12-1.愛しい時間



 「レティシア」
翌朝の出発前、タヴァンの前で、馬に荷を乗せていたリックとハリーに、部屋から降ろしてきた荷物を手渡しながら、少し顔を背けがちに、おはようと、挨拶をすると、レティシアはそのままタヴァンの中へ戻ろうとした。
そのレティシアを、リックが呼び止めた。
呼び止められて、振り返ったレティシアの頬は、薄紅色に染まっていた。
「荷物はこれだけか?」
「アンヌ様のが、あとひとつだけ…」
レティシアは、恥ずかしそうに、下を向いた。
「少しは、眠れたか?」
レティシアの頬に指でそっと触れて、リックが小声で尋ねて来た。
「あまり…」
ますます、レティシアの頬は、赤くなった。
昨夜、あのままふたりで過ごしていては、ずっと触れ合ったままで、眠ることが出来なかったので、空が白み始める少し前に、湖畔のタヴァンを出た。
そして、みんなのいるタヴァンに帰って、部屋に戻ったものの、レティシアは、とても眠ることなど出来なかった。
「ちゃんと食えよ。でないと、もたないぜ」
「はい…」
赤い顔のまま、返事をしたレティシアが、アンヌの荷物を降ろすために、タヴァンの中へ戻ろうとすると、
「忙しいんだろ。行ってやる」
と、リックも一緒にタヴァンの中に入った。
ふたりの傍で、馬に荷を括りつけていたハリーは、その会話を、聞くともなく聞くはめになって、思わず、吹き出しそうになった。
何て、わかりやすい奴らだ。
ふたりとも、昨夜は帰って来なかった。
そして、ふたりとも、朝から、赤い眼をしていた。
何があったかなんて、聞くだけ野暮というものだろう。
ハリーは思わず、妻と初めて迎えた朝のことを、思い出していた。
冬宮殿のサファイアと称されたナターリアと、初めて交わった朝、二人のいるベッドに注ぐ朝の光が、いつも以上に眩しく感じたことを、二十年近く経た今でも、ハリーははっきり覚えていた。
その朝の光の中、もう一度恥じらうナターリアを、抱いた。
ナターリアは、ハリーの背中に腕を回し、恍惚の中、囁いた。
「セルゲイ、セルゲイ・・・、愛しているわ」
ハリーは、首を振った。
今頃、何て事を思い出すんだ、俺は。
すっかりふたりに、あてられたようだ。
何にしろ、リックもレティシアも大丈夫だ。
アンジェラのことは、ふたりで乗り越えて行くだろう。
問題は・・・、
「おはよう。手伝うよ」
と、降りて来たのは、フィリップだった。
アンジェラが亡くなって、フィリップはこの二日で、随分頬がこけた。
ハリーはその失意が、いかばかりかと思った。
自身も、妻を亡くしたハリーには、その痛みがよく分かった。
しかも、亡くなった原因が、少なからず自分にあるという点で、よく似ていた。
いや…、俺の場合は、俺が殺したようなものだ。
フィリップよりも、罪深い。
ハリーは、ナターリアの最期を思い出して、手が止まった。
「ハリー?」
「ああ、すまん」
ハリーは、過去の苦い記憶を振り払おうと、頭を振った。
ハリーは、まだアンジェラの死から、二日しか経ってないのに、今朝、このように出発の準備を手伝うフィリップに、少なからず感心していた。
「お前さんは、えらいな」
「どうしたの、急に」
「いや…、色々あるのに、 取り乱さないからさ」
「取り乱したよ、十分。正気に引き戻されたけど」
ハリーは、アンジェラが亡くなった時、川へ入って後を追おうとしたことを、言っているのだと思った。
「あの状況じゃ、誰でも、正気を失う」
「リックには、感謝してる。あの時、力づくで、僕を引きもどしてくれた。それに、アンジェラの埋葬の後、あのままエイムズビルに留まり続けていたら、きっと、僕は今頃つぶれてた。アンジェラの想い出に溺れて」
「今は、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないよ、全然大丈夫じゃない。辛いよ。辛くて、苦しくて、立ち直れそうにない」
「フィリップ・・・」
「でも、僕が、折れるわけにはいかない。僕が折れたら、アンジェラは、何のために亡くなったのか、わからなくなる。僕が、ウッドフィールドへ辿り着くことが、アンジェラの望みだった。だったら、その望みは、叶えてあげないと」
「そうだな。その通りだ」



 ハリーは、フィリップと出会って一週間ほどだったが、この一週間で、フィリップが随分変わったように感じていた。
フィリップは、ずっと色んなものを背負い続けて、真面目に生きて来たのだと思う。
アンジェラを守らなくてはならない、デュヴィラール伯爵として、立派でなくてはならない、そのためには、軍人として名を馳せなくてはならないと。
けれども、限られた場所で、一途に生きて来て、他を知らない。
それが、この旅で思いがけず、今まで生きて来た場所とは全く違う場所に、放りだされた。
それは、十代の若者にとって、想像もつかない刺激になったに違いない。
リックの存在も、大きいように思えた。
多分、ああいう性質の人間には、いままで出会ったことがなかったはずだ。
リックは、武骨だが、たくましくて、芯が強い。
父親という存在を知らないフィリップにとって、初めて頼りになる存在だったのだろう。
フィリップが身分の違いを越えて、リックを慕っているとしても、不思議はないと思った。
「そう言えば、変ったんだな」
「何が?」
二人とも、手を止めずに話していた。
「自分のことを、私から、僕って、言うようになっただろう。話し方も、リックの影響か?段々砕けて来ている」
「ああ」
フィリップは、少し照れたように、笑った。
「何か、僕って言う方が、自分らしいような気がするんだ。おかしいかな?」
「いやあ、その方がいい。ずっと、お前さんらしいよ」
ハリーは、もし生きていれば、娘と同じくらいの年齢になるフィリップを、優しい瞳で見つめた。
そこへ、アンヌの荷物を持って、ようやくリックが、タヴァンから出て来た。
「遅かったじゃないか」
「レティシアの頬が、ひどく赤かったから、具合でも悪いんじゃないかと思って、少し部屋で、診てやってたのさ」
「俺の想像では、お前さんの介抱で、もっと赤くなったはずだ」
ぬけぬけと話すリックの行いなど、お見通しと言わんばかりにハリーは言った。
「レティシア、具合悪いの?」
心配そうに口を挟んできたフィリップに、リックとハリーは、顔を見合わせて笑いだした。