシア、私だけ、ここに置いて行ってほしいって、もう一度リックに頼んでくれない?」
レティシアとふたりになると、アンジェラはすぐにそう訴えて来た。
ベッドに横たわったアンジェラの瞳は、真っ赤だった。
「アンジェラ様・・・」
「私がいなければ、今頃はもうウッドフィールドについていたわ。そうでしょう?」
「大丈夫、リックとハリーは、きっとウッドフィールドまで、無事に送り届けてくれます。これまでだって、何度も私たちを守ってくれたではないですか」
「でも・・・」
「今は、とにかくゆっくりお休みになることです。お食事は、召し上がれそうですか?」
レティシアは、そう言って、毛布をかけ直した。
「いいえ・・・、何もいらないわ」
「まだ、日が高いようなので、どこかで材料を買ってきましょう。ここのタヴァンは自炊場があるようなので、スープでもお作りしましょうね」
レティシアは、心をこめて作るつもりだった。
部屋を出ると、レティシアの頬にも涙が伝った。
出来ることなら、ウッドフィールドまで、お世話して差し上げたかった。
レティシアは心から、そう思った。



 レティシアは、近くの市場で野菜と肉を手に入れて、タヴァンの一階にある自炊場で、アンジェラのために、スープを作った。
自炊場から、部屋へ上がる時、一階の待合のようなところで、地図を見ながら、話し合っているリックとハリーの姿が眼に入った。
「レティシア」
レティシアの姿を認めたハリーが、呼び止めた。
「アンジェラのことは、フィリップから聞いた。明日から、旅を続けるのが、難しいかもしれんな」
「ええ。でも、アンジェラ様は、どうしてもウッドフィールドへ向かうって・・・」
「フィリップのためなんだろう」
「ハリー、気付いて・・・?」
レティシアは驚いた。
「本当の兄妹じゃないことは、アンジェラから聞いた。フィリップを見つめる瞳は、恋する乙女の眼差しだな」
「ハリー・・・」
「可哀そうだ。俺は、たまらんよ。十四歳だろう?楽しいことが、たくさんある歳じゃないか」
ハリーの眼は、赤かった。
レティシアは、胸が詰まって、何も答えられなかった。
リックも、黙ったままだった。
「私、お食事を届けてきます」
「レティシア」
俯いたまま、階段を上がりかけたレティシアを、ハリーが呼び止めた。
「アンジェラの食事が済んだら、リックとふたりで外へ出ておいで。みんなには、うまく言っておいてやる。少しは、息抜きも必要だぞ」
「心配してくれてありがとう、ハリー、リック。でも、私のことはいいの。いつも本当にありがとう」
レティシアは、食事を乗せた盆を持った反対の手で、ハリーの手を握った。
別れの言葉を、言う訳にはいかなかった。
だから、レティシアは、その言葉に、これまでの感謝の想いを、全て込めた。
リックは、その言葉を聞いて、レティシアは今晩去るのだと、察した。
「レティシア、リックと行っておいで」
ハリーは、そのレティシアを諭すように言った。
その様子を見て、リックは、ハリーも薄々何か感づいているのかもしれないと、思った。
「ハリー、でも、私・・・」
アンジェラの食事が済めば、レティシアは、発つつもりだった。
「俺とメシじゃ、不満か?」
リックが、冗談めかして会話に割り込んできた。
「そうだ、無愛想で口は悪いが、リックは中々いい男だぞ。俺が保障してやろう」
「それは、褒めているのか?」
レティシアは、みんなが、自分のことを心配してくれているのが、よく分かった。
気持ちがわかるだけに、レティシアはどうしても断り切れなかった。



  俯き加減で、レティシアはリックの後ろを付いて歩いた。
日は落ちかけていたが、まだ明るかった。
本当なら、まだ日の高いうちに、発ってしまいたかった。
この分だと、夜に出発することになりそうだった。
女ひとりで、夜中に出発することは、間違っても安全だとは言えなかったが、レティシアは、今夜中に発つつもりだった。
でないと、決心が鈍ってしまいそうで、怖かった。
前を歩く、リックの大きな背中を見つめて、レティシアは、リックに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
本当なら、気晴らしに、ひとりでお酒を飲みに出かけるつもりだったのかもしれない。
この前の時は、思いがけずアンヌ様がついて行かれて、楽しめなかったようだった。
そして今日は、私。
「お前、酒は飲めるのか?」
そんなレティシアの心中など、気にする様子もなく、後ろを振り返ったリックは、そう尋ねて来た。
「お酒?さあ、どうでしょうか。いただいたことがないので、わかりません」
「飲んだことがない?」
リックは、心底驚いたような顔をした。
「おかしいですか?」
「そうだな。俺が、フィリップの歳には、酒に酔って、二階から飛び降りて、一週間ほど足が動かなくなったことがあったが」
「まあ、どうしてそんなことを?」
その行動は、レティシアの理解を超えていた。
「度胸試しみたいなもんさ。俺も若かったってことかな」
リックは、肩をすくめてみせた。



 ラッセルは、それなりに大きな街だった。
酒が飲めそうな店はすぐ眼についたが、女を連れて出入りできそうな店ではなかった。
どうあっても、先日の、アンヌの二の舞は、避けたかった。
リックは、何件か覗いた後、レティシアを連れて入れそうな店を見つけた。
表通りからは外れていて、さほど広くはなかったが、中は小ざっぱりとしていた。
地元の常連客が入りそうな店で、客は四人組の男と、中年の夫婦らしい男女がいるだけだった。
初老の夫婦がやっていて、料理は出せるか聞くと、簡単な物なら出せるということで、リックはその店に決めた。
店に入って、リックは、まず強めのビールを注文した。
お前はと、レティシアに尋ねると、私も同じものを、と言いだしたので、慌てて止めに入った。
代わりに、軽いものを、半分量で注文した。
アンヌの時と、同じことを繰り返すわけには、いかなかった。
どうやらあの一件は、俺にとって、思わぬ精神的な痛手になったらしいと、リックは気付いた。
「ごめんなさい、リック。迷惑だったでしょう」
注文が終わると、直ぐにレティシアは、そう言った。
「本当に迷惑なら、断ってるさ」
「ごめんなさい」
「今夜、謝るのは、止めにしないか?俺に謝るのは、今日何度めだ?」
「ごめんな・・・、あ」
言いかけて、リックと眼があった。
二人とも、思わず笑った。
けれども、レティシアは、ふと、右手をみつめた。
今、リックと笑いあったことが、急に胸を締め付けて来た。
昨夜の、ダニエルの、あの眼。
突き落とした、この手。
今、昨夜のことなんて、何もなかったように、笑っている私!
「どうした?気分でも悪いのか?」
リックの声で、レティシアは我に返った。
「レティシア?」
表情の強張ったレティシアを見つめるリックの眼を、レティシアは静かに見返した。

今夜で最後よ、レティシア。
今夜だけよ。
今夜中に、みんなの前から、姿を消すのよ。
リックにも、もう二度と会わない。
会えない。
いつも守ってくれた人。
ブリストンで、私たちを助け出し、盗賊から守ってくれた。
左肩の烙印のことも、みんなに黙っていてくれた。
無愛想だけど、時々とても意地悪だけど、でも、本当はとても優しい人。
リックがブリストンへ帰ってから、一度だけでもいいから、思い出してほしい。
ああ、レティシア、そんな女もいたな、って。
左肩に醜い傷跡を持つ、とんでもない女だったけど、そう悪い女でもなかった、って。
明日からは、ひとりで、消えない罪と、過去と向き合って生きるから、今夜だけ。
リックの前で、当たり前の、どこにでもいる二十歳の女として、過ごしたいの。

「大丈夫です。少し疲れていたのかもしれません」
レティシアは、笑顔を浮かべた。
「今日、ほとんど食べてないだろう?」
「少し、お腹がすきました」
本当は、あまり食欲がなかった。
けれども、別れの前に、リックとの時間を楽しみたかった。
運ばれてきた、煮込み料理と揚げ物を、レティシアが取り分けようとしたら、リックに、先にフォークとナイフを取られてしまった。
「リック、私がしますから、フォークとナイフを貸してください」
驚いて、レティシアが手を出したが、リックは聞き入れなかった。
鼻歌を歌いながら、雑に取り分けると、リックは、たっぷりとレティシアの皿に盛った。
リックは、上機嫌だった。
それを見て、レティシアは、ほっとした。
料理の味は、悪くなかった。
ただ、ビールというものの美味しさは、レティシアにはよくわからなかった。
リックは、随分腹が減っていたと見えて、レティシアが笑いだしたくなるくらいの量を、あっさり平らげた。
「食欲旺盛ですのね」
「そうか?男だったら、これぐらいは食うだろう」
「フィリップ様は、こんなに召し上がりませんけど・・・」
「じゃあ、まだ一人前じゃないっていうことだ」
「リックは、ブリストンに、その・・・、女はいませんの?」
レティシアは、可笑しそうに笑みを浮かべて、女、という部分だけ、ことさら強調した。
盗賊に襲われた夜、リックがレティシアに、男はいないのかと、尋ねたことへの、反対質問らしかった。
「痛いところをつくな」
「では、ブリストンに家族はいませんの?」
「俺の両親は、もう随分前に死んだ。親父が死んで、十二の時に、引き取られたのが、今働いている、マクファーレン商会の経営者の家で、その家の息子がフランクだ。フランクの上に、もうひとり、ジェフリーっていうのがいて、今はジェフリーが、マクファーレン商会の経営者だ。その強欲なジェフリーに、俺は、日々こきつかわれてる。こんな話、楽しいか?」
「ええ、とても」
実際、レティシアの瞳は、輝いていた。
「変わってる」
「私の知らない世界のお話を聞くのは、とても楽しいことですわ。続きはありませんの?」
「マクファーレンの家には、ジェフリーと、フランクの両親と、セルマっていう口やかましいばあさんがいる。セルマは、俺が何をしても、小言を飛ばす。ナイフの使い方が悪い、口のきき方が悪い。マクファーレンの家にいる時は、始終だ。マクファーレンの家を出て、一番ほっとしたのは、セルマの小言を聞かなくて良くなったことだ」
「では、今のあなたを見たら、きっと、おばあさまのお小言が飛んでくるのでしょうね」
リックは、足を組みながら、とても行儀がいいとは言えないくつろいだ姿勢で、ビールを口にしていた。
「間違いない」
「でも、楽しそう。家族がいるのは、うらやましいことですわ。私にも、両親はありません。物心ついた時には、もういませんでした。でも、父親代わりのような人がいて、私がとても傷ついていた時に、慰めて、いたわってくれました。とても、お酒の好きな人で、お店で酔いつぶれてしまって、よく迎えに行くことがありました。少し前に、亡くなってしまいましたが」
リックは、レティシアが、ジャンのことを話しているのだろうと思った。
「少し、ピエールに似ていて、私、その父親代わりの人に、何の恩返しもできなかったものですから、ピエールを大事にできたらと思っていたのですが・・・」
「残念だったな」
「ええ、心残りですわ。あら、こんな話をするつもりは、ありませんでしたのに。こんな話、退屈でしょう?」
「いや、そうでもない」
リックの頭には、ケヴィンの手紙の内容がよぎっていた。
「リック、家族があるということは、本当に幸せなことですわ。待っていてくれる人がいるなんて、素敵なことだと思います。リックが、この仕事を無事に終えて、早くブリストンの家族の元へ帰れるように、私、お祈りしていますわね」
そういうレティシアの微笑みは、穏やかではあったが、リックは、その瞳に一抹の寂しさを、感じ取った。