10-3.アンジェラ



 一行は、ラッセルを出発し、再び、狭い山道に入った。
道は、馬が、ようやく進んでいける狭さで、両側は、うっそうと木々が覆い茂り、右側の木々の下方には、幅広で深さのありそうな川が流れていた。
先頭がリックで、レティシア、アンジェラ、フィリップ、アンヌ、ハリーの順に進んで行った。
一列になって進んで行くため、フィリップはアンジェラの表情をうかがうことは出来なかったが、その後ろ姿を眺めていると、無性に抱きしめてやりたくなった。
病気の妹が、自分のために無理をしているのだと思うと、堪らない気持ちになった。
無理をさせているのは自分なのだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
昼休憩の際、蒼い顔をして座り込むアンジェラを、もうとても見ていられなかった。
「アンジェラ、もういい。どこかで、ゆっくり休もう。リックが、ウッドフィールドまで行ってくれる。その間、どこかで待っていよう、その方が、きっと早く着ける」
「私なら、大丈夫よ、お兄さま・・・」
アンジェラは、青白い顔のまま、微笑みを浮かべた。
「アンジェラ・・・」
フィリップは、思わずアンジェラの手を取っていた。
「アンジェラ、フィリップの言う通りにしろ」
「リック・・・」
「でないと、俺はこの仕事を下りる」
これ以上は、もうアンジェラの身体が続かないと、リックが決断を下した。
リックのその言葉を聞いて、アンジェラの表情が大きく歪んだ。
俯いたその瞳から、涙が零れた。
その時、空を見上げたハリーの表情が、険しくなった。
「まずいな」
雲が急激な速さで流れ、黒雲が、じわりじわりと押し迫っていた。
もうすぐ、雨が落ちてくるのは、間違いなかった。
雨をしのげそうな場所は、なかった。
「急ごう」
先を急いだものの、雨はすぐに降り始めた。
そして、一気に激しい勢いとなった。
前を行く者の姿さえ、おぼろげにしか見えなくなった。
馬も突然の異変に、動揺し、歩みが乱れた。
とりわけ、アンジェラの乗った馬の脚が乱れて、道を踏み外した。
その瞬間、アンジェラの身体が、馬上から振り落とされて、木々の中へと滑り落ちて行った。
「アンジェラ!」
フィリップの叫び声で、振り返ったレティシアは、アンジェラの異変に気付いた。
レティシアが、慌てて馬から降りて、アンジェラの滑り落ちた先へ足を向けた時、暴れるアンジェラの馬が、レティシアに突き当たって来た。
レティシアの身体も、アンジェラを追うように、木々を押し倒しながら、斜面を滑り落ちて行った。
上から、アンジェラとレティシアの名前を叫ぶ声が、聞こえる。
斜面を滑り落ちる身体は、止まらなかった。
枝が、肌に鋭く当たって、切れるような痛みが、身体のあちこちに走った。
レティシアが、はっと川に気付いた時、身体は、斜面の下の川の中へと、転がり落ちていた。
川底に足はつくものの、雨のせいで勢いを増す川の流れが、首元まで押し寄せて、流されていく。
水を吸った服は重く、身動きが取れなかった。
川面に浮かぶアンジェラの服が、眼に入った。
助けに行かなくてはと、水をかくものの、流されて、アンジェラの方へ近づけなかった。
水が、口に入って息ができなくなった。
苦しかった。
冷たかった。
けれども、心のどこかで、レティシアは助かることを望んでいなかった。
これで・・・、全てから解放される。
もう、いい。
これで、いい。
レティシアは、息のできない苦しみにもがきながら、そう思った。
けれども、その時、身体ごと引き上げられた。
リックだった。
レティシアは、激しくせき込んだ。
リックが、レティシアの背中を何度も強く叩いた。
飲みこんだ水を吐き出して、ようやく空気が肺に入って来た。
レティシアを抱いたまま、リックは、濁流を岸に向かって進む。
流れは強く、どうかすると、ふたりともそのまま流されてしまいそうになる。
その度に、レティシアを抱えるリックの腕に、力が入った。
岸にたどり着き、リックに押し上げられて水から上がると、レティシアはそのまま土の上に倒れ込んだ。
そのレティシアをリックが、抱き上げる。
「大丈夫か、おい、しっかりしろ、大丈夫か?」
レティシアの頬を、その大きな手で包み、真剣な眼差しで、レティシアの眼をみつめていた。
どうしてこの人は、私の瞳を、こんなにも心配そうにのぞきこむのだろう。
何故、自分の身を顧みずに、私を、助けてくれるのだろう。
大丈夫と、囁くような声で、レティシアが答えると、力のこもった腕で、抱きしめられた。
リックの安堵が、身体から伝わって来た。
「アンジェラ!」
フィリップの叫び声が、耳に入った。
弾かれたように、リックがレティシアから離れて、後ろを振り返った。
ハリーがアンジェラを抱えて、川から岸に上がろうとしていた。
流されたアンジェラを追って、ハリーと共に、川の中へ入っていたフィリップも後に続く。
アンジェラの腕は、だらんと下に落ち、瞼は閉じたままだった。
ハリーは、アンジェラの肩をゆすり、青白い頬を叩いた。
けれども、アンジェラが眼をあけることはなかった。
胸に耳を当てても、呼吸音も心音もなかった。
「アンジェラ、眼を覚ますんだ!アンジェラ!頼む、眼をあけてくれ」
ハリーは、その場にアンジェラを寝かせて、夢中で胸を、何度も何度も圧迫した。
何度も、何度も・・・、もう無理なのだと、頭では分かっていても、その手を休めることはできなかった。
まだ、十四歳じゃないか。
これからじゃないか。
生きて、恋をして、いい男に巡り合って・・・、幸せになるんだろう?
ハリーの眼から、涙が零れ落ちた。
そのハリーの肩を、そっと、リックが後ろから叩いた。
ハリーは、手を止めた。
「アンジェラ、アンジェラ、嘘だ!嘘だ!こんなこと、嘘だ!」
ハリーを押しのけて、覆いかぶさるように、フィリップがアンジェラを抱きしめる。
「嘘だ、嘘だ、アンジェラ、起きるんだ!」
フィリップが絶叫する。
「アンジェラ、アンジェラ・・・、アンジェラ!」
何度も、名前を呼び続けた。
涙が、頬を伝った。
「頼む、頼むから・・・」
アンジェラを胸に抱いたまま、絞り出すような声で言った。
リックも、ハリーも言葉がなかった。
レティシアが、ふらつきながら、フィリップの方へ近づいて来て、その腕の中のアンジェラの瞳が、二度と開くことはないのだと認めると、小さな悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。
もう、アンジェラが還らないことは、誰もがわかっていた。
もう術がないことも、よくわかっていた。
けれども、アンジェラがもうこの世にはいないのだと、もう二度と、明るい茶色の柔らかな巻き毛を、甘い砂糖菓子のような、ふわふわとした微笑みを、見ることができないのだということを、到底、受け入れられる者はなかった。
いつの間にか、小雨になっていた。
斜面の上で、心配しているであろうアンヌに、知らせに行かなければならないことは、みんな良くわかっていた。
けれど、誰も、その場所から動くことはできなかった。
川は、未だ激しく流れていた。
どれほど、時間が過ぎただろうか。
「行こう」
リックが、ひとり言のように言った。
「そうだな。それに、アンジェラも可哀想だ」
ハリーが、アンジェラの亡骸を抱きしめたまま動かないフィリップの肩を、そっと叩いた。
雨は止んで、日差しが見え始めていた。
リックに促されて、レティシアは立ち上がった。
「足元に気をつけろ」
リックに支えられて、先ほど、アンジェラとレティシアが転がり落ちた急な斜面を、登り始めた。
レティシアが振り返ると、フィリップの代わりに、ハリーがアンジェラを抱きあげて、こちらに向かっていた。
アンジェラを抱いたまま、この斜面を登るのは簡単ではなかった。
「リック、私は大丈夫だから、ハリーを手伝ってあげて」
レティシアはリックにそう告げて、まだうずくまったままであろうフィリップの方へ、視線をやった。
ところが、フィリップは、そこにいなかった。
「フィリップ様は?」
リックも、後ろを振り返った。
視線を、せわしなく動かして、フィリップを探す。
どこだ、いない、いない・・・、いた!
「フィリップ、何やってるんだ、戻ってこい!早く!」
そう怒鳴るやいなや、リックは、川へ向かって走り出した。
フィリップは、濁流の中にいた。
そして、深みに向かって、歩みを進めていた。
異変に気付いたハリーも、アンジェラの亡骸を横たえて、リックの後を追う。
「フィリップ、戻れ、戻るんだ!」
リックは、大声で叫びながら、濁流の中、フィリップを追う。
流れの早い水は、リックの胸の高さまであった。
リックが追いついて、フィリップの肩を掴んだ。
けれども、フィリップは振り払った。
もう一度、リックが肩を掴む。
フィリップはそれを振り払って、突き進む。
リックは、力づくで、フィリップの腕を引きもどした。
「離せ!」
「馬鹿な真似は止せ!」
「もう・・・、放っておいてくれ」
「ぶっ飛ばずぞ!」
リックは、もがくフィリップの腕を、引っ張り続ける。
ハリーも駆けつけて、フィリップを、川の中から引き戻した。
「放っておいてくれっ!アンジェラの・・・、アンジェラのいない世界に生きていたって、しょうがないんだ!」
フィリップがそう叫んだ瞬間、リックはその右頬を、殴りつけた。
「甘ったれんな!自分だけが辛いなんて思うなよ!」
フィリップの身体は、地面の上に倒れ込んだ。
唇から、血が出ていた。
フィリップは立ち上がると、リックの胸に頭突きをくらわしたが、そのまま、地面に投げ捨てられた。
それでも、行き場のない怒りと悲しみをリックにぶちまけるかのように、体当たりで向かって行く。
「リック、フィリップ、止めろ!二人とも、落ち着け!」
胸倉を掴み合って、睨みあう二人の間に、ハリーが割って入った。
けれども、ふたりとも収まる様子はなかった。
「静かになさい!」
よく通る威厳のある声が、降り注いできた。
誰もが、その声の方を振り返った。
アンヌだった。
その深い緑色の瞳は、争う男たちに、怒りを向けていた。
「あなたがたは、愚か者です。アンジェラに対して、恥ずかしいと思わないのですか。せめて、安らかに送り出してやりたいとは、思わないのですか」
凛とした声音だった。
けれども、心に染み入る声だった。
フィリップが、リックのシャツから手をほどく。
その表情が歪んで、泣き顔になった。
そして、地面に膝を付くと、何度も、何度も、アンジェラの名を呼びながら、慟哭した。



 翌日、アンジェラの亡きがらは、エイムズビルという、小さな街の共同墓地に埋葬された。
あまりにも急だということ、外国人だということ、宗教が違うということで、関係者は初め、埋葬に、難色を示した。
それに対して、アンヌが激昂した。
アンヌの威厳は、相手を威圧し、敬服させた。
埋葬の後、すぐに出立したのは、リックの判断だった。
アンジェラの眠るこの地に留まれば、アンジェラの想い出に、心えぐられるような哀しみが増すばかりで、目的を見失いそうになるからだった。
たとえ、わずかな距離でも、先へと進んだ。
アンジェラが望んだ、ウッドフィールドを目指して。