7-1.女中の秘密



 ハリーは、気さくに話しかけたり、他愛もない話で和ませてくれたりして、 たちまち皆に溶け込んだ。
フィリップの話を親身に聞いてやったり、時には大人の視点から、適切な助言をしてやったりしていた。
そんなハリーに、フィリップたちの方も、すぐに親しみを持った。
驚いたことに、ハリーは昼食の時、アンヌと、とある高名な音楽家の演奏について、議論していた。
しかもその議論は、かなり詳細な点に及んでいて、アンヌにそういった教養があるのは不思議ではないとしても、ハリーのその見識の深さには、一同が感心した。
アンジェラやレティシアは、何かと冗談を言ってはふたりを笑わせて、楽しくさせてくれるハリーのことが、すぐ好きになった。
リックにとっても、ハリーの存在は大きかった。
リックは、昨日までに比べて、自分が幾分リラックスしていることに気づいた。
ひとりで、四人を守らなくてはならないという緊張が、少なからずあったのだと、気付かされた。
穏やかに話を聞き、時に必要なアドバイスを的確にしてくれる年長者の存在は、思った以上に、心強かった。
そして、もう一つ、リックとアンヌの間にも、微妙な変化が見られた。
それは、決して和解といえるものではなかったが、これまでの敵意、無視、軽蔑という険悪な関係から、互いに相容れないことを理解した上で、互いの立場を尊重するという、友好的距離感を確認した、というべきであったろうか。
いずれにせよ、旅はまだ続く。
お互いにいがみ合っていては、余計な神経を使ったし、周りの者も気詰まりであったから、昨日の一件は、ちょっとした騒ぎには違いなかったが、良いきっかけになったことは、確かだった。



 夕刻、リックたちは首都タリスに入った。
レティシアは、今夜泊まるタヴァンの入り口と部屋を行き来し、リックとハリーが馬から下ろした荷物を、てきぱきと運び込んでいた。
リックは、そちらをちらりと眺めながら、それにしても、良く身体の動く奴だな、と思った。
毎朝、夜が明けないうちに起きて、自分の身の回りのことを手早く終えて、アンヌとアンジェラの身の回りの世話、食事の支度、荷物の準備、それらを終えたら、すぐに出発し、昼の小休止と馬の餌の時間以外は、ほとんど一日中、馬上にいた。
昼の小休止の時も、見ていれば、アンヌやアンジェラの食事の世話を細やかにし、タヴァンに到着したと思えば、休む間もなく、今のように、荷物を運び込んでいる。
男たちは、タヴァンの食堂で、適当に夕飯を済ましたが、貴族の娘が、そういったところで、食事を取るのは、好ましいものではなかった。
そのため、タヴァンに着いてからも、アンヌやアンジェラの食事を下の食堂から部屋に運び、食器を下げ、就寝の仕度をし、衣服の手入れをした。
リックは、レティシアが一体いつ夕飯を食べて、寝ているのか、分からなかった。
しかも、それらのきりのない仕事を手際良くこなしつつ、いつも朗らかだった。
誰かが、用があって、レティシアを呼ぶと、はい、すぐに参ります、と、明るい声が返って来た。
今も、タリスのタヴァンに到着すると、リックとハリーが馬上から下ろした重い荷物をてきぱき運ぶのだが、いつもと違うのは、少しその表情が険しいところだった。
それは、アンジェラの具合がよくないからだった。
タリスに着く少し前から、胸の痛みを訴えていた。
今日中に、何とかタリスまでは到着したいと、本人も不調に耐えたものの、タリスのタヴァンに着くと、もうぐったりして、すぐに休ませなければならなかった。
アンジェラのことは、アンヌとフィリップに任せ、レティシアは、荷物を運び込み終えたら、ともかく医者を呼びに行くつもりだった。
タリスの今夜の宿は、街のはずれにある、リックの馴染みの、家族で経営するこじんまりとしたタヴァンだった。
レティシアは、そういったタヴァンの方が、いろいろと尋ねやすく、今も、タヴァンの主人に、近くの医者をすぐに教えてもらうことが出来て、有り難かった。



 「それにしても、よく働く娘だね」
タヴァンの女将が、到着してから、休む間もなく、階段を上り下りするレティシアを眺めて、リックに言った。
「全くだ」
リックも、その動きを感心して眺めた。
そうやって忙しく働きながらも、レティシアの動きは尖がったところがなく、柔らかだった。
やっぱり今、リックが呼び止めたとしても、きっと、いつもの優しい笑顔で、はい、すぐに参ります、と言ったことだろう。
「レティシア、医者を呼びに行くんだろう。ここはもういいから、暗くなる前に、行っておいで」
ハリーが、そうレティシアに声をかけた。
「とても助かるわ。それじゃあ、私、急いで行って来ます」
と、住所を書いてもらった紙を手に持って、レティシアは医者を呼びに行こうとした。
「転ばないように気をつけて」
「ありがとう、ハリー」
レティシアは、笑顔を向けた。
「行って来てやろうか?」
レティシアは、驚いたように振り返って、声の主であるリックを見つめた。
リックから、そのような優しい気遣いを受けるとは、思っていなかった。
リックは、いつもレティシアに無愛想だった。
何故なのか、はっきりとした理由はわからなかったけれど、レティシアはリックから嫌われていると思っていた。
左肩の烙印を見られてからは、嫌厭されたとしても仕方のないことだと、諦めていた。
だから、その優しい気遣いを、とても嬉しく思った。
「いいえ、いいの。まだ、馬を預けに行かなければならないのでしょう?お気遣い、本当にありがとう、リック」
レティシアは、リックの瞳を見つめて、嬉しそうに笑った。
そうして、振り返って、足を踏み出そうとした時、 何かに蹴つまずいて、危うく転びそうになった。
そのレティシアを、間一髪、リックが支えた。
リックが腕を回したレティシアの腰は、思ったよりずっと華奢だった。
ぐっと目の前に近寄った薄紅色の頬と、白いうなじから放たれる甘やかな色香に、リックは、一瞬心を奪われた。
「ごめんなさい、リック、私ったら…」
と、レティシアは、恥ずかしそうに照れ笑いをした。
けれどもその後、ふたりで足元を見て、目を丸くした。
丸々と太った豚がいたのだ。
豚は、ふたりを見て、ブヒッと、声を上げた。
「豚…?」
リックは、レティシアと声を揃えた。
「ダメ、ダメ、そっち行っちゃダメだって、エース」
五、六歳くらいの男の子が、慌てて、豚を追いかけて来た。
「坊やの豚?」
「坊やじゃないや、俺にはティムって言う名前があるんだ」
「ごめんなさい、ティム。でも、とても驚いたのよ。こんなところで、豚に蹴つまずくなんて、思いもしなかったの。この子は、あなたの豚なの?」
レティシアは、おかしそうに笑った。
「違うよ。このタヴァンで飼ってた豚さ。今から、うちに連れて帰るんだ。ここの主人に頼まれて、明日の朝一番で、父ちゃんが絞めるのさ。俺も手伝うんだぞ」
ティムは、自分も手伝うということを、自慢するように言った。
ティムの父親は、街のはずれで、豚を捌く仕事を生業にしていた。
「まあ…、可哀想に」
「女って、すぐそういうこと言うんだよ。だったら、ベーコン食わなきゃいいんだ」
「ごめんなさい…」
「ほら、レティシア、早く行った方がいいぞ」
ハリーが、夕暮れ迫る空を指差した。
「あら、そうね、急がないと。ティム、お父さんのお手伝い、頑張ってね」
レティシアは、花のように優しく柔らかな微笑みを向けると、急いで馬車道を渡って行った。
「さあ、俺たちも、早いとこ片付けちまおう」
ハリーは、駆けていくレティシアの、後ろ姿を眺めるリックの肩をポンと叩き、これは、惚れるなって言う方が無理だな、そう思った。



 レティシアは、急いで馬車道を渡ると、住所を書いた紙を見ようと、立ち止まった。
すると、前を良く見ていなかったせいもあって、歩いて来た紳士と、勢い良くぶつかって、尻もちをついてしまった。
「あら…、ごめんなさい」
レティシアは、急いで立ち上がりながら、今日は、豚につまづいたり、人にぶつかったりして、良く転ぶ日だわ、と何だか、おかしくなった。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
「ええ、大丈…夫…」
紳士の顏は、まだ見ていなかった。
けれども、その声を聞いて、レティシアの頭の中で、何かが弾け飛んだ。
顔を見ずとも、それが誰なのか、すぐに分かった。
笑顔は凍りつき、鼓動が早くなるのが分かった。
「お嬢さん、お怪我は?」
紳士は、レティシアの手を取って助け起こし、にこやかに微笑んだ。
レティシアは、答えなかった。
そして、紳士の顏を見ることもしなかった。
「お気をつけて、お嬢さん。また、いずれ」
紳士はそう言って、帽子に手を掛けて、会釈をすると、そのまま立ち去った。
何故…、今頃になって…。
レティシアは、目眩を覚えた。
壁に寄りかからなければ、立ってはいられなかった。
レティシアは、深く動揺していた。
だから、その時になってようやく、紳士が、レティシアの手の中に、紙片を残したことに気づいた。
震える指で、その紙片を開くと、待ち合わせの時間と場所が記されていた。



 アンジェラを診察した医者は、脈が乱れていることを指摘した。
「これまでに、胸の痛みを感じたことは?」
医者がそう尋ねると、アンジェラはうなだれた。
「あるのですね?」
「はい…」
傍にいたフィリップは、
「今まで一度も、そんなことを言わなかっただろう?」
驚きを隠せず、ベッドの上の妹の顔を見つめた。
アンヌは黙って、医者の診立てを聞いていた 。
アンジェラは、半年ほど前から、時折、胸が痛むことがあるのだと、告げた。
けれども、ここ数週間は、落ちついていた。
ところが今日突然、鋭い痛みが、胸を絞めつけた。
レティシアは、アンジェラの胸の痛みのことを知っていた。
そして、アンジェラから、堅く口止めされていた。
もうこれ以上、お兄様に、心配はかけたくないのだと。
医者はともかく、安静を告げた。
体調が落ち着くまでは、無理はいけないと、言った。
レティシアは、診察を終えた医者と共に、部屋を出た。
部屋の外には、アンジェラを心配したハリーとリックが、立っていた。
医者は、手短にもう一度、リックとハリーに、アンジェラの容態を説明してから、帰ろうとした。
その医者を、レティシアは、送って行くと言う。
「これから?」
ハリーは、驚いた。
外は、もう真っ暗だった。
医者は男だし、一人でも大丈夫だろうし、事実、医者も一人で大丈夫だと言った。
医者を送った帰り道、ひとりで帰ってくるレティシアの方が、よっぽど心配だった。
けれども、レティシアは、どうしても行くと言い張った。
それだったら、代わりに俺が行こうと、ハリーが提案しても、頑なに首を振った。
ハリーも、リックも、当惑した。
レティシアは、どう言っても聞き入れず、半ば、押し切るように、強引に医者について出て行った。
レティシアの顔は、青ざめていた。
それは、アンジェラの容態を心配したせいかもしれなかったが、つい先ほど、花のような柔らな笑顔で、馬車道を渡って行ったレティシアとは、別人のようだった。