19-5.王妃の恋



 夜明け前、回廊に、コツコツと、小さな靴音が響いた。
靴音が、クリスティーヌの警護の間に入ると、護衛の者が、一斉に敬礼した。
控えの間に侍っていた女官と侍女たちは、アレクセイの来室を知るや否や、恭しく頭を下げた。
アレクセイは侍女と女官を一瞥すると、クリスティーヌの寝室の扉を開けた。
扉を開けると、すぐに、深紅のカーテンがあった。
いつものように、その深紅のカーテンにそっと手をかけると、少し先にあるベッドに眠る、クリスティーヌへと視線を向けた。
アレクセイは、クリスティーヌが眠ってから、ベッドのカーテンを少し開けておくよう、言い伝えていた。
それは、明け方、アレクセイが、密かにクリスティーヌの寝室を訪れた時、その姿が眼に入る様にするためだった。
アレクセイの訪れに気付いた夜番の侍女が、深く一礼して、クリスティーヌのベッドの傍から離れ、立ち去った。
ささやかな灯が、うっすらと、クリスティーヌの寝顔を浮かび上がらせた。
穏やかな寝顔を見て、アレクセイは、少しほっとした。
このセヴェロリンスクの王宮に連れて来てから、時折、クリスティーヌが心を乱して泣いているということを耳にしては、心を痛めていた。
そして、昨夜の音楽会・・・。
少しでも、クリスティーヌの慰めになればと、思った。
扉の後ろから、その素晴らしく気高く、清らかな姿を盗み見て、思わず声をあげそうになった。
そして、計らずしも、クリスティーヌの歌声を耳にすることになって、アレクセイは、その美しい音色に酔った。
時に優しく、時に切なく醸し出すその抒情に、アレクセイの胸は熱くなった。
ところが、突然、何の前触れもなく、その美しい音色はぷつりと途絶えた。
一体、何があったのかと、本当なら、傍に駆け寄って、その手をとりたかった。
ユースティティアで、クリスティーヌを捕えた時から・・・、いや、四年前、初めて会ったあの時から、何度、その身体を抱擁したいと思ったことだろう。
夢の中で、何度、その白い素肌を抱きしめて、口づけたことだろう。
けれど、実際に、そんなことはできるはずもなかった。
化け物のような醜い顔をした自分が近づけば、クリスティーヌは、きっと驚いて、狼狽し、気絶してしまうだろう。
そして、私は、絶望の淵へ追いやられる。



 何事にも臆することなく、支配者としての資質に恵まれた若き国王アレクセイは、ある意味独善的であり、十八年前の様なクーデターを引き起こした。
けれども、幼い頃より、英知に長け、引き締まった顔立ちの中に、気骨のある澄んだ青い瞳を持つアレクセイは、多くの者を惹きつけた。
絶大なる権力を持ち、あらゆる学問に長けた、優秀な若き国王の手に入らないものなど、なにひとつ無かった。
そして、宮廷一の教養と美貌を兼ね備えた令嬢と、婚約をした。
全てが、順風満帆だった。
天然痘という病が、アレクセイを襲うまでは。
数週間の高熱が続き、生死の淵をさまよい、ようやく歩けるようになり、鏡の前に立った時、目に入ったのは、変わり果てた、その容貌だった。
特に、顔の左側半分は、醜く崩れ、左の胸、背中は言葉に表せない程、ひどい有様だった。
病後、初めて見舞った婚約者が、アレクセイを見て、その場で気を失った時、全てが、音を立てて、足元から崩れ去るような気がした。
それまで、アレクセイを眩しく見上げていた貴族や、王宮で仕える者たちの眼が、同情と憐れみに変わった。
それは、アレクセイを、孤独に追い込んだ。
容姿ひとつで、明るく思い描いた未来が、崩れ去る現実に直面した。
貴族の令嬢たちは、アレクセイの立場上、礼義的で、恭しく接した。
けれども、アレクセイはその心の奥底に、頑なな拒否を敏感に感じ取っていた。
あのような醜い顔の男の妃になど、なりたくはない。
その胸の内が、手に取る様にわかった。
中には、アレクセイを慰めるべく、しかるべき娘をあてがおうとする者たちもいたが、そのことは、一層、アレクセイを苦しめた。
アレクセイが望んでいるのは、決して同情ではなかった。
ひと時の、慰めの相手ではなかった。
けれどもその容姿で、アレクセイの望みは叶うべくもなく、そのどうしようもない渇望を、アレクセイは絶大なる武力を用い、他国を制圧することによって、満たそうとした。
アレクセイは、冷酷で無慈悲な国王となり、イーオンを武力で掌握した。
イーオンの民を弾圧し、搾取し、強国フォルティスを威嚇し、常に牙を向け続けた。
しかし、どれほど領土を制圧しようが、アレクセイの渇望が満たされることはなかった。
そして、四年前、アレクセイは、ユースティティアから、友好の使節を招いた。
表向きの名目は、両国の交流だったが、アレクセイは、最初から、そんなつもりはなかった。
アレクセイは、ユースティティアの領土を狙っていた。
どこから切り崩していくか、その野望は止まるところを知らなかった。
ユースティティアの名門貴族、ラングラン公爵を、セヴェロリンスクの王宮へ招いたのは、ユースティティアの貴族と接点を持ち、ブロンピュール宮殿の情報を、直接手に入れようとしたからだった。
ところが、アレクセイが全く予期しなかった事態が起ってしまった。
それが、ラングラン公爵家の令嬢、クリスティーヌだった。
アレクセイは、ひとめで、クリスティーヌに恋をした。

「歌が、お好きなのですね」
「はい、そうでございます。陛下もお好きでございますか?」

クリスティーヌは、美しい声で、こちらに優しく微笑んで、問いかけた。
愛と美の女神、アフロディーテを思わせる、匂い立つような美しさだった。
その時から、アレクセイは、クリスティーヌを忘れた日はなかった。
いつか、クリスティーヌをこの手に抱くことができるのなら、この魂を売り渡してもいい。
そのようにすら思った。
それから二年が過ぎ、クリスティーヌが、ユースティティアのジャン王へ嫁いでも、その願いが消え去ることはなかった。
消え去るどころか、空虚な自分自身に嫌気がさして眠れない夜、ジャン王に抱かれて、悦びを覚えるクリスティーヌを想像する時、激しい嫉妬に取りつかれて、狂人のように、わめき出しそうになった。
どうしようもない恋慕に身を焦がすアレクセイに、思いがけない話が舞い込んだ。
提案者は、あろうことか、ラングラン公爵だった。
アルカンスィエルを、陥落させてほしい。
手引きはする。
そして、奪った領土を、私に譲ってほしい。
その見返りは、クリスティーヌ・・・。



 アレクセイは、すぐに受諾した。
そして、頻繁にラングラン公爵と連絡を取り合い、綿密に詳細に、計画を練った。
アレクセイは、時折、己のやろうとしていることを、冷静に見つめた。
馬鹿げている。
今すぐ、手を引くべきだ。
冷静なアレクセイは、暴走する感情に語りかけた。
けれども、どうしても、クリスティーヌを手に入れたいという思いを、打ち消すことができなかった。
むしろ、手が入れることができるかもしれないという思いがよぎれば、たったひとりの女のために、多くの兵士と民衆の命を奪い、たとえ地獄に突き落とされても、諦めることなどできなくなっていた。
死力を尽くした戦いで、アルカンスィエルは陥落し、ジャン王の命を奪った。
そして、クリスティーヌは・・・、夢にまで見たクリスティーヌは、四年前より、一際美しくなって、アレクセイの前に姿を現した。
けれども、改めて、その姿を眼にすると、途端に今度は、恐ろしくなった。
残酷な記憶が、甦った。
十年前、婚約者が、醜い自分を間近に見て、気を失った。
クリスティーヌも・・・、もしかすると、クリスティーヌにも、同じようなことが起こるかもしれない。
そのようなことになれば、もう自分は、正気を失ってしまう。
そう考えると、クリスティーヌの前に、姿を現すことができなくなってしまった。
アレクセイは、陶器でも運ぶような慎重さで、クリスティーヌをセヴェロリンスクまで運び、格別に贅を尽くしてしつらえた部屋を、与えた。
それは、突然の大きな環境の変化に、動揺しているであろうクリスティーヌを、少しでも慰めるためだった。
クリスティーヌが喜ぶなら、アレクセイはどのようなことでもするつもりだった。
昨夜の音楽会も、クリスティーヌのために開いたものだった。
けれども、結局・・・、哀しませてしまったようだ。
クリスティーヌの安らかな寝顔を見つめながら、アレクセイは肩を落とした。
クリスティーヌの寝顔を見るのは、最後かもしれない。
アレクセイは、そう思うと、中々立ち去ることができなかった。
今朝、アレクセイは、またユースティティアに向かって、出陣の予定だった。
アレクセイが去った後、前線は一気に苦境に立たされていた。
本来なら、セヴェロリンスクに戻って来るべきではなかった。
余力を残して、アルカンスィエルを獲ったわけではなかった。
アレクセイが、戦場を離れれば、士気が下がることも、分かっていた。
それでも、クリスティーヌを安全なセヴェロリンスクの王宮に、自ら連れて来ずにはいられなかった。
アレクセイは、込み上げる想いを胸に、しばらくクリスティーヌの寝顔を、遠目に見つめ続けた。
私は帰って来る。
こうして、クリスティーヌを、見つめるために。
そう自らを奮い立たせた。
アレクセイが、心に固く誓って、踵を返した時だった。
「国王陛下・・・?」
そう呼ぶ声がした。