12-3.愛しい時間



 フィリップは、ベッドに仰向けになったまま、深い憂いを含んだ青い瞳で、天井を見つめていた。
「アンジェラ」
そう呟いてみた。
お兄様、お兄様・・・。
フィリップを呼ぶ、アンジェラの、澄んだ声。
フィリップを、じっとみつめる灰色の瞳。
陽に当たって光る、柔らかな明るい茶色の巻き毛。
ふわふわとした、心溶かす、甘い砂糖菓子のような、微笑み。
フィリップは、胸を締め付けられるような、深くえぐられるような痛みを覚えて、ぎゅっと、眼を瞑った。
助けてやれなかった。
守ってやれなかった。
フィリップは、自分を責めた。
どうしたところで、忘れられるはずなどなかった。
昼間、気が紛れている間は、どうにか自分を持ちこたえることができた。
けれども、夜になって、部屋で一人になると、どうしようもない寂寥感がこみ上げて来て、心がずたずたに引き裂かれそうだった。
フィリップは、ベッドに起き上がって、手にしていた、金の繊細な細工が施された、円形の淡い緑色のペンダントを眼の前に近づけた。
亡くなったアンジェラの首にかけられていた、遺品だった。
それは、半年ほど前、フィリップが、街で見つけて、アンジェラに贈ったものだった。
「とっても素敵だわ。本当に、ありがとう、お兄様」
そういうアンジェラの表情は、それまでフィリップが眼にしたことのないほど、輝いていた。
アンジェラに、会いたかった。
たまらなく、会いたいと思った。
けれども、それは、どうあっても叶わない望みだった。
フィリップは、枕元に置いてあった新聞が眼に入って、手に取った。
先ほど、タヴァンの一階から、借りて来たものだった。
新聞は、ユースティティアとグラディウスの、一進一退の攻防を伝えていた。
アルカンスィエルが落ちたからと言って、ユースティティアという国が、無くなったわけではない。
ジャン王が無残に殺されたからといって、ユースティティア軍が、戦いを止めたわけではなかった。
それなのに、自分は一体、ここで何をしているんだ?
フィリップは、歯がゆかった。
ユースティティアの危機に、何の力にもなっていない自分が。
軍人の卵である自分が、戦いに背を向けていることが。
ウッドフィールドを目指したのは、アンジェラのためだった。
そもそも、ウッドフィールドにアンジェラを送り届けたなら、フィリップは、ユースティティアに戻るつもりだった。
それは、アンジェラには言えなかったが、リックには伝えてあった。
けれども、アンジェラが亡くなった今、何のためにウッドフィールドへ向かうのか。
フィリップは、目的を見失っていた。
アンヌのため、といえば、それはそうかもしれなかった。
ウッドフィールドにつけば、アンヌはリヴィングストン伯爵に保護されて、自分の屋敷ではない肩身の狭さはあるにせよ、ユースティティアにいた頃と変わらない貴族の生活が、待っているだろう。
ウッドフィールドは、レティシアにとっても、働きやすい環境であるに違いなかった。
アンジェラは、フィリップがウッドフィールで、穏やかに暮らすことを望んでいた。
もしもアンジェラが生きていれば、断ち難いユースティティアに対する思いはあったとしても、アンジェラのために、ウッドフィールド暮らすという選択は、ありえたかもしれない。
けれども、アンジェラが亡くなり、自分は、一体ウッドフィールで何をするのか。
そう考えた時に、いくら考えても、答えが出で来なかった。
けれども、今ここで、自分ひとりだけユースティティアに戻るとは、言い出しにくかった。
言い出したところで、みんなに止められただろう。
フィリップ、ここまで来たんだ、今はともかくウッドフィールドへ向かおうと、言われて。
だから、自分の正直な気持ちを誰にも言わずに、黙っていた。
けれども、ユースティティアから離れれば離れるほど、祖国への思慕は募った。
祖国を忘れて、ウッドフィールドでリヴィングストン伯爵に守られて、ぬくぬく暮らすことなど、到底できるはずがない。
先日、十七歳の誕生日を迎えたフィリップ・・・、デュヴィラール伯爵には、強い意思が芽生え始めていた。



 レティシアが、その日の用事を全て片付け終えた時、夜は更けていた。
それでも、タヴァンの階下から、時折賑やかな声が、漏れ聞こえたので、酒場は遅くまでやっているようだった。
レティシアは、リックの部屋の前の薄暗い廊下で、じっとたたずんでいた。
どうしたらいいのかしら。
リックは、後で部屋に来い、と言った。
この扉の向こうで、リックは私を待っているのかしら。
そう思えば、早くノックをした方がいいように思えた。
けれども、それはまるで、レティシアが今夜も、抱かれることを期待しているようで、なんだかとても恥ずかしいことのように思えた。
その一方で、昨夜のように、もう一度リックに狂おしく抱かれたいという欲求を、どうしてもかき消すことが出来なかった。
本当に、どうしてしまったのかしら、私。
レティシアは、やはりぎゅうっと、両手で頬を押さえた。
たった一度、抱かれただけのこと。
たった一晩、委ねただけのこと。
それだけのことで、こうまでレティシアの身体に、リックの痕跡が刻まれて、心奪われてしまったことが、不思議で、信じられなかった。
リックと肌を重ねる前には、もう戻れない。
レティシアは、リックの部屋をノックしようと、手を振り上げた。
でも、結局止めた。
そっと、ため息をついた。
何をやっているのかしら、私。
首を振って、自分の部屋に戻ろうと、振り返った。
そして、驚いた。
階段のところで、リックが、笑いながら立っていた。
「お前が、真面目な女だということがよく分かった」
可笑しそうに笑いながら、レティシアに近づいてくる。
レティシアは、急いで、その傍をすり抜けようとした。
「待てよ」
リックは、軽々レティシアの身体を持ち上げると、自分の部屋に入った。
「ずっと見てらしたのね。嫌な方」
レティシアは、リックを突き放そうと試みたが、無駄だった。
リックは、ますます可笑しそうに笑いだした。
「これでも、褒めてるんだぜ。大方、自分から俺の部屋へ行くのが、照れくさかったんだろう?お前が自分の部屋に帰ってしまう前に、戻って来て良かった」
リックは、ごく当然のようにレティシアを抱いたまま、ベッドに座った。
レティシアは、顔を伏せたままだった。
「こっちを向けよ」
レティシアの顎に手をかけようとしたリックを、レティシアは振り払った。
「レティシア」
けれども、レティシアは、顔を背けた。
「怒ったのか?」
レティシアは、反対を向いて、顔を見せなかった。
なあ、と半ば強引にレティシアの顔を、自分の方へ向けて、リックは戸惑った。
リックを虜にする、その美しいヘーゼルの瞳が、涙を含んでいて、まばたきと共に、頬に伝った。
「俺が、悪かった。笑いすぎた」
リックは、神妙な面持ちになった。
「なあ、どうすれば、機嫌を直す?もう一度、シードケーキを持ってくるか?」
リックは、レティシアの機嫌を伺うように、瞳を覗きこんだ。
レティシアは、答えなかった。
「機嫌を直せよ」
大抵の男がそうであるように、リックも女の涙は、苦手だった。
ましてや、レティシアを泣かせた原因は、自分にあるのだから、少なからず罪悪感があった。
「私の、気持ちなんて・・・」
「何?」
「私の気持ちなんて、あなたにはわかりませんわ」
「何の話だ?」
「今朝から、好きなように振舞って、私がどんなに困っているか、考えてはもらえませんもの」
リックは、何のことかピンとこなかった。
「あんな風にされて、どうしたらいいかなんて、わかりませんもの」
レティシアの瞳から、大粒の涙が伝った。
そう言われて、ようやく、リックは思い当った。
レティシアは、男に慣れてない。
それは、身体だけではないということか。
要するに、心も、慣れてない。
初めての経験に、気持ちが、追いついてないわけだ。
ようやく、リックは気付いた。
繊細な乙女心というものに。
なんてこった。
リックは、ふっと、ため息をついた。
「俺が悪かった」
リックは膝の上の、レティシアの手を取って、雑用で荒れたその指先を、見つめながら言った。
「男は、好きな女が傍にいると、すぐ手を出したくなる。好きな女が魅力的なら、尚更そうだ。ずっと触れていたくなる」
レティシアの頬の涙を、リックは指で拭ってやった。
「だけど、お前が困るなら、これからは、ちゃんとお前に触れていいか、聞いてからにする。お前が嫌なら、触れない。それでいいか?」
返事を促す様に、リックはレティシアの身体を揺すった。
レティシアは、小さくうなずいた。
「早速聞く。今から、お前に触れていいか?昨夜みたいに、お前を抱きたい」
黒い瞳を真っ直ぐに向け、単刀直入に聞かれて、レティシアは、答えに詰まった。
けれども、素直に、リックの胸に頬を寄せて、小さくうなずいた。
今、リックに抱かれたいという想いに、嘘を付く必要はないのだと、思えた。
リックは、すぐに、レティシアの服のボタンをはずしにかかった。
レティシアが裸になり、肌にリックの愛撫を受け始めるまでに、時間はかからなかった。
昨日とは、まるで違う。
乳房に優しく触れるリックの指と、唇に、吐息をもらしながら、レティシアはそう思った。
こうして、肌を重ねることに、戸惑いと羞恥はまだ消えなかったけれど、昨夜のように、怖いとは思わなかった。
乳房に触れながら、喉元に、背中に、腰に這うリックの唇が、レティシアを甘やかに攻め立てる。
レティシア、愛している。
愛している、レティシア・・・。
耳元で、何度も囁かれて、言葉にならない想いが、レティシアの胸に溢れた。
そっと指で秘所をなぞられて、レティシアは声を上げた。
疼きに耐えるように、リックのたくましい身体にすがりついた。
少しずつ、リックが入って来て、レティシアは、まだ少し痛みを覚えた。
けれども、昨日に比べると、随分痛みは和らいでいた。
リックの動きに合わせて、身体に走る疼きが次第に強くなっていき、喘ぎが抑えられなくなる。
レティシアが昇り詰めるのは、昨日よりも早かった。
レティシアが達した後、すぐにリックも低いうめき声を上げて、射った。
余韻の中、リックの抱擁を受けながら、レティシアは、一層、愛が深まっていることに気付いた。
愛しさは、昨日よりも、ずっと募っていた。
レティシアは、眼を閉じて、リックの温もりを忘れないよう、心に刻んでいた。



  夜が、明け始めていた。
そろそろ出発の用意を始めなければならなかった。
レティシアよりも先に目覚めたリックは、ズボンを身に着けて、ベッドの端に座った。
レティシアは、まだ眠っていた。
昨夜は、もう一度愛し合った後、ふたりとも、そのまま眠ってしまっていた。
レティシアの穏やかな寝顔を見つめながら、本当なら、このまま寝かしておいてやりたかった。
リックがそう思いながら、髪に触れても、起きる気配はなかった。
ブリストンに連れて帰ったら、好きなだけ愛し合った後、好きなだけ眠らせてやる。
無垢な寝顔を見つめながら、そう思った。
リックの指が、何度かレティシアの頬を撫でて、その瞳が、ゆっくりと開く。
レティシアは、裸のまま、うつ伏せで、毛布が背中から下を隠しているものの、しなやかな肩と腕が、あらわになっていた。
リックは、その肩に口づけずにはいられなかった。
「私、あのまま、眠って・・・」
「疲れていたんだろう」
リックは、レティシアの肩に、唇を当てながら答えた。
そこへ、突如、部屋をノックする音が高く響いた。
「リック、おはよう。ちょっといいかな」
フィリップの声だった。
その時になって、部屋の鍵をかけていなかったことに気付いた二人だったが、もう遅すぎた。
ふたりが、はっと、ドアの方へ眼を遣った瞬間、ドアが開いた。
一瞬、フィリップと、レティシアの眼が合った。
「ごめん!」
フィリップは、蒼くなって、開きかけたドアを、そのままばたんと閉めた。
リックがレティシアを見ると・・・、恥ずかしさで一杯だったのだろう、両手で顔を覆ったまま、動かなかった。
「まあ・・・、フィリップもお前も、免疫がついていいんじゃないか」
リックはそれ以外に、慰めの言葉を知らなかった。