16-1.新たな旅立ち



 リックは、上機嫌だった。
何故なら、明日、レティシアと共に、ブリストンへ発つことが決まったからだった。
そして、フィリップが、リヴィングストン伯爵に頼んでくれて、リックに幌つきの手ごろな馬車を用意してくれた。
荷物らしい荷物はなかったので、あとは、レティシアと、発つのを待つばかりだった。
レティシアと言えば、これまでは、恋人であったとはいえ、どこか遠慮がちで、リックにしてみれば、そのよそよそしさが、歯がゆくもあったのだが、リックと一緒にブリストンに行くと決めた二日前のあの夜以来、その隔たりが消え、レティシアの全てを手に入れたようで、リックは、この上なく満足だった。
時間を見つけては、逢瀬を、楽しんでいたふたりだったが、ベッドで抱きしめる素肌は、リックの求めに応じて、甘えるように、ねだる様に縋りついて来て、リックの名前を呼んだ。
肌を重ねるたびに、愛しさは、募るばかりだった。
あれこれと、楽しそうにリックの身の周りの世話を焼く、幸せに満ち溢れたレティシアが、眩しかった。
本当を言うと、ハリーも一緒に、ブリストンに向かうつもりだった。
ハリーは、タリスの駅馬車会社を辞めて、今回のウッドフィールドへの旅に加わった。
だから、一緒にブリストンに行って、リックの兄貴分であり、雇い主でもあるジェフリーに紹介して、マクファーレン商会で雇ってもらえるように、話をつけるつもりだった。
けれども、ハリーは、
「俺は、もう二、三日ここでゆっくりしてから、発つことにする。これ以上、お前さんたちにあてられたんじゃ、たまらんよ」
と、あっさり断った。
そういう訳で、リックは、レティシアとふたり、明日、ウッドフィールドを発ってブリストンへ向かうことになったのだった。



 リックは、釘の緩んでいた馬車のカートの木枠を、金槌を使って丁寧に手入れしていた。
この馬車で、ブリストンまでの長距離を走ることになるのだから、準備は万全にしておこうと思っていた。
そのリックの横へ、すっ、と誰かが立つような気配がした。
顔を上げると、立っていたのは、アンヌだった。
引き締まった身体に、上品な深紅のドレスをまとい、艶のある黒みがかった茶色い髪を、少しの乱れもなく結いあげたアンヌは、ユースティティアの公爵令嬢として、相変わらず一分の隙もなかった。
そして、例の濃い緑色の瞳で、屈んでいるリックを、上から見下ろしていた。
「何だ?」
「明日、発つそうですね」
アンヌはにこりともせずに、そう言った。
「そうだ、レティシアは、あんたにちゃんと暇をもらったって、言ってたぜ」
リックは、てっきりアンヌが文句を言いに来たのだと思った。
そのリックの前に、アンヌは、すっ、と封筒を差し出した。
訝しげに思いながらも、手を伸ばして受け取り、中身を確認した。
紙幣が入っていた。
かなりの厚みで、リックが最初に提示した額よりも、幾分多いように思えた。
「金なら、伯爵にもらったさ。ついでに、この馬車も。二重取りするつもりはない」
リックは、中身を見ただけで、受け取らずにそのまま、アンヌに差し戻した。
「伯爵様からの謝礼は、謝礼であって、支払いとは別です」
「だけど、あんたが損をするぜ」
「わたくしが、よろしいと言っているのです。黙って、お受け取りなさい」
言い方は、気に食わなかったが、もらっておいて損はなかった。
マクファーレン商会の経営者で、金の亡者、ジェフリーの顔が思い浮かんだ。
弟のフランクが発端で起こった、今回の逃走劇だった。
ブリストンに戻って、ジェフリーがリックにどういう態度に出るかは、分からなかったが、ブリストンから脱出する時、ピエールが亡くなっている。
その後始末が、フランクひとりでできたとは思えない。
そのことからしても、今回の事態を好ましく思っているはずは、なかった。
世の中のあらゆる出来事は、金で解決できると思っているジェフリーだ。
今、アンヌから差し出された紙幣を、そのままジェフリーに渡せば、多少機嫌を損ねていたとしても、この金で持ち直すことができるだろう。
リックは受け取った封筒を上に上げて見せて、礼の言葉に変えた。
「ああ、そうだ、一応、あっちも礼を言っておかないとな」
思いだしたように、リックが言った。
「何の話ですか?」
「この前の、グラディウスの暗殺者だよ。俺が、頭に銃を突きつけられた時、奴らの注意をそらせてくれただろう。あともう数秒遅けりゃ、今頃、俺は墓場の中だ。あの時、リヴィングストン伯爵が、来ていたことに気付いていたのか?」
「様子をうかがいながら、静かにこちらに進んでくる伯爵様が、眼に入りました」
「それで?」
「暗殺者たちは、伯爵様に気付いていませんでした。あなたを撃つことしか、考えていませんでしたから。とはいえ、伯爵様が来たと叫んで、銃撃戦にでもなって、こちらに負傷者が出ても困ります。ですので、夕日の方を向いて、叫んだのです。リヴィングストン伯爵様、と。わたくしの思惑通り、暗殺者たちは、そちらに気を取られました。そして、眩しさに眼を細めました。相手が戸惑う間に、伯爵様の従僕の銃弾が、暗殺者を仕留めました」
アンヌは、淡々と語る。
「あんた・・・」
「何ですか?」
「よく、咄嗟に、そんなことを考えつくな」
今回ばかりは、リックも脱帽だった。
アンヌは、リックに褒められたからと言って、別段、面白くもなさそうだった。
「一応、礼は言っておく。命拾いをした」
「わたくしは、借りを作るのが嫌いです」
「借り?」
「ブリストンで、暗殺者に追われた時、逃げるのを助けてもらったでしょう」
リックは、一瞬考えて、思いだした。
ブリストンで、暗殺者たちから逃げる時、馬に乗るのを手助けしてやった。
リックは、意外だった。
そんなことを、アンヌが気に留めているとは思わなかった。
「貸し借り無し、ってことだな」
リックは、瞳に笑みを浮かべたが、アンヌは、にこりともせず、背を向けて歩き出した。
別段、握手もなく、別れのあいさつもなかったが、それはそれで、この女は、案外、潔いのかもしれないと、リックは思った。
「あんたさ」
声を掛けられて、アンヌは振り返った。
「中々、いい度胸してるぜ。器量も悪くない。ちょっとは、愛想よくしてみろよ。あんたの前に、男が列をなすぜ」
リックは、笑いながら、そう言った。
リックなりの褒め言葉だったのだが、アンヌの眉は、きゅきゅっ、と釣り上った。
どうやら怒らせたようだ。
余計な世話だと言わんばかりに、リックに冷たい一瞥をくれると、アンヌは踵を返して、立ち去った。
立ち去るその後ろ姿を見つめながら、あのアンヌに笑ってもらえるのはどんな男なんだろうと、笑顔のアンヌを想像して、リックは、ひとり吹き出した。
「リック」
リックが笑みを残しながら、馬車の修理に戻ろうとすると、リックを呼ぶ声が聞こえた。
ハリーだった。
「リヴィングストン伯爵が、お呼びだ」
リックは、嫌な予感がした。
その予感が当たらないことを、祈った。