19-1.王妃の恋



 アンヌは、手紙に眼を通し終えると、ふたつにたたんで、ふっとため息を漏らした。
そして、手紙をそのままエマに、差し戻した。
十月の初日に、ウッドフィールドを発ち、馬車を急がせ、一週間かかって、グラディウスの王都、セヴェロリンスクへ到着した、アンヌとレティシアだった。
そして、セヴェロリンスクのリヴィングストン伯爵の友人、ボリシャコフ伯爵の屋敷に滞在して、はや十日が過ぎようとしていた。
ボリシャコフ伯爵を通じて、王宮のクリスティーヌに手紙を届けるのは、これで三度目だった。
いずれも、会って一度話をしたいというアンヌの希望を認めたのだったが、それらは、ことごとく拒否された。
そして、クリスティーヌの三度目の拒否の手紙は、エマによって、アンヌに届けられた。
エマは、もともとラングラン家のアンヌ付きの侍女だった。
そして…、ミラージュの、組織の者でもあったが、ジャン王との結婚で、王宮に入ったクリスティーヌに付いて、エマも、王宮に入った。
本来ならば、ラングラン家の侍女が、クリスティーヌと共に王宮に入ることなど、ありえなかった。
王宮に入れば、当然、王妃には王宮の女官と侍女がついた。
それでも、エマが、クリスティーヌに付いて、王宮に入ったというのは、ミラージュの、つまりは、ラングラン公爵の意向が働いたからに違いなかった。
「それで、ジャン王と一緒に、アルカンスィエルから逃げた貴族たちは、実際のところ、どうなったのですか?」
「ミラージュの…、ラングラン公爵の息のかかった者以外は、ジャン王を含め、全員、殺害されました」
灰色の冷たい瞳のエマは、抑揚のない声で、そう告げた。
「最初から分かっていたことね。さすがに、もうお姉様も、真実をご存知なのかしら?」
「フランセット様が、ユースティティアからセヴェロリンスクに向かう途中で、何もかもお話になりました。何も知らないままでは、さすがに、クリスティーヌ様が不憫と、お考えだったようです」
「それが、良かったのか、悪かったのか…」
最初から、アンヌは全てを把握していた。
けれども、クリスティーヌは、何も知らなかった。
そう、何も。
ジャン王とクリスティーヌとの、結婚。
そして、アルカンスィエルが陥落し、夫であるジャン王が殺され、クリスティーヌは、母、フランセットと共に、グラディウスの王都セヴェロリンスクまで、連れて来られた。
その全てが、ミラージュの黒幕である父、ラングラン公爵とグラディウスのアレクセイ国王との間で、綿密に練られたシナリオだということを知って、どう思っているか。
それが、この三度の面会拒否ということなのだろう。
クリスティーヌとアンヌの姉妹の間には、幼い頃から感情的な隔たりがあった。
それは、ミラージュの黒幕でもあるラングラン公爵が、アンヌに組織を操る才覚を見いだし、目をかけていたからだった。
類稀な気品と美しさを兼ね備えたクリスティーヌでさえ、ラングラン公爵にとっては、ミラージュの手段に過ぎなかった。
クリスティーヌは、ミラージュと、ラングラン家の権力を一層強大なものにするための、手立てでしかありえなかった。
そして、妻であるラングラン公爵夫人に対しても、それは同様だった。
むしろ、クリスティーヌより、フランセットに対しての態度の方が、一層残酷であったかもしれない。
ラングラン公爵は、妻であるフランセットに、絶対服従を要求した。
ラングラン公爵に、意見するなどということは、あり得なかった。
表向きの理想の夫婦像は、全て、ラングラン公爵によって作り上げられた、虚像に過ぎなかった。
そして、何より、ブロンディーヌ・・・。
アンヌは、ボリシャコフ伯爵より与えられた私室の、マントルピースの前に、立った。
そして、その火を見つめた。
じき、寒さは一気に深まり、フォルティスともユースティティアとも違う、痛みを伴うような極寒が、このグラディウスの王都、セヴェロリンスクにやって来る。
初雪を迎える前に、全てを終えなくては。
ラングラン公爵には、先日、レティシア、つまりブロンディーヌを連れて、セヴェロリンスクに入ったことを知らせる手紙を認め、屋敷の者の眼を盗んで、密かに接触してきたミラージュの者に、届けさせた。
アンヌが知らせなくても、情報の網を張り巡らせている、ラングラン公爵の耳に入るのは、時間の問題だった。
それならば、こちらから知らせておく方が、心象が良い。
そうアンヌが、判断したからだった。
セヴェロリンスクのミラージュの隠れ家のひとつで、ブロンディーヌを、垂涎の想いで待ち望むラングラン公爵だった。
想像通り、アンヌの手紙を受け取ったラングラン公爵から、ブロンディーヌを引き渡すよう、再三の催促が来た。
長く待ち望んだ、欲しい玩具がようやく手に入るとなって、待ちきれない、焦り苛立つ心の内が、アンヌには、手に取る様に分かった。
ただ、今のところ、直接、この屋敷に使いをやって、ボリシャコフ伯爵の屋敷にいるブロンディーヌを、無理やり連れ去ろうとする無謀な手段には、出てこなかった。
そのようなことをすれば、大なり小なり騒ぎになることに、間違いなかった。
およそ、精神が破綻しているとしか思えないラングラン公爵ではあったが、そのあたり、まだ正常な判断がつくようだと、アンヌは、わずかに安堵していた。
フィリップの暗殺が未遂に終わったことには、不思議と何の詮索もしてこなかった。
そちらよりも、ブロンディーヌの方が、大事だということ・・・。
アンヌは、ラングラン公爵の心中をそう判断した。
とはいえ、このまま、ラングラン公爵が、黙ったままでいるとは思えなかった。
ブロンディーヌを手に入れられなければ、どのような暴挙にでるのかは、見当がつかなかった。
ブロンディーヌが手に入らなければ、アンヌですら・・・、手にかけるだろう。
ともかく、王宮のお姉様に一度お会いしてから、ブロンディーヌをそちらへ連れて行くと、理由にもならない理由を手紙に認めたものの、忍耐を知らないラングラン公爵を、いつまで待たせることができるのかは、微妙だった。
だから、アンヌはどのような形であるにせよ、初雪が降るまでに、決着をつけようと、そう心に決めたのだった。



 「エマ・・・」
アンヌは、傍で、じっと控えるエマの灰色の眼を捕えた。
相変わらず、猫のようね。
誰に対しても、警戒心が強く、めったに心を開かない。
それでいて、アンヌの傍を離れ何年を経ても、このように、会えばすっとその居場所に音を立てずに戻って来る。
六年前、十二の時から自分に仕えていた、五つ年上のこの侍女を、アンヌは誰よりも信頼していた。
「はい」
「あなたには、これからわたくしのために働いてもらいます」
「お言葉ですが、アンヌ様・・・」
「何?」
「私は、六年前、ラングラン公爵の命を果たせず、その怒りを買い、命を奪われかけました。その命を、アンヌ様に救っていただいた時から、私の主人は、アンヌ様以外におりません。例え、王宮で、クリスティーヌ様に仕えていたとしても、全ては、アンヌ様のためでございます」
「エマ・・・」
アンヌはふっと、頬を緩めた。
「あの・・・」
その、控えめな声が、耳に入って、アンヌも、エマも、はっと、そちらの方を向いた。
レティシアが立っていた。
「あの、ボリシャコフ伯爵夫人が、アンヌ様をお呼びでございます」
その場の、張りつめた様な空気を察して、レティシアは少し緊張しているようだった。
「わかりました。すぐにまいりますと、お伝えして」
「はい」
レティシアは、返事をして、すぐにその場を離れた。



 きっと、クリスティーヌ様とのご面会が、うまくいかないのだわ。
部屋を下がってから、険しい表情のアンヌを思い返して、レティシアは、そう思った。
アンヌは、レティシアに詳しい経緯を離さなかったので、事情は良く分からなかったが、セヴェロリンスクについて、十日を経ても、クリスティーヌとの面会は、実現しなかった。
遥か遠く、このセヴェロリンスクまでやって来ても尚、思うようにならない事態に、レティシアは、アンヌのことが、本当に気の毒としか思えなかった。
その心の内は、どれほど不安なことだろうと思いやって、心を痛めた。
ボリシャコフ伯爵夫人の待つ部屋へと向かっていたレティシアだったが、胃の不快感がこみ上げてきて、歩みを止めた。
今朝がたから急に、胃のあたりが締め付けられたようになって、食事が喉を通らなくなった。
何か、良くない物を口にしてしまったのかと、記憶をたどってみたけれど、思い当るようなことはなかった。
ふと窓の外を見ると、厚い雲が、低く垂れこめていた。
あれは雪雲・・・?
初雪は、もうすぐかしら。
どうか、初雪が降るまでに、アンヌ様が、クリスティーヌ様に、お会いできますように。
レティシアは、葉の落ちた木立の向こうに広がる灰色の空を眺めて、そう祈った。
それから、頬をあからめながら、もうひとつの願いをそっと心に浮かべた。
アンヌ様がクリスティーヌ様にお会いして、心落ち着かれた頃・・・、彼が迎えに来てくれますように。
ブリストンへ行って、愛する人と、一緒に暮らせますように。