23-2.凪



 うっすらと、朝靄が掛かる中、リックはフィリップとふたり、山道を馬で登った。
まだ空が暗い中、ふもとの村を出て、一時間程経っていたが、まだ目的の場所へは、辿り着かなかった。
山道は、馬車が一台通れるほどの道幅はあるものの、時折急な勾配があったり、地面が窪んでいたり、とても道がいいとは、言えなかった。
「一体、どこへ行くんだ?」
フィリップとふたり、ブリストンから、ここまで二日かけて、やって来たものの、こんなユースティティアの山奥で、一体リックに何にさせようというのか、皆目見当がつかなかった。
「もう、着くよ」
そのフィリップの言葉に、間違いはなかった。
リックと、フィリップの眼の前に現れたのは、周囲をぐるりと高い塀で囲まれた、強固で頑丈そうな、石造りの建物だった。
「ここは・・・」
「聖ラファエラ女子修道院だよ」
「女子修道院?」
リックは、眼を丸くした。
「なんだって、こんなところに・・・」
「いいから、こっちへ」
と、フィリップは、登って来た山道を逸れて、修道院の通用門が眼に入る、木々の間に、リックと共に、身を潜めた。
いったい、どれほどの時間、そうしていただろうか。
「そろそろ、理由を説明してもらってもいいと思うんだが」
さすがに、リックもしびれを切らした。
「待って、静かに。・・・来た」
と、フィリップが言った時、じゃりじゃりじゃりと、地面を這う、鈍い車輪の音が聞こえて来た。
リックたちが先ほどやって来た山道を、ゆっくりと登って来たのは、荷台を馬にひかせた牛乳売りだった。
牛乳売りの男は、リックたちには気付くことなく、そのまま女子修道院の通用門へと向かった。
通用門に着くと、牛乳売りの男は、その木戸を何度か叩いた。
すると、中から、扉が開き、下働きの娘が出て来た。
娘は、顔を伏せがちに、牛乳売りと一言二言、言葉をかわすと、硬貨を、牛乳売りの手に乗せた。
そして、荷台から牛乳売りが降ろした大きな缶を受け取り、重そうに木戸の中へと運んで、扉を閉めた。
それは、ほんのわずかな時間の出来事だった。
牛乳売りは、荷台の向きを変えると、そのまま、もと来た道を下って行った。
「あれは・・・、レティシアか?」
牛乳売りの姿が見えなくなった後、擦れたような声で、リックは、呟いた。
リックは、まるで、幻でも見たかのような気分だった。
「ブリストンへ向かう前、この眼で確かめるために、一度ここへ来た。僕も最初、俄かには信じられなかったよ」
それは、確かにレティシアだった。
四年前に比べて、表情が暗く、陰っていたが、それは間違いなくレティシアだった。
リックは、まだ、驚きから抜け出せないままだった。
「で、なぜ、レティシアはこんなところにいるんだ?」
「実はね・・・、記憶を失っているんだ」
「何?」
「リックも、僕も、アンヌも、ラングラン侯爵も、ミラージュも・・・、全く何も覚えていない」



 フィリップは、ずっとレティシアのことを気にかけていた。
アンヌの手紙を受け取ってしばらくは、レティシアの方から、リックへ連絡が来ることを期待して、待っていた。
けれども、時間を経ても、レティシアがリックに便りを寄越すことはなかった。
それで、フィリップは、レティシアの行方を捜すことにした。
国内外、あらゆる手段を用いて、レティシアを捜させた。
女子修道院は、公爵令嬢のアンヌが、レティシアを隠す場所として、可能性の高いところだった。
未婚の貴婦人、あるいは高貴な身分の未亡人の最終的な行き先が、修道院であることは多々あったため、公爵令嬢のアンヌが、どこかの女子修道院と、何らかの関わりを持っていたとしても、不思議ではなかったからだ。
ミラージュから、レティシアを隠すのに、人里離れた女子修道院は、適しているとも、思えた。
だから、フィリップは、各地の女子修道院に、密かに探りを入れた。
ただ、女子修道院であるがゆえ、大々的に、レティシアを捜索すると言うことは、難しかった。
当然、女子修道院は男子禁制で、外部との接触は、制限されていたからだ。
そういったこともあって、フィリップは、芳しい情報を、なにひとつ得られなかった。



 海を渡り、遥か遠い、新大陸に向かったアンヌを捜し出し、連絡をとれば、よかったのかもしれない。
フィリップは、国王と言う立場から、やろうと思えばできた。
けれども、そうはしたくなかった。
フィリップに、アンヌを恨む気持ちは、全くなかった。
アンジェラのことは、何年を経ても辛い記憶だったが、だからと言って、アンヌに対する憎しみはなかった。
むしろ、ラングラン公爵のもと、ミラージュと言う組織に引き込まれ、公爵令嬢でありながら、闇の世界でしか生きられなかった、それまでの人生に、深い同情を覚えていた。
だから、過去と決別し、十八歳という若さで、強い覚悟を持って、海を渡り、新たな人生を切り開こうとするアンヌを、今さら、過去に引き戻そうとするようなことは、したくなかったのだった。
けれども、レティシアが姿を消して、四年の年月が過ぎようとしていた。
何の手がかりもなく、フィリップは、万策尽きていた。



 ところが、先月のこと、突如、この聖ラファエラ女子修道院の修道院長から、お捜しの娘を、お預かりしています、と、連絡が入った。
フィリップは、その話を聞いて、驚いた。
この女子修道院にも、それらしい娘を預かっていれば、必ず連絡するようにと、これまでに何度も、書簡を送っていたからだった。
フィリップは、人をやって、すぐに詳しい経緯を聞き出した。
修道院長は、これまで、真実を隠していたことを深く詫び、詳細を話した。



  四年前のある夜、突然、ラングラン公爵令嬢アンヌの使いの者、エマが、ひとりの若い娘、レティシアを、この女子修道院に連れて来た。
ラングラン公爵家と、聖ラファエラ女子修道院は、古くから関わりがあった。
ラングラン公爵家の歴代の未亡人や、未婚の女性が幾人か、聖ラファエラ女子修道院に身を寄せていたからだった。
その縁で、アンヌはレティシアを、ミラージュから隠すため、この山奥の女子修道院に、匿った。
聖ラファエラ女子修道院は、ミラージュとは無関係だった。
そのせいなのだろう、アンヌは、エマに託した修道院長への手紙で、詳しい経緯を、何も書かなかった。
ただ、託した娘、レティシアが傷を癒すまで、匿ってほしい、と。
そして、傷が癒えたなら、レティシアが望む場所へ向かえるよう、力をかしてやってほしい、と。
そして、それまでは、誰がどのように、レティシアを訪ねてくることがあっても、一切引き渡してはならないし、何も話してはならないと、手紙に記した。



 レティシアは、ずっと眠り続けていた。
レティシアは、エマによって、聖ラファエラ女子修道院に運び込まれ、エマが立ち去った後も、まだ数時間ほど、眠り続けていた。
「赤ちゃんは!」
レティシアは目覚めた瞬間、下腹部を押さえながら、ベットの上に跳ね起きて、そう叫んだ。
赤ん坊を失ったという記憶だけが、レティシアに残された唯一の記憶だった。
それ以外の記憶は、一切、失われていた。