15-2.冬宮殿のサファイア



 「俺の、本当の名前は、セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレゾフスキー。グラディウスの貴族だ」
フィリップは驚いて、いくらか白いものの混じった、豊かなあごひげに覆われたハリーの顔を、見つめた。
「俺は、グラディウスの将校だ。俺が、グラディウスにいた二十年程前は、今のアレクセイ国王の父親の、パーヴェル国王の時代だった。俺は、グラディウスの将校として誇りを持ち、軍人として、国のために命を捧げて、生きていた。そんな俺が、宮廷の舞踏会で、ナターリアに出会った。俺は、これまでに、彼女ほど愛した女性はいない。そして、これからも、そうだろう」
思いもがけない、ハリーの告白だった。
「ナターリアは、パーヴェル国王と縁戚関係にあって、望めば、俺なんかより、もっと、ずっと、爵位や身分の高い男と結婚できたし、もしかしたら、どこかの国の妃になっていたって、おかしくなかった女性だ。出会った時、俺は二十二歳、彼女は、二十三歳だった。美しく気品があって、知性があって、優しかった。独身の男の誰もが、彼女を射止めようと、争っていた。俺も、ひとめ見て、彼女に魅了された。国土のほとんどが、長く厳しい冬の寒さに覆われるグラディウスだ。彼女は、煌めくように碧く輝く瞳の持ち主だったことから、冬宮殿のサファイア、と称えられていた。宮廷の舞踏会で、彼女と踊る栄誉を与えられた時、俺は、宮廷にいる男たちの、妬みと羨望を一身に受けながら、彼女と踊った。信じられないような、夢のような時間だった。その一度のダンスで、俺は、彼女の虜になった」
ハリーは、遠い時間を懐かしむような眼をしていた。
「彼女に寄せられる数えきれない縁談の中から、何故、彼女が俺を選んでくれたのか、それは今でも謎だ。彼女なら、もっと条件のいい話がたくさんあった。俺は、確かに貴族ではあったが、俺の家柄では、とてもナターリアと釣り合いが、取れているとは言えなかった。俺は彼女と結婚したからと言って、彼女に宮殿を与えてやれるような財力はなかった。ナターリアなら、本当にそれくらいの家から望まれても、おかしくなかったんだ。俺では、平凡な当たり前の貴族の暮らしと、彼女の瞳と同じ色のサファイアの首飾りを、贈ってやることぐらいしかできなかった。だから、彼女の家族や親戚からの反対も、大きかった。それでも、彼女は、俺を選んでくれた。俺を、愛しているのだと言ってくれた。俺の変わりはいないのだと言ってくれた。俺は、素晴らしい妻を手に入れた。最高のサファイアを。それなのに、俺は・・・、俺は、そのサファイアを、この手で、粉々に打ち砕いたんだ」
ハリーは、奥歯をぎゅっ、と噛みしめた。
「ハリー、辛いんだったら、もう・・・」
見かねて、フィリップが口をさしはさんだ。
大丈夫だ、と、ハリーは自分に言い聞かせるように、呟いた。
「二十四歳でナターリアと結婚して、半年ほどすると、パーヴェル国王が崩御した。そして、まだ歳若いアレクセイ国王が即位した。実は、パーヴェル国王の時代から、軍人たちの、とりわけ将校たちの間では、国王に対する不満がくすぶっていた。グラディウスは、王権が、とりわけ強い、専制君主だ。国王に逆らうことなど、誰であっても許されない。そんなことをすれば、すぐに絞首刑だ。農民に対する扱いも、ひどいものだった。それに、反発した青年将校たちが、反乱を起こした。俺がナターリアと結婚して、一年ほどたった時の事件だ。俺は、その反乱に加わった」
「ハリー・・・」
「ナターリアのことを考えれば、そんなことをしてはいけなかった。だけど、仲間たちが憤怒と理想を胸に決起するのを見て、自分だけが見て見ぬふりをすることは、できなかった。以前から、俺も、グラディウスという国の圧政には、疑念を持っていた。恐ろしいまでの専制政治に、楔を打ち込みたかった。俺たちが、それをやらなければ一体誰がやるというのか。俺は、クーデターに加わった。強い情熱に、取りつかれていた。だけど、今思えば、後先考えないただの愚か者だ。クーデターは、失敗に終わった」
ハリーは、視線を下に落とした。
「首謀者たちは、即刻広場で、絞首刑。そして、俺は、首都から遠く離れた極寒の地ペトロフへ、流刑になった」
「流刑・・・」
「ああ、そうだ。流刑だ。ペトロフは、国土全体が長く厳しい冬を迎えるグラディウスの中でも、最も寒い土地だ。夏のわずかな期間を除いては、凍えるような寒さに覆われる。雪に覆われる真冬の寒さは、どんな言葉でも形容しがたい。身体が凍り付き、痛むような冷たさだ。俺は、その地へ流され、ひどい小屋のような家を与えられ、労働をさせられた。男でも、過酷で、ひと冬終えると、何名かが、墓場に入るような酷いところだ。そんなところへ、そんな場所なのに・・・、ナターリアは俺を追って、やって来た。地位も身分も、家族も、何もかも捨てて。俺が一度も会ったことのない、生まれたばかりの、娘も捨てて・・・」
ハリーは、頭を抱えてうなだれた。
中々、次の言葉は出てこなかった。
「ナターリアは、それでも、俺を追って来てくれた。ペトロフで、俺を見つけた時、白い息を吐きながら潤んだ瞳で、嬉しそうに笑ってくれた。俺は、とんでもない間違いを犯したのだと、その時になって深い後悔と自責の念で、頭がおかしくなりそうになった。だけど・・・、もう、今さら何を言っても、遅かった。何も取り戻すことは、出来なかった。そして・・・、ナターリアも失った」
フィリップは、かけるべき言葉が見つからなかった。
「ペトロフへやってきて、一年が過ぎた頃、ナターリアは流行り病にかかった。十分な食べ物も薬も、あるはずがなかった。あったのは、凍えるような寒さだけだ。ナターリアは、痩せて、ぼろぼろになって死んでいった。ほんの数年前、冬宮殿のサファイアと称された娘が、極寒の地で、ぼろ雑巾のようになって、死んでいった。殺したのは、俺だ」
うなだれたハリーの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「俺は、絶望した。どん底だった。ナターリアを失って、何度も、自ら死を選ぶことを、考えた。でも、俺は、卑怯者だ。結局、死ぬ勇気もなかった。数年、ペトロフで過ごしたある夏の日、俺は、ペトロフを脱出した。配給されるわずかな食べ物を少しずつ密かに蓄え、逃走の食料にし、何日も、何日も、ただひたすら歩いて歩いて、歩き続けて、小さな街の中に紛れ込むことに成功した。それからは、日雇いの労働で旅を続けながら、気付けば、フォルティスに流れ着いていた。そうして、タリスの御者として、雇われることになって、今の暮らしをしている」
ハリーの涙は、フィリップの心をも締め付けた。
「ナターリアが亡くなって、彼女を思い出さない日はない。毎朝、毎日、毎夕、毎夜、初めて舞踏会で会った、気品あふれる美しい姿と、ペトロフで、痩せこけて死んでいった姿を思い出す。そして、胸がえぐられるような、地獄のような苦しみを味わっている。毎日だ。だけど、それは、仕方がない。自分の仕出かした愚かな罪だ。一生、背負っていく覚悟だ。だけど、ナターリアとは別に、もうひとつ、ひどい後悔がある。何かわかるか、フィリップ?」
フィリップは、小さく、かぶりを振った。
「逃げたことさ。国から」
はっ、と、フィリップは息を呑んだ。
「最愛の妻を、ナターリアを、地獄に突き落としてまで、反乱に加わった。だったらなぜ、ペトロフから逃げ出すことに成功した時、グラディウスの為に生きることを選ばずに、フォルティスで、過去を忘れて、生きることを選んでしまったのか。自分がやろうとしたことは、一体何だったのか。その後悔と疑念は、歳を経るごとに一層強くなってくる」
ハリーが、フィリップに何を言いたいのか、言おうとしているのか、よくわかった。
「逃げた俺が、言うべきことじゃないのは、よく分かっている、フィリップ。だけど、逃げたからからこそ、よく分かる。だから、敢えて言わせてくれ。逃げれば、命は助かる。卑怯者の、俺のように。ただ、残るのは、命と後悔だけだ」