1-4.王都アルカンスィエルの陥落



 「アンジェラ」
「お兄様」
アンジェラの青白い頬に、赤みがさしていた。
フィリップはアンジェラの部屋に駆け込むやいなや、ベッドの端に腰かけていたアンジェラを抱きしめた。
アンジェラの明るい茶色の巻き毛が、フィリップの頬をくすぐる。
もともと小柄で、華奢な体つきだったのに、前よりも痩せたように見えた。
妹が不憫で、堪らない気持ちでいっぱいになった。
アンジェラも、階下の様子が耳に入っていたのだろう。
ベッドからフィリップを迎えるために、起き上がろうとしていた。
「身体は、大丈夫なのか?」
「ええ、今朝にはすっかり熱も下がって、ほら」
と、ベッドから立ち上がろうとしたものの、足元がおぼつかない。
フィリップが支えなければ、危うく倒れるところだった。
「ご無事で何よりです」
傍らから、いつものように、凛とした声でフィリップに話しかけたのは、アンヌだった。
さすが、公爵令嬢というべきか、アルカンスィエルが、敵の手に落ちるかもしれないという異常な事態にも、取り乱す様子は少しもない。
女性にしては背丈が高いアンヌは、深い緑色の瞳を持ち、引き締まった体つきで、瞳と同じ色の上品なドレスに袖を通し、黒みがかった茶色の髪をきちんと結いあげ、今日も一分の隙もなかった。
「アンヌ殿」
「アンヌで、結構です。もうずいぶん前から、そのように申し上げておりますのに」
「では・・・、アンヌ。貴女は、アルカンスィエルから、とうに逃げ出したと思っていた」
「ジャン王と王妃様、ご親族の方々は、おとりまきの貴族の方々と、先日、アルカンスィエルを脱出されましたわね」
アンヌは、自分の姉のことを王妃様と呼んだ。
「貴女は、逃げなかったのか?」
「ええ」
「なぜ?このようなところに来て、もし貴女の身に何かあったら、私は、ラングラン公爵に顔向けができない」
「わたくしが来なければ、アンジェラやレティシアが困ると思ったからですわ」
「母上は、反対したのでは?」
「お母様は、わたくしが決めたことに反対する方ではありません」
そう言って、深い緑色の強い瞳で、じっとフィリップを見つめた。
フィリップは、ラングラン家の人間模様を知っているわけではない。
けれども、アンヌの母が、温和で、穏やかな人柄だということは、誰からともなく伝え聞いて知っていた。
ラングラン公爵が、総司令官として戦地に赴いている今、聡明で、理知的なアンヌが決めたことを止められる者は、誰もいなかったのだろう。
けれども、アンヌは正しかった。
今、もしもアンヌがいなければ、ここから逃げることは困難を極めただろう。
賢いアンヌのことだ。
アルカンスィエルから、アンジェラと、レティシアと、ピエールを連れて逃げるということがどういうことなのか、よくわかっていたはずだ。
お金も、食料も、衣服も、馬車も、必要だということが。
そして、それらを十分に用意して、この古びた屋敷で、状況を見て、アンジェラが回復するのを待ち、すぐさまここを離れるつもりだったのだろう。
しかも、公爵令嬢ともあろうアンヌが、召使いのひとりも伴っていないということは、万が一の危険を考えて、先に逃がしたに違いない。
アンヌは、危険を顧みず、残ってくれたのだ。
「アンヌ、本当に申し訳ない」
「わたくしに、礼は必要ありません」
「しかし・・・」
「そんなことより、フィリップ様、アルカンスィエルはどのような状況ですか」
フィリップは、はっ、と我に返って、手短に状況を説明した。
もうすぐ、グラディウスの兵士が、アルカンスィエルに押し寄せるであろうことを。
アンヌは、それを聞くや否や、
「レティシア、ここはわたくしにまかせて、ピエールに言って、すぐ馬車を表に用意させなさい。あなたは、今朝がたまとめた荷物を、すぐ下に降ろすのです。アンジェラとわたくしは、用意が整えば、すぐに下に降りますから、あなたも、すぐ発てるように準備なさい」
レティシアに、命令した。
そして、
「行き先は、ウッドフィールドです」
そう告げた。
「ウッドフィールド」
驚いたのは、フィリップだった。
「ええ、ウッドフィールドです」
「しかし、それは・・・」
ウッドフィールドは、隣国フォルティスにある。
そしてその土地は、亡き母の妹カトリーヌの嫁ぎ先、リヴィングストン伯爵の領地でもあった。



 フィリップの母モニクと、母の妹カトリーヌは、対照的な人生を歩んでいた。
モニクと同様、カトリーヌもまた、知性と教養を身に付けた美しい人だった。
モニクが資産家と結婚し、カトリーヌが姉の屋敷を訪れた際、偶然その屋敷を訪れていた、フォルティスのリヴィングストン伯爵と出会った。
リヴィングストン伯爵は、美しいカトリーヌにひとめで魅了された。
カトリーヌは、文化、政治、芸術、音楽、どのような話題にも、深い見識があり、会って話せば話すほど、リヴィングストン伯爵は、これまでにない刺激を受け、心から惹かれるようになった。
けれども、リヴィングストン伯爵といえば、フォルティスでも名門の貴族で、誰とでも結婚できるという立場にはなかった。
いくらカトリーヌの実家が裕福であったとはいえ、二人の間には、貴族と平民という大きな隔たりがあった。
当然、リヴィングストン伯爵の周囲は、ふたりの間を引き裂こうとした。
フォルティスに戻ったリヴィングストン伯爵には、身分にふさわしい縁談が、いくつも寄せられた。
けれども、リヴィングストン伯爵の気持ちが、変わることはなかった。
カトリーヌも、フォルティスに戻ったきり、会えないままのリヴィングストン伯爵を信じ、頻繁に届く、溢れるような愛情が込められた手紙だけを頼りに、待ち続けた。
そうして、二年が過ぎ、根負けしたのは、ふたりの仲を引き裂こうと試みた、リヴィングストン伯爵の周りの方だった。
フォルティスの名門遺族と結婚しようとするならば、モニクのようにカトリーヌも、貴族という身分が必要であった。
だから、リヴィングストン伯爵は、カトリーヌをフォルティスのさる貴族の養女にした。
そうして、その後に、自分の正式な妻として迎えたのだった。
約三年の時を経て、カトリーヌは、幾ばくかの不安と、大きな期待と喜びを胸に抱き、花嫁として、ウッドフィールドの地に、初めて足を踏み入れた。
そうして、その馬車を迎えたヴィングストン伯爵は、満面の笑みでその腕にカトリーヌを、しっかりと抱き止めた。



 「ウッドフィールド・・・」
フィリップは、小さくつぶやいた。
ウッドフィールドのリヴィングストン伯爵のことを、忘れていたわけではない。
モニクが、ギヨーム王の妾の座を追われて、この屋敷でひっそりと暮らすようになったのは、カトリーヌがリヴィングストン伯爵家に嫁いだのちのことだった。
モニクのことを、伝え聞いたリヴィングストン伯爵夫妻は、何度も何度も、ウッドフィールドで暮らすことを勧める手紙を、送ってきた。
けれども、モニクは頑として聞き入れなかった。
モニクは、ウッドフィールドへ行けば、再び、何不自由ない暮らしが待っていることを、知っていた。
それでも、行かなかったのは、何もリヴィングストン伯爵夫妻の負担になりたくない、という理由だけではなかった。
モニクは、庶子とはいえ、国王の血を受け継ぐフィリップが、ユースティティアを忘れ、アルカンスィエルを知らずに育つことに、どうしても納得がいかなかった。
どうしても、譲れなかった。
ユースティティアでは、妾の子が、王位を継ぐことはない。
実際、フィリップの父であるギヨーム王亡きあと、王位を継いだのは、正妻である王妃との間の子、ジャン王だった。
そのような事情の中、モニクが野心を抱くはずもなかった。
モニクがウッドフィールドへ行かなかったのは、ユースティティアの国王の血を受け継ぐフィリップに、ユースティティアを捨てさせることはできないという、その想いだけだった。



 この度、アンヌが行き先にウッドフィールドを選んだのは、聡明なアンヌが熟慮した結果なのだろう。
フィリップは、そう思った。
それに、確かにウッドフィールドならば、アンジェラのことも安心だった。
今でも、時折、ウッドフィールドから届く頼りには、フィリップやアンジェラの身を案じる気持ちが、溢れていた。
ウッドフィールドならば、アンジェラもこの先、落ち着いて暮らすことができるだろう。
フィリップの、気持ちは決まった。
「行こう、ウッドフィールドへ」