20-1.初雪



 レティシアの吐き気は、おさまらなかった。
熱があるわけでもなく、胃の不快感だけで、そう休んでいるわけにもいかず、いつも通り、朝からアンヌの身の回りの世話を勤めた。
「あまり、顔色がよくありませんね」
アンヌが、レティシアの顔を見て、そう言った。
「御心配をおかけして、申し訳ありません」
「あなたは少し、忙しくしすぎなのです。わたくしの用が無い時は、休んでいなさい」
「お気遣い、ありがとうございます、アンヌ様」
レティシアは、感謝の意を込めて、アンヌにそっと微笑んだ。
自分へと向けられた、レティシアの屈託のないヘーゼルの瞳を見つめて、一瞬、アンヌは、胸に針が刺すような痛みを覚えた。



 低い雲が、垂れこめていた。
窓から空を見上げる、アンヌの深い緑色の瞳に宿る厳しさが、一段と増していた。
アンヌは、この先、自分が取るべき方針を、見いだせなかった。
ラングラン公爵のことも、レティシアのことも、どのように決着をつけるのか、一体自分の望みは何なのか、その答えが、見つからなかった。
けれども、もう考えている時間はなかった。
昨日、アレクセイ国王は、再び、ユースティティアに向けて出陣した。
アレクセイ国王が、セヴェロリンスクに留まっている間は、お父様も目立った動きを避けたはず。
けれども、邪魔者は去った・・・。
そろそろ、お父様も辛抱の限界ね。
動き出す前に、こちらから動きださなくては。
「アンヌ様」
窓辺にたたずむアンヌを呼ぶ者があった。
振り返ると、エマがいた。
「エマ、何かあったのですか?」
クリスティーヌ付きの侍女、エマを、王宮から呼んだ覚えはなかった。
「用があるのは、わたくしよ、アンヌ」
「お姉様・・・」
エマの後ろから、厳しい表情のクリスティーヌと、不安げなフランセットが姿を現した。
「お久しぶりでございます、お姉様」
アンヌは、クリスティーヌに頭を下げた。
クリスティーヌは、答えなかった。
いつも、その言葉や振舞いの端々に、クリスティーヌを見下すような態度が見え隠れした。
アンヌは、常にクリスティーヌを軽視していた。
幼い頃から、冴えた頭脳と、何事にも動じない度量で、周囲を圧倒する妹だった。
ラングラン公爵の信頼と期待は厚く、クリスティーヌはいつも蚊帳の外だった。
それは、姉妹の間にも、深い溝を作った。
クリスティーヌは、ミラージュの・・・、ラングラン公爵の手段に用いられ、アンヌは、ミラージュを操る、組織の長に君臨しつつあった。
「アンヌ、わたくしは金輪際、お父様の指図も、あなたの指図も受けません。わたくしはわたくしの意思で、セヴェロリンスクの王宮で暮らし、アレクセイ国王をお支えして、生きていきます。あなた方の、操り人形になるのは、もうたくさん」
めずらしいこと。
アンヌは、クリスティーヌのそのきっぱりとした物言いを聞きながら、そう思い、そして、軽蔑した。
本当に、単純な方。
アレクセイ国王との色恋が、手に取るよう。
感情に支配されるクリスティーヌが、アンヌには低俗としか映らなかった。
「さあ、それはどうでしょうか」
「どう言う意味?」
アンヌは、どこまでも冷静で、クリスティーヌは気色ばんだ。
「お姉様のご希望はお聞きしました。今後ゆっくり、検討させていただきます」
「あなたには、人の心がないの?」
「人の心・・・。残念ながら、お姉様と違って、わたくしは、そのようなものを持ち合わせてはおりません。では、反対に、お姉様にお聞きします。お姉様は、人の心を持ったまま屍となりたいのか、心を失っても、命を長らえたいのか、どちらなのでしょう?」
「アンヌ・・・」
「両方を望むのは、不可能です。お姉様が、どうしても人の心を持ちたいとお望みなら、どうぞご自由に。ただし、命の保証はいたしません。アレクセイ国王は、きっと大いに嘆き悲しみ、お姉様の立派な葬儀が、執り行われることでしょう」
「あなたっていう人は・・・」
「ミラージュは、組織に刃向かう者を切り捨てます。今さらわたくしが言うまでもなく、お姉様も、それはよく御存じのはず。お姉様も、お考えを改めたらいかが?そちらの方のように」
と、アンヌは、その濃い緑色の瞳を、ちらりとフランセットに向けた。
フランセットは、一瞬口を開きかけたが、そのままつぐんだ。
「しばらくは、アレクセイ国王の愛人という立場を、存分にお楽しみください。 お姉様が必要になれば、場合によっては、また、ユースティティアに戻っていただくことになるかもしれません」
感情的になっている。
必要以上に冷酷になっていると、アンヌは感じていた。
けれどもアンヌは、自分のその冷酷さが、どこからやってくるのか、わからないでいた。
「あの・・・」
一斉に、その場の者の視線が、声の主に注がれた。
レティシアだった。
「用件は、後にしなさい。すぐに出て行きなさい」
「アンヌ様・・・」
それは、鋭いアンヌの勘だった。
ここにいさせては、まずい。
まずい。
早く、出て行くのよ、レティシア。
アンヌの不安は、的中した。
「あなた、ブロンディーヌ・・・?」
「お姉様!」
アンヌが制する前に、クリスティーヌが、口走っていた。
レティシアの瞳が、驚愕で大きく開いた。
「なぜ、なぜ・・・、それを・・・?」
レティシアの、呼吸の乱れが次第に大きくなって行き、立ってはいられなくなって、その場に膝をついた。
「まさか・・・、まさか、知らなかったの・・・?」
驚いた顔のクリスティーヌが、アンヌの顔を見つめた。
アンヌの表情は、強張っていた。
「どういうことなのですか・・・、アンヌ様。何故、ブロンディーヌを?アンヌ様、お答えください・・・」
アンヌは、答えずに、黙って、レティシアを見つめていた。
先日から、レティシアを苦しめる吐き気が、襲う。
レティシアは、手で口元を押さえた。
「あなた・・・、大丈夫?」
「申し訳ございません」
心配して、レティシアの傍らに来たフランセットが、その背中をさすった。
けれども、吐き気は、一段と酷くなって、レティシアを襲う。
フランセットは、その様子を見て、気づいたことがあった。
「この吐き気は、いつから?」
「三日ほど前から・・・」
「あなた、まさか赤ちゃんが・・・」
ぎくっ、とレティシアはお腹に手をやった。
確かに、来るべきはずのものが、来ていなかった。
まさか、そんな。
そんなことが・・・。
すっと、レティシアの前に影が差した。
レティシアが顔を上げると、アンヌが立っていた。
そして、床に座り込んだレティシアを、鋭角に見下ろしていた。
「アンヌ様・・・」
「お父様のところへ、お行きなさい」
「ブロンディーヌを行かせては駄目よ、アンヌ。そんなことをすれば、どうなるかわかるでしょう?絶対に行かせては駄目」
「ブロンディーヌが行かなければ、わたくしがどうなるかおわかり、お姉様?」
「アンヌ・・・」
「わたくしは、屍にはなりません。お行きなさい、ブロンディーヌ。お父様のところへ」
深い緑色の瞳の中には、静かな炎が燃えていた。