2-3.御者リック



 リックは、フォルティス有数の街、ブリストンにあるマクファーレン商会が経営する、駅馬車会社の御者だった。
マクファーレン商会といえば、ブリストンでは有名で、駅馬車だけではなく、タヴァン(宿)、質屋まで、手広く商売をしていた。
リックの定宿、バッカスも、マクファーレン会社が経営していた。
リックは、ブリストンに住んでいたが、家も、家族もなかったので、バッカスの一室を借りていた。
リックは、一介の御者にすぎなかった。
階級社会のフォルティスという国で、御者という仕事は、肉体労働であり、支払われる賃金は、ごく安いものだった。
普通なら、御者が、タヴァンの一室を自分の部屋にするなどという贅沢は、ありえなかった。
労働者たちはみな、ひとつしか部屋のない、清潔とはいえないアパートに、家族で住んでいた。
炊事場や、トイレは共同で、洗濯は裏庭で干すのが通常だった。
何故、一介の御者にすぎないリックが、バッカスの一室を、自分の部屋のように使えるのかは、リックと、マクファーレン商会の特別な事情があった。



 リックは母親の顔を、知らない。
物心つく前に、亡くなったからだ。
父親は、土木技師だったが、無類の酒好きだった。
母親が亡くなった後も、再婚はせず、ブリストンの街中に、父子で暮らしていた。
家事は、通いの家政婦がやっていた。
決して、裕福な家庭ではなかったが、読み書き計算くらいは身につけておけと、学校へはやってくれた。
学校といっても、労働者や、さほど裕福でない家の子供が通うようなところで、真面目に勉強しようという者はまれだった。
そもそも、勉強をしたところで、階級社会のこの国では、出世という言葉はなかった。
パン屋の子はパン屋に、職人の子供は職人になるしかなかった。
それでも、学校に行けること自体、かなり恵まれている方に違いなかった。
リックの家の周りには、学校に行かず、親の手伝いをする子供は大勢いたし、あるいは子供でも働くのは当然だった。
リックは、学校が嫌いだった。
真面目に勉強する気は、全くなかった。
なぜなら、教師たちは、聞き分けのない子供たちを、平気で鞭で叩いたからだ。
鞭で叩いて、言うことを聞かせようとした。
上から押さえつけられることの大嫌いなリックは、ことごとく反抗した。
だから、学校中で、最も鞭で叩かれた。
今でも、その痕が数か所、腿に残っていた。
最悪だったのは、眼鏡の小太りの女教師クラリスだった。
悪名高いリックは、見せしめのように、よそ見ひとつでも、クラリスに鞭で叩かれた。
ある時、十歳のリックは、クラスの数人と、反撃に出た。
クラリスは授業を教えながら、教室を歩いていた。
リックたちは、そのクラリスの前に、ネズミの死骸を次々と投げつけた。
クラリスは、悲鳴を上げて、逃げようと後ろを振り返ったが、足がもつれてその場に、尻もちをついた。
そのクラリスを数名が抑え込むと、教室の隅に用意しておいたバケツの水を、クラリスの頭から、ぶちまけた。
クラリスは、何が起こったのか分からずに、呆然としていたが、やがて、泣きだした。
しゃくりを上げて、泣きだした。
そして、翌日から、学校に来なくなった。
これは、後年、リックが大人になってから、わかったことだったが、クラリスは、まだ二十歳の新米教師だった。
それを知った時、少しばかり、気の毒なことをしたと思ったが、自分が鞭で叩かれた回数を思うと、反省する気持にはなれなかった。
学校に未練は、なかった。
これで、行かずに済むのなら、せいせいした。
父親には、ずいぶんと殴られたが。
リックは、退学になると分かっていたし、もう行くつもりもなく、何か適当な手伝いをして、家計を少しでも助けるつもりだったが、思いもがけないことが起こった。



 クラリスの事件が起こる少し前に、マークという教師が赴任して来ていた。
マーク先生は、やたら声の大きな、中年の男の先生だった。
そのマーク先生が、リックを半ば無理やり、学校に連れ戻した。
リックは、もう二度と学校に行くつもりがなかったので、余計なお世話だと、迷惑でしかなかった。
勉強するつもりもなかったし、実際していなかったので、行ったところで授業について行けるはずもなかった。
マーク先生は、授業についていけないリックに、特別に授業をした。
学校の授業が済んでから、リックに、勉強を教えたのだった。
リックにしてみれば、本当にいい迷惑だった。
けれども、マーク先生は、クラリスと違って、鞭で叩くことは、一度もしなかった。
やる気がない、できない、リックに対して、丁寧に根気よく、勉強を教え続けた。
何故、マーク先生は、俺に対して、ああも真剣に取り組んでくれたのかと、今でも思うことがある。
「君は、やればできるんだよ」
マーク先生は、大きな声で、リックの顔をじっと見つめて、そう言い続けた。
そして、それは事実になった。
全くやる気のなかったリックだったが、マーク先生の熱意に負けて、まあちょっとやってみるかと、勉強に手をつけだした途端、すぐに成績が上がった。
父親も驚いたが、リック本人の方が、驚いた。
そうなると、不思議なもので、勉強が面白くなる。
本来、何事も熱中すると、夢中になる性格である。
その学年が終わるころ、リックは学年で一番の成績を取った。
マーク先生は、今では校長になっていたが、リックが、ミルフェアストリートの反対側を歩いていても、十歳のリックにしたように、大声で挨拶をする。
「おはよう、リック。今日もいい天気だね」
マーク先生は、仕事中だろうが、御者仲間といようが、おかまいなしなので、これには、リックの方が気恥かしくて仕方なかった。
聞こえないふりをすることもしばしばあったが、マーク先生は、リックを見かけると、必ずやっぱりそのようにした。



 リックが、再び学校に行き始めた頃、リックの住むアパートの一階に、病気の老女が住んでいた。
時折、医者らしい男が来ているのは知っていたが、ごくまれに、少年が一緒について来ていた。
少年と言っても、リックより、年は四つ、五つ上で、身なりは悪くなかった。
澄んだ瞳が印象的で、リックの住む地域の労働者の子供たちとは、明らかに振る舞いが違ったし、見るからに賢そうだった。
当初、リックはその少年のことを、医者の息子だろうと思っていた。
年齢も違うし、育ちも違うようなので、自分とは関係ないと思っていたが、ひょんなことから、言葉を交わす機会があった。
アパートの二階に住むリックが、階段を上ろうとしたところ、同じ二階に住む四歳のハンナが泣いていて、その傍らに、この少年が屈んでいた。
「何かあったのか」
「階段から転んだようなので」
リックを見上げて、柔和な微笑みを向けた。
少年は、フランク・マクファーレンと言い、マクファーレン商会の次男坊だった。
マクファーレン商会と言えば、今ほどではないものの、当時から、ブリストンでは有名な会社だった。
フランクは、医者を目指していて、首都タリスで寄宿生活を送っていたが、休暇でブリストンに戻ってきた際には、貧しい家の患者の治療にあたる医者について、診察の手伝いをしていた。
住む場所も、年齢も、性格も、まるで違うリックとフランクだったが、何故か不思議な友情が生まれた。
フランクには、少し生意気な、そして、何があってもくじけない、負けず嫌いの年下のリックが、新鮮に映った。
リックは、自らを顧みず、貧しい者のために尽くそうとする、穏やかで聡明な年上のフランクに、畏敬の念を覚えた。
普段は、首都タリスで寄宿生活を送っているフランクだったが、休暇でブリストンに戻ってきた際には、必ず、リックに会いに来るようになった。



 リックが、十二歳になった時、父親が亡くなった。
無類の酒好きだった父親は、冬のミルフェアストリートで凍死した。
その日も、行きつけの酒場で飲んだ後、雪の舞うミルフェアストリートで眠り込んだ。
そして、帰らぬ人となった。
唯一の家族である父親が亡くなって、本当なら、十二歳のリックは、路頭に迷うところだった。
助け舟を出したのは、フランク・マクファーレンだった。
フランクは、家族に頼み込んだ。
家に、リックを引き取ることを。
初め、家族は反対した。
けれども、一族の中で、誰よりも優秀なフランクの心からの願いを、リックが、マクファーレン商会の仕事を手伝うなら、という条件付きで、家族は受け入れた。
そうして、十二歳のリックは、マクファーレンの家に引き取られたのだった。
マクファーレンの家に住まわせてもらいながら、リックはその家業である駅馬車業を、手伝い始めた。
学校は、辞めた。
生きていくために必要な読み書き計算は、もう十分に身についていた。



 マクファーレンの家での生活は、申し分なかった。
部屋も、食べるものも与えてもらったし、マクファーレンの家も、少々気は短いし無愛想だが、年の割によく働く、利口な十二歳の少年を可愛がった。
フランクの家には、マクファーレン商会を経営するフランクの父、母、十六歳のフランクより四つ年上の兄に加えて、セルマという祖母がいた。
このセルマという祖母は、もう七十歳を超えていたが、ぴしっと背筋が伸びていて、孫たちにも厳しかった。
フランクは賢く、性格的に穏やかだったし、普段は寄宿学校に行っていて家にいないため、そうでもなかったが、フランクの兄、二十歳のジェフリーとリックは、毎日セルマに小言をくらった。
食べ方、言葉づかいなど、細かいことを一から十まで注意された。
恰幅のいいジェフリーが、ジェフリーの身体の半分ほどしかない小柄なセルマに、小言を言われるのは、中々の見ものだった。
当然、リックも、マクファーレンの家に来てからというもの、行儀作法がいまひとつの分、ジェフリー以上に、セルマの小言をくらった。
セルマに逆らえるものは、誰もいなかった。
何故なら、セルマと亡くなった夫が、マクファーレン商会の礎を、築いたからである。
マクファーレン商会は、セルマの汗と涙なくしては、ありえなかった。



 ところが、リックが十六歳の時、マクファーレンの経営が大きく傾いた。
事業を一気に広げすぎて、資金が追いつかなくなったのだ。
一番の被害者は、フランクだった。
フランクは二十歳になっていて、医者になるべく、大学に進学していたが、その学費が払えなくなる事態にまで、追い込まれた。
貧しい者を助けるために、医者を志したフランクである。
貴族や、上流階級の子弟が多い大学で、肩身の狭い思いに耐えて、崇高な志を貫こうとしたフランクである。
どんなにつらくとも机に向かい続け、追い求めたその夢が、あとひと息というところで、叶えられなくなるかもしれないという、事態になった。
マクファーレンの家の中は暗くなり、誰もが無口になった。
郊外にある、瀟洒(しょうしゃ)な屋敷を手放すという話まで、出て来た。
その折も折、リックを、ひとりの弁護士が訪ねて来た。
弁護士の話は、意外なものだった。
リックに、遺産が入るというのだ。
リックは、眼を丸くした。
弁護士の話によると、この度、リックが一度も会ったことのない、存在すら知らなかった、遠い親戚にあたる老女が、亡くなったのだという。
老女には子供が無く、親戚もなかったが、詳しく調べてみると、リックという存在に、行きあたったのだ。
弁護士が示した額は、十分な額だった。
そう、フランクが、大学を卒業して、医者になるには。
その遺産を残して亡くなった老女が、貴族だったら、爵位や、領地など面倒くさいことがあったが、老女は貴族ではなかった。
遺産は、あっさりリックの手に渡った。
そして、その金は全部、フランクの父に渡った。
フランクの父親は、泣いていた。
母親も泣いていた。
いつもは、長男風を吹かせているジェフリーも、目を赤くしていた。
セルマだけは、何も変わらなかった。
何一つ。
けれども、リックはそれでいいと思っていた。
別に、礼を言われたくてしたことではなかった。
セルマに泣かれでもしたら、リックの方が困った。



 実のところ、その遺産が入って来る少し前、リックは賭博を始めた。
元来、熱中すると、のめり込む性格である。
有り金を全部すっただけでなく、友人に借金までして、駅馬車の仕事もおろそかになった。
それに気付いたジェフリーに、しこたま殴られて、ようやく眼が覚めたが、ひと月ほど、ただ働きをするはめになった。
だから、遺産が入って来た時、リックは思った。
俺が、こんな大金を持っていたら、碌なことがない、と。
リックは、使い道ができて、ちょうど良かったとすら、思っていた。



それで、フランクは無事大学を卒業し、医者になり、少し前からブリストンに戻り、貧民街で、困窮する病人を安い治療費で、ある時は、治療費が無くとも、診てやっていた。
マクファーレン商会は、その後持ち直し、父親から事業を引き継いだジェフリーが順調に拡大、駅馬車は路線を増やし、タヴァンの集客も上向きで、増収増益の一途をたどっている。
そして、リックは、マクファーレン商会の経営する、駅馬車会社の御者となった。
ジェフリーは、リックを経営に誘ったが、リックはそんな面倒なことは御免だった。
それに、リックは、経営者ジェフリーと御者の、いい潤滑油になっていた。
御者たちの中には、少なからず、経営者に不満を持つ者がいた。
賃金、待遇、そういったものの改善を要求し、経営者と対立した。
そういう者を懐柔するには、飲ませて、食わせてやるのが有効で、 リックは、時折、バッカスの一階の酒場で、そういう男たちにふるまってやっていた。
もちろん、金の出所は、ジェフリーだったが。
ジェフリーも、そのリックの役割を、十分に理解していた。
そういう訳で、リックは、一介の御者にすぎなかったが、マクファーレン商会の経営するタヴァン、バッカスで、下の食堂へ行けば、温かな食事が食べられ、疲れて帰れば、柔らかな肌触りのいい布団が用意されている部屋を、いつでも使用できる生活を、手に入れていた。