18-5.イーオン<永遠> 後編



 昼間の王宮広場での熱気が嘘のように、ジェームズの屋敷は静まり返っていた。
王宮広場での事件の後、リックは、ハリーをジェームズの屋敷へ運んで医者を呼び、すぐに総督の屋敷にいるエレノーラを、馬車で迎えに行った。
リックが訪れた際、幸い、王宮広場の一件で、総督もウィンベリー伯爵も、屋敷を離れていた。
その隙に、リックが、エレノーラを連れだし、ジェームズの屋敷まで送り届けた。
今頃、総督は、突然いなくなったシルヴィアと、知らぬ間に帰ったエレノーラに、立腹しているに違いなかったが。
ただ、何の苦情も言って来ないことから、昼間の王宮広場での後始末に手いっぱいで、今は、シルヴィアのことなど、忘れ去っているのかもしれなかったが、シルヴィアにしてみれば、その方が、有り難かった。



 シルヴィアは、椅子に座って、眼を閉じたまま、ベッドに横になっているハリーを見つめていた。
けれども、椅子から立ちあがって、そっと、ベッドの傍に膝を着くと、布団の中へ手を差し込んで、ハリーの、父の手を探した。
布団の中で、ハリーの、指に触れた。
温かくて、太くて、角ばった、大きな手だった。
涙が、頬を伝った。
詳細は、全て、リックから聞かされた。
ナターリアのこと、十七年前グラディウスで起こったクーデターのこと、ペトロフへの流刑のこと。
「お父様・・・」
意識の戻らないハリーに、シルヴィアは呼びかけた。
「お父様、私を、おいて行かないで。お願い・・・」
ハリーを見た医者は、助かる確率は半分だと言った。
意識の戻らないまま、亡くなるかもしれないと言われた。
シルヴィアは、眠ったままのハリーの傍で、ひとりひっそりと、涙を流していた。
ドアをノックする音が、シルヴィアの耳に入った。
どうぞ、と、涙を拭いながら、シルヴィアが答えると、ジェームズが入って来た。
シルヴィアが養女であることは、以前から承知していたジェームズだったが、ハリーがシルヴィアの本当の父であるということは、先ほどリックから知らされた。
「ハリーは、どう?」
シルヴィアは、首を振った。
そう、と答えて、ジェームズもベッドの上のハリーの顔を、心配そうに見守った。
「シルヴィア、少し、話がしたいんだ」
ジェームズがそう切り出して来た時、シルヴィアはサラのことに違いないと、思った。
「私に気を遣う必要はないのよ、ジェームズ。今、サラは、お母様についてくれているの。サラと直接、話して」
「君は、何か誤解している」
「今は、お父様の傍を離れられないの。離れたくないの。あなたのお話は、また今度にして頂戴。何度も言うけれど、サラのことなら、私じゃなく、サラとよく相談して。あの娘は、賢い娘よ。もちろん色々な問題はあると思うけれど、申し分ないと思うわ」
「シルヴィア・・・」
今は、ハリーの傍をひと時も離れたくないというのも、事実ではあったが、ジェームズとサラの将来的な話を聞かされることに、耐えられそうになかった。
先日は、取り乱してしまって、サラをジェームズの屋敷へ連れて行き、ひどい後悔に襲われた。
もう二度と、ジェームズに、みっともない姿を、見せたくなかった。
けれども、
「行った方がいいと思うぜ」
と、開けたままになっていたドアの向こうから、ぬっと、大きな黒い影が姿を現した。
リックだった。
「立ち聞きはしてないぜ。隣の部屋にいたら、聞こえたんだ。あんたらの話し声がね。 心配するな。ハリーは、俺が見ててやる」
リックはそう言うと、シルヴィアはまだ何の返事もしていなかったが、そのままハリーの眠る部屋に入り込んだ。
シルヴィアは、ジェームズと、話さない訳にはいかなくなった。
シルヴィアは恨めしい気持ちで、役には立つが、ふてぶてしく遠慮のない使用人の後ろ姿を見つめた。



 屋敷の居間ではなく、シルヴィアは、ジェームズの書斎に、誘われた。
ジェームズの私室でもある書斎に招かれたのは、初めてだったが、机の上に、積み重なったままの書物と、小さな文字がびっしりと並んだ書類が眼に入って、勉強熱心なのは、相変わらずだと思った。
そして、サラがジェームズと一緒になるには、いくつもの大きな障害があるには違いなかったが、賢いふたりだったら、時間はかかっても、きっとうまく乗り越えていくだろうと、思った。
「まず、何よりも、君の誤解を解きたい」
書斎に入るなり、ジェームズはすぐに口を開いた。
珍しく、急いているようにも、思えた。
「誤解なんてしていないわ」
「君は、僕とサラの間に、何かあると思っているのだろう」
「違うと言うの?」
「あるはずがない」
「ジェームズ、それは卑怯よ。私に知られたからって、なかったことにするのは、サラが可哀想だわ。まさかとは思うけれど、遊び半分だなんてことは・・・」
「シルヴィア、それ以上は、僕に対する侮辱だ」
シルヴィアは、押し黙った。
「シルヴィア、僕が好きなのは、君だ」
「嘘よ・・・」
「何故、そう思う?」
「私、見たんですもの。先日、私の家の庭で、あなたとサラが・・・、サラがあなたと」
確かに、昼下がりに人目を忍んで、ジェームズはサラと抱き締め合っていた。
「ああ・・・、あの時の」
思い出したように、ジェームズは声を上げた。
「サラを、ここへ呼ぼう」
「どうして、そんなこと・・・」
「君の誤解を解くためだ。僕が戻って来るまで、ここでじっとしているように」
幾分、ジェームズの表情が、緩んでいるように見えた。
しばらくして、ジェームズに連れられて、おずおずとサラが入って来た。
「サラ、もう隠さなくてもいいだろう。君の愛する人は、戻って来たんだから」
「何のこと?」
シルヴィアは、サラとジェームズの顔を、交互に見つめた。
「サラ、シルヴィアは先日、僕たちががシルヴィアの家の庭で、密かに話していたのを見てしまったらしい。それで、シルヴィアは、勘違いをしたんだ。君と僕の間に、何かあるんじゃないか、って」
「先日、お嬢様が、屋根裏の私の部屋へいらしてお話した時から、お嬢様は、ひどい勘違いをされているのだと思いました。お嬢様、私は、ジェームズ様のお屋敷の使用人、ロイと、親しくしております」
サラの頬が、赤くなった。
「ロイ?」
シルヴィアは、その名前に聞き覚えがなかった。
「ロイは、兄と共に、二年前、屋敷を離れて、過激派に走った。僕は、サラとロイのことを知っていたから、ふたりのことをずっと気にかけていたんだ。サラは、近頃、連絡の途絶えがちなロイのことを心配していて、それで、少し気になって、先日、僕はサラのところへ行ったんだ。そうしたら、サラは、心配のあまり泣いてしまってね。君は、それを見たんだ」
「まあ・・・、私、なんてこと・・・」
シルヴィアは思わず、頬に手を当てた。
ありがとう、サラ、もういいよ、とジェームズが優しく声をかけて、サラが立ち去ると、ジェームズは、頬に手を当てたままで、動揺が収まらないシルヴィアの元へ近づいた。
「私、本当に、なんてことを・・・。ごめんなさい、サラにもあなたにも。本当に失礼なことをしてしまって・・・。私、どうしましょう・・・」
「シルヴィア」
ジェームズはそう言うと、シルヴィアの手を取った。
「僕も、悪かった。もっと早く、君にきちんと伝えなければいけなかった。だけど、少し臆病になった」
「どうして?」
「多分、幼馴染だったせいだ。兄のように慕われていたら、どうしようかと」
「まあ、そんなこと!」
「違う?」
「・・・ええ、違うわ」
「幼馴染は、卒業だ」
そう言うと、ジェームズはシルヴィアを抱き寄せて、唇を重ねた。
シルヴィアの唇を包むジェームズの優しい口づけに、シルヴィアは、これまでの苦しい葛藤から、解き放たれた。
一度、唇を離すと、ジェームズはシルヴィアを抱きしめた。
「シルヴィア、僕と結婚してほしい」
「結婚ですって?」
「お互いのことを知る時間が必要?君のことは、誰よりもよく知っている。少しばかり、気が強いことも、責任感が強いことも。昼間、君が王宮広場で僕を庇った時、僕はなぜもっと早く、君と将来を約束しなかったのだろうと、心から後悔した」
「いいえ、そうじゃないの、ジェームズ。私には、問題が・・・」
「借金のこと?」
「ええ・・・」
「そのために、ミグノフ総督と結婚しようとするのは、間違っているよ」
ジェームズの声が、少し険しくなった。
「もう・・・、できないわ。あなたが・・・、いるんですもの」
「シルヴィア」
「わかって、もらえるかしら。とても、辛かったの。あなたがサラを・・・、愛しているのだと思って。ふたりに、嫉妬したの。嫉妬していたのよ。私、あなたを、愛しているの・・・。もうずっと、長い間」
「それ以上は言わない方がいい、シルヴィア。今夜、君を帰せなくなる」
「ジェームズ・・・」
シルヴィアは、その意味を察して、顔を赤くして俯いた。
「お金のことは、これからよく考えて相談しよう。返済方法を考えれば、なんとかなると思う」
「あなたには、迷惑をかけたくなかったの」
「君と僕は、近い将来、結婚する。君の問題は、僕の問題でもある」
「結婚の話は嬉しいわ。でも、少しだけ、待って欲しいの」
「何故?」
「お父様が、目覚めたら、少しゆっくりお父様と過ごしたの。お母様のこと、これまでのこと、聞きたいことが、たくさんあるから・・・」
「それは、賛成だ。ハリー、いや、父上もきっと喜ぶ」
と、再び、ジェームズがシルヴィアに唇を寄せた時だった。
不躾なノックの音が、響いた。
ノックの主は、例の無遠慮な御者だった。
「おふたりさん、ここか?ハリーが眼を覚ましたぜ」
弾かれたように、シルヴィアが、書斎から駆け出した。
ジェームズも、あとに続く。
そのふたりの後ろ姿を眺めて、
「ハリーも、これから気を揉むことになるだろうな」
リックは、そう呟いた。



 「それじゃあ、ゆっくり養生しろよ」
ベッドに起き上がったハリーにそう声をかけて、リックは、帽子をかぶった。
「寂しくなるな」
「何言ってるんだ。シルヴィアが傍にいるだろう」
王宮広場での一件から、一週間が過ぎ、今日から、十一月に入っていた。
ハリーは日に日に、回復傾向だった。
シルヴィアは、毎日、ジェームズの屋敷に通って来ては、あれこれとハリーの世話を焼いた。
そして、これまでの時間を取り戻すかのように、ふたりで色んな話をして過ごした。
シルヴィアは、自宅では、エレノーラを看病し、ここへやってきては、ハリーの世話をし、毎日を忙しく過ごしていた。
ハリーとしては、働きすぎる娘の身体が心配で、毎日でも娘の顔が見たいと願う心とは裏腹に、そう毎日来なくても大丈夫と、伝えたのだが、シルヴィアが聞きいれる様子はなかった。
私が好きでしていることですもの、お父様は心配しないで。
シルヴィアは、そう言った。
ハリーは、ナターリアと同じ瞳の色の、少々気の強い娘に、最初から、頭が上がりそうになかった。
忙しくしているシルヴィアだったが、その表情は、幸せに溢れていた。
それは、もちろん父親であるハリーの存在のためであり、ジェームズの存在のためでもあった。
シルヴィアの十八歳の誕生日を待って、婚約する予定のふたりだった。
紆余曲折を経て、シルヴィアとの信頼関係が一層増したサラも、ジェームズとシルヴィアの結婚を機に、ジェームズの屋敷に移り、これまで通り、シルヴィアに仕えることになった。
ロイとは、同じ屋敷で働くことになり、こちらも、万事順調だった。
そうなると、ハリーには、気がかりなことがあった。
「なあ、リック、ジェームズは、大丈夫だろうか」
「何だ?」
「ミグノフ総督だよ。未だ、何も言って来ないのが不気味だ。シルヴィアをジェームズに取られて、王宮広場の一件だ。心中穏やかなはずがない」
「それなんだよ。何故、総督が何も言って来ないのか、俺も考えた」
「それで?」
「つまり、人脈と金を持っている、ウッドフィールドのリヴィングストン伯爵さ。ジェームズは、リヴィングストン伯爵の親戚だ。むやみに、ジェームズに手を出してみろ。どうなると思う?」
「なるほど」
「百歩譲って、王宮広場で、流れ弾が当たって亡くなりましたって言えば、まだ言い訳も立つが、ジェームズに直接手を下したんじゃ、言い訳の余地はない。人遣いがあらいところには閉口するが、リヴィングストン伯爵の睨みが効いているんだろう」
フォルティスと、グラディウスは、微妙な均衡状態を保っていた。
もしも、ミグノフ総督がフォルティスの有力な貴族、リヴィングストン伯爵の親戚にあたるジェームズに手を出せば、その均衡状態に、ひびが入る可能性がある。
ジェームズに手を出させないよう、リックやハリーの知らないところで、リヴィングストン伯爵からグラディウスへ、一層圧力がかかっているに違いなかった。
それらを無視して、ミグノフ総督が、私怨でジェームズに手をかけるようなことがあれば、そして、それが原因でグラディウスとフォルティスの均衡状態にひびが入るとすれば、総督の立場はまずくなる。
はらわたが煮えくりかえっていたとしても、総督とすれば、黙るしかない。
まだまだイーオンの先行きは不透明だったが、国民はまとまりを見せ始め、とりあえず、フォルティスにとっては、望ましい方向へ向かっていると言えた。
ひと段落したというわけで、リックは、ウッドフィールドのリヴィングストン伯爵の屋敷へ直接詳細を報告をし、その後、レティシアのいる、セヴェロリンスクに向かう予定だった。
そして、今度こそ、アンヌが何と言おうが、レティシアを連れて、ブリストンへ帰るつもりだった。
「アンヌとレティシアに会ったら、よろしく伝えてくれ」
「レティシアには間違いなく伝えるが、もうひとりの方は、約束できないな」
と、リックは荷物を背負った。
「じゃあな」
と、リックがハリーに背を向けた時、ノックの音と共に、失礼しますと、入って来た使用人が、リックに手紙が届いていると、差し出した。
差出人は、リヴィングストン伯爵だった。
そこには、アンヌとレティシアが、消息を絶ったことが、記されていた。