1-3.王都アルカンスィエルの陥落



 フィリップが、屋敷の前のなだらかな坂道を駆け上がっていくと、蹄の音を聞きつけた下男のピエールが、
「フィリップ様」
と、玄関から駆け出して来た。
屋敷の周りの植え込みは、雑草が伸び放題に伸びていた。
屋敷の使用人は下男のピエールと、女中のレティシアしかいなかった。
レティシアは、アンジェラの世話と家事で手いっぱいだろうし、フィリップが幼いころからこの屋敷で働く、もう初老に差し掛かったであろうピエールひとりで、全ての雑用をこなせというのは、酷な話だった。
ピエールは急いで門をあけて、フィリップを迎えた。
「アンジェラは?」
馬から降りるやいなや、フィリップは、開口一番にそう尋ると、額の汗を袖で拭った。
暑さの盛りは過ぎたものの、ぱらつく雨のせいだろうか、湿度が高く、拭っても拭っても、額に汗がにじむ。
「それが、高熱を出されてしまって」
ピエールは、馬が逃げ出さないように門をしめると、ほとんど駆け足に近い状態で、屋敷の中に進むフィリップの後を、慌てて追った。
熱・・・、やはりそうだったか。
フィリップの胸騒ぎは、的中していた。
「まだ熱は高いのか?」
「いえ、今朝には、落ち着かれたのですが、数日間、高熱が続いたせいか、足元がふらつくようで・・・」
ああ、帰って来たことは、間違いではなかった。
フィリップは、心底そう思ったが、とにかく一目会って顔を見なければ、とても安心はできなかった。
フィリップが、ドアの取っ手に手を伸ばそうとした時、一瞬早く、中からドアが開いた。
「フィリップ様」
優しい、柔らかな声音が、響く。
女中のレティシアだった。
思いがけないフィリップの帰宅が、よほど
嬉しかったようで、笑みがこぼれていた。
無理もない。
病弱なアンジェラと、老いの影がよぎるピエールとの、この古びた屋敷での生活は、二十歳のレティシアにとって、どれほど心細いものだろう。
久しぶりに会うレティシアは、以前と同じく、いや、以前以上に美しかった。
今、このような状況下で不謹慎とは思ったが、そう思わずにはいられなかった。
紺色の仕事着に白のエプロンを着け、艶やかなダークブロンドの髪を、きれいに帽子の中にまとめ込んではいたが、返ってその方が、美しさが際立つのかもしれなかった。
けれども、レティシアの美しさは、顔や姿ばかりというわけではない。
笑い方、話し方、歩き方、とにかく、そういった全てのふるまいが、実に優美だった。
着るものさえ、上等なものを身につければ、誰もが貴族の娘と思ったことだろう。
辞めた女中の代わりに、一年程前さる人の紹介で、レティシアがこの屋敷に来た時は、 何かの間違いではないかと思った。
女中としてやって来るのは、田舎娘と聞いていた。
確かに着ているものは粗末だったが、その風貌、容姿は、洗練されたものであって、とても田舎娘などではなく、さらには、地位に似つかわしくない語学や、乗馬の教養まであった。
子供の頃、そういった教養を与えられる環境にあった、とは聞いたものの、それ以上はあえて聞かなかった。
人には、それぞれ事情というものがあるだろう、自分のように。
そう思ったからだった。
それに、この古びた屋敷での奉公など、レティシアには、一週間と続かないだろう。
この場違いな女性に、アンジェラの世話などできるはずがない。
フィリップは、レティシアを見てすぐにそう思った。
けれども、それは間違っていた。
レティシアは、全ての家事を引き受けて、てきぱきと片付けていった。
それだけではなく、アンジェラを世話し、まるで年の離れた妹のように、優しくいたわってくれた。
フィリップが不在だからといって、あれこれ出しゃばるようなこともなく、屋敷の出来事を、丁寧に手紙で知らせてくれた。
控えめで、いつも穏やかで、微笑みを絶やさなかった。
アンジェラも、すぐにこの年上の美しい女中を、姉のように慕うようになった。
今ではもうレティシアがいなければ、この屋敷は立ち行かなかっただろう。
けれども、実を言えば、フィリップは、レティシアに、十分な給金を支払うことができず、辛抱させているようで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
レティシアは、給金や待遇で、一度も不満を漏らしたことはない。
それだけに、返って、申し訳ない気持ちが募るのだった。
レティシアほどの女だったら、どこかもっと有名な地位の高い貴族の屋敷で、十分奉公が勤まっただろう。
そうすれば、若くて美しいレティシアには、何かいい縁があったかもしれない。
ここにいれば、アンジェラの世話をし、時には、ピエールの手伝いまでもして、若い女が心躍らせるような出来事は、何一つなかった。
レティシアは、一度もいやな顔をしたことはなかったが。
それどころか、いつも朗らかに働いていた。
今も、久しぶりに会うフィリップを笑顔で迎えて、本当に嬉しそうだった。
その笑顔を見て、フィリップは嬉しいというよりも、この屋敷の主人として罪悪感がこみ上げるのだった。



 「アンジェラ様も、大そうお喜びになります」
「部屋かな」
フィリップは、これと言った調度品もない、狭い殺風景な玄関ホールから続く、二階への階段を小走りで上がる。
ピエールに、私が行くからいいわ、と手で制して、レティシアは、フィリップの後に続く。
「はい。昨日まで、高熱が続いていて、とても動けるような状況ではありませんでした。アルカンスィエルの街の様子は、ピエールが見に行って、知ってはいたのですが、アンジェラ様のお身体を考えると、逃げることもできなくて、ピエールと相談していたところでしたの」
「いつも迷惑をかけて、本当に申し訳ない」
「どうぞ、そのようなことはおっしゃらないでください。召使いに、気遣いは不要でございます。ああ、それと、先日から毎日、アンヌ様もいらしてくださって」
「アンヌ殿が」
フィリップは、驚きを隠せなかった。
アンヌは、ラングラン公爵の次女で、アンヌの姉、クリスティーヌはジャン王の妃、つまり、このユースティティアの王妃だった。
ジャン国王は、親族と取り巻きを連れて、アルカンスィエルからいち早く逃げ出したというから、アンヌも、とうにこの地を立ち去ったと思っていた。
「今、アンジェラ様についてくださっています。フィリップ様、アルカンスィエルに、グラディウスの兵士が押し寄せるなんて、本当でございましょうか?」
「本当だ」
フィリップの後に付いて歩くレティシアの、息をのむ声が聞こえた。